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昔のフィノ

 冷たい雨が降っていた。真冬の、とても冷たい雨だ。

 生まれてから、どれだけの太陽が空を通って行っただろう。きっとまだ五十回にもなっていなかったはず。

 気が付けば、親はどこにもいなかった。はぐれたのか、放っておかれたのか。

 自分がどこで生まれ、どこで暮らしていたのかもわからない。

 わかるのは、自分がこの冷たい雨の中、泥と自分の血で汚れた身体を引きずりながら、よたよたと歩いていることくらいだ。

 どうして身体が傷付いているのか、忘れた。怖くて覚えていられなかったのだろうか。

 山の中かどこかで、(たち)の悪い獣に襲われた。獣……魔物だったのだろうか。もうわからない。

 喰うつもりがなかったのか、死なない程度にもてあそばれていたような気がする。

 牙だか爪だかをたてられたらしく、身体には傷がいくつもできていた。小さな翼にも。

 飛べないように、最初に傷付けられた気もするが、よく覚えてない。

 必死で逃げた。そして、逃げ切った。

 後ろでドーンという音と、かすかな火の臭いがして、なぜか追っ手の姿がなくなったのだ。もう誰も追い掛けては来ない。

 それでも、止まれなくて、走り続けて。

 体力がなくなり、足が震えてもう走れなくなった頃、雨が降り出していた。

 雨足は強く、舗装されていない地面にはすぐ水たまりができる。

 でも、疲れと飢えでその水たまりをよけることもできず、身体が泥だらけになってしまうのに時間はかからない。

 痛くて寒い。しかし、何もかもすぐにわからなくなってしまった。身体が冷たくなって、全ての感覚が麻痺している。

 もう脚を動かすことすらできなくなり、いつの間にか地面に倒れていた。

 ただ、身体と翼が重い、ということだけを感じて。

 地面から、何かの足音が伝わった。この音からして、かなり大きな生き物だ。

 ここにいれば……ここはどこ? どこであれ、すぐに見付かってしまうだろう。でも、動けない。きっと、その生き物のエサになってしまう。

 このままなら、自分の命はもう長くない。せっかく逃げたのに。

 足音が、自分のすぐそばで止まった。もうすぐ喰われるかな、と薄れる意識の中で考えていると、ふいに身体が温かいものに包まれた。

 なに……これ……。

 言葉にならず、弱々しくかすれた声で「ミー」という音が口からもれる。意識が途切れ、また戻った時には身体のあちこちを触られていた。

 しかし、あの冷たい雨はもう当たらず、そこにはとても暖かな空気がある。

「ああ、よかった。目を開けてくれましたね」

 すぐ目の前で、そんな言葉が聞こえた。

 そこには、銀色の髪に青い瞳をした人間の姿。人間と言う存在は何となく知っていたが、実際にこうして見るのは初めてだ。

「もう大丈夫ですよ。ちゃんと傷の手当てをしましたからね」

 とても優しい声だ。人間はひどく危険な生き物だ、と誰かから聞いた気はするが、ここにいる人間は危険じゃない……と思う。

 油断させようとしているのか、と考えて、自分でもおかしくなった。自分が「油断させなければならない相手」だと思われるはずがない。

 この人間がその気になってこの細い首に手をかけても、きっとわずかに引っかいて抵抗するだけで、あっけなく息絶えてしまうだろうから。

 でも、この様子だと、この人間はそんなことをしないだろう。部屋の中と同じくらい、温かい。生まれて初めて「心地いい」と思った……気がする。

 目を閉じると、その人間がそばを離れて行くのが気配でわかった。それから、また眠ったらしい。

 目を覚ました時、遠くから声がした。

「アルテ。あなた、あの魔物をどうするつもりなの。お父さんがしばらく戻れない、こんな時に」

「どうするつもりもありません。今はケガをしていますから」

「ケガが治ってからはどうなの。小さくても魔物なのよ。ケガが癒えた途端に襲われるだなんてことは、いやですからね」

 あまり歓迎されていないことは、その口調からも明らかだった。

「魔物と一口に言っても、全てがすぐに人間を襲うようなものじゃありません。翼のあるねこは、人間を見たらすぐに姿を隠します。仮に襲ってくるようなことがあったとしても、あの子はまだ小さいですから、殺傷能力はほとんどありません。心配されるようなことは起きませんよ」

 つばさのあるねこ? ああ、そうか。あたし、そういう種だったんだっけ。つばさ、動くかなぁ。

 少し動かして痛みが走り、すぐにやめる。飛べないように傷付けられたのだった。どれだけ眠っていたかはわからないが、そう簡単には治らないだろう。

 まだ雨の音がしている。あの冷たい雨を身体が思い出し、ブルッと震えた。

 もう雨はいやだ。ただでさえ弱っている時に、あの雨は体温を奪い、命を吸い取ろうとした。

 でも、ここは暖かい。

 ふと前を向くと、小さな皿に白い液体が入っているのを見付けた。

 そっと近付き、なめてみる。冷たくないが、熱くもない。

 それが何かよくわからないが、おいしいと思った。

 全部飲み干し、満腹になると、とても幸せな気分になる。死にかけたことが嘘のようだ。

 ケガはともかく、気持ちだけはすっかり元気になった。

 急に好奇心が芽生え、自分のいる空間の探索に回る。

 目が覚めた所は、火の近く。全体的に見て、狭い空間だ。切り取られたような、囲われたような。

 空は見えない。少し高い所で雨が降っているのが見えたが、そこから雨は入って来ない。

 そこが部屋と呼ばれる空間だとか、雨が見えた所は窓だとか、後からたくさん知った。

 壁に並んでいる縦長の物は本と呼ばれる物で、窓の下にある妙な形の切り株は机と呼ばれる物だ、というように。

 でも、その時は見たことがないものばかりで、あっちこっち何度も歩き回った。

 警戒心などほとんどなく、だから、いきなり扉が開いた時にはびっくりして机の下へ隠れた。色々なものを見るのに夢中で、足音が近付いて来ることに気付かなかったのだ。

「あれ? ああ、ミルクはちゃんと飲んでくれましたね。えっと、それでケガねこ(にん)はどこに……あ、そこですか。大丈夫ですよ。誰もいじめたりしませんから。出ていらっしゃい。言葉はわかりますか?」

