Episode.77 意識
一面真っ白の世界……………コテージから見渡す景色は控えめに言って最高だった。日常から非日常へと移り変わり、それは日々の喧騒を忘れさせてくれた。なるほど。この景色を見ていたら、息抜きというものがいかに大事であるかが分かる。しかし、重ねて言うが今の俺達にそんな余裕があるかと問われれば……………
「大丈夫ですよ、塔矢さんなら」
「いやいや、何を根拠に」
「だって塔矢さん、頭良いじゃないですか」
「はい?あなた、忘れました?俺、中間テストで良い点を取る為にあなたに勉強教わってたんですよ?」
「でも、成績は別に悪くないですよね?」
「いや、まぁなんとか真ん中ぐらいは維持してるけど」
「なんとか…………ね」
「それと確かに成績も大事だけど一番大事なのは本番にいかに力を出せるかだろ?」
「それも大丈夫じゃないですか?」
「おいおい、そんな適当な」
「適当じゃないですよ?」
「いやいや」
「私には理解できません。何故、塔矢さんがそこまでして、ご自身の力を隠すのか……………本当はもっと勉強もスポーツだってできるのに」
「おいおい。今日はどうした?やけに褒めてくれるじゃないか。言っておくが、褒めても何も出せないぞ?」
「…………塔矢さんがそのスタイルを貫き通すというのなら、私はこれ以上何も言いません。というか、本来私には他人にどうこう言える権利なんかないんです…………けれど、分かって欲しい。今の塔矢さんを見ていると凄く歯痒くて」
「……………」
俯いてそう口にする静。俺はそんな彼女に向かって、穏やかにこう言った。
「買い被りすぎだ。俺はどこにでもいるごくごく普通の平均的な高校生だよ」
「…………本当に?」
「こんな壮大な景色を前に嘘なんてつけるもんか」
「………ふふっ。それもそうですね」
そこからは和やかな雰囲気で会話が進んだ。ところが、それとは正反対にあんなに晴れていた天候は次第に悪くなっていき、昼になる頃には視界のほとんどが吹き荒れる雪に埋もれ、100m先すら何も見えなくなってしまったのだった。
「ん?お兄ちゃん?どうしたの?」
「悪い、光。日帰りする予定だったんだが、こっちの天候が荒れに荒れてな……………急遽、泊まっていくことになった」
「えっ!?二人とも大丈夫なの!?」
「ああ。幸い、室内にいるからな……………流石にこんな天候じゃ、外に出る気にはなれないわ」
「良かった〜……………あっ。でも、油断はしちゃ駄目だからね!」
「分かってる」
「静先輩から目を逸らすのも駄目だよ?夜はまだまだだけど、万が一ってこともあるんだから」
「ああ」
「よし…………じゃあ、後は静先輩と代わってくれる?やっぱり心配だから、直接声が聞きたいな」
「分かった」
それから、俺は静に携帯を渡した。すると静は一瞬不思議そうな顔をしていたが、俺の表情からすぐにその目的を察し、ゆっくりと携帯を耳に当てた。その後、二人は何やら話をしていたみたいだったが、それもすぐに終わり、どこか考え込んだ様子の静が携帯を控えめに返してきた。
「光、何だって?」
俺がそう軽く訊くと静は取り繕ったような笑みを浮かべ、極めて何でもないと言いたげな表情でこう答えた。
「暖かくして寝て下さい………だそうです」
その瞬間、外に吹き荒れる吹雪は一層強まった気がしたのだった。
兄から急な悪天候の為、帰宅できないと伝え聞いた夜…………私は兄の部屋の扉を静かに開け、ゆっくりと中に入った。何故、堂々と入らないのか。それは後ろめたさを自覚し、無意識のうちにコソコソとしてしまっているからだ。特段、兄の部屋に用事などはない。これは完全に私のわがままな行いだった。もしもこんな姿を兄に見つかってしまえば、きっと私は軽蔑の眼差しで見られてしまうだろう。
「お兄ちゃん……………」
けれども私は自分の欲を抑えることが出来なかった。ゆっくりとではあるが、着実にこの足はとある場所へと向かっていた。
「………………」
目的の場所……………兄のベッドの前まで辿り着くと私はそこへ静かに腰を下ろした。そう、ベッドの前へだ。流石にまだベッドへは飛び込む勇気がなかった。
「はぁ……………」
そうして岩場に座る人魚のように女の子座りをした私は指先で円を描くように兄のベッドのシーツを右手の人差し指でなぞる。と同時にため息が一つ出た。左腕は現在、ベッドの上に置き、そこに頭を斜めにして寝かせている。だから、だろう。吐息は自分の手の甲に当たり、そこだけがやけに生暖かかった。
「何やってるんだろう、私」
円を描いていた人差し指は気が付けば、ベッドの縁を横になぞっていた。人がよく考え事をしている時などに無意識にやる動きだ。そこに意味など特段ない。しかし、どこでもいい。無意味とはいえ、身体の一部分でも動かしていないと余計なことを考え、余計なことをしかねない。今の私はそんな状態に陥っていたのだ。
「……………」
そうこうしているとやがて視線はある一点へと向かっていくこととなった。そう。さっきまで飛び込むことを躊躇していたはずの聖域だ。そこは本人以外、何人たりとも踏み入ることが許されない禁断の領域だった。
「少し…………少しだけ……………」
私はまるで風邪にかかった時のように熱を帯びた身体をゆっくりと動かし、一部分ずつ確かに確実にそこへと滑り込ませていった。
「はぁ……………はぁ………………」
そうして全て浸かるようになる頃には息が上がり、上気した頬では氷すらも溶かせてしまえそうな程だった。両手はしっかりと全面真っ白なシーツの海を掴み、態勢が横向きだった為、足は上下に重ねていた。こうして海老のように身体を逆くの字にしながら横になって