 部屋へ戻って来た人間……アルテは眠っているはずの仔ねこがいなくなったことに気付き、それから皿に入れておいたミルクが飲まれているのを見て少し安心した。

 まだこの部屋から出ていないはずなので捜してみると、机の下に隠れているのを発見。呼び掛けてみる。

 ほんとに……大丈夫かな。

 ここにいるのは、彼一人。他に気配はしないし、捕まえてやろうという雰囲気もないので、ゆっくり机の下から出て行く。

「ぼくはアルテ。魔法使いのたまごです。だから、他の人より少しはきみのことがわかると思います」

 まだ幼さの残る十二歳のアルテは、穏やかな口調で話しかけた。

「よければ、名前を聞かせてください」

「なまえ……?」

 名前って何だったろう。よくわからない。

 だいたい「自分がどういう存在なのか」ということすらも、ついさっきまでわからなかったのだ。名前なんて、わかるはずもない。

「名前、ありませんか?」

「……わかんない」

「それじゃ、ここにいる間だけでも、ぼくが名前をつけていいですか? 名前がないと、呼びにくいですから。えーと、そうですね……フィノ、というのはどうです?」

 ケガが治るまでの間だけ、ここにいるはずだった。アルテがつけてくれた名前も、その間だけのはずだった。

 なのに、アルテも彼がつけてくれた名前も、今では自分の一部のようにすっかりなじんでしまった。

 もう切り離せない。

☆☆☆

「結局、家に居着いちゃったあたしのために、アルテは魔法を使ってくれたのよ」

 ほんのわずかだけ、アルテは家族の意識をすり替えた。

 アルテが拾って来たのは、魔獣である「翼のあるねこ」ではなく、ただのねこだった、というように。

 魔法使いのアルテの父は、それを知っても何も言わなかった。

 息子を信じていたのか、フィノを信じてくれたのか。

「だから、あたしは……ちょっと、聞いてる?」

 返事がない。背中から聞こえてくるのは、かすかな寝息だけ。

 グレイヴァは、いつの間にかすっかり眠ってしまっていた。

「あたしが珍しく身の上話なんかしたのに……落としてやろうかしら」

 本気でそんなことを考えるフィノ。

 とりあえず、それは抑えて歩き、やがてアルテのいる所まで追い付いた。

「あら、あの精霊は?」

 そこにはアルテだけで、赤い髪と目をした精霊の姿はなかった。

「もしかして……置いて行かれたの?」

「いえ、ここをもう少し歩いて行くと洞穴があって、そこに鼓動石があるそうです。それを言って、消えました」

 精霊を見失ったのではなく、教えた後で消えたのなら慌てることもない。ということで、アルテはそこで待っていてくれたのだ。

「消えた? 消えたってどこに」

 フィノの背中で、グレイヴァが目を覚ました。でも、少しぼけている。

「どこ、と言われると難しいですけれどね。いるべき所へ戻った、とでも言えばいいでしょうか。とりあえず、教えられた所まで行きましょう」

「どうして鼓動石の場所、知ってたんだろ」

「グレイヴァってば、わからなかったの?」

「仕方ありませんよ、フィノ。ぼくだって、さっきようやく気付いたところですから。グレイヴァ、さっきの精霊は鼓動石の精です」

 しばらくぽかんとなるグレイヴァ。

「鼓動石って……俺達が探してる鼓動石?」

「そうです」

 それなら、石のある所を知っているのも当たり前。あの赤い髪と瞳は、鼓動石の色を示していたのだ。

「石に精霊なんているんだ……」

「ええ。何かしらの存在がそこにいるものですよ」

「あ、あそこね」

 昨日の夜を明かした穴より、高さ幅ともに少し大きめの岩穴がぽっかりとあいている。立ったまま入っても頭が当たってしまうことはないし、奥行きもありそうだ。

 アルテは周辺を歩き、松明(たいまつ)にちょうどいい大きさの枝を探して来た。その先に、魔法で出した火をうつす。

 アルテがそうしている間に、グレイヴァはフィノの背中から降りた。

「大丈夫なの、グレイヴァ」

「平気とは言わないけど、ずいぶん楽になったからな」

「ひねった足が、そう簡単に楽になる訳? 変な意地張って、ひっくり返っても知らないわよ」

 そんなことを言い合いながら、先を歩くアルテの後ろを追い掛ける。

「採掘されている所とは別ですね。だから、精霊がずっと棲んでいられた。その場所を人間であるぼく達に教えてくれた訳ですから、普通では考えられないことですよ」

 歩いていると、しっとり濡れた岩壁が松明の火に光る。確かに、人の手が入った様子はない。

「ふぅん。よくわかんないけど、あの精霊にとっちゃ、すっげーサービスしてくれたってことか」

「それだけ、グレイヴァの心が強く響いた、ということですよ」

「心って……な、何、こっぱずかしいこと言ってんだよっ」

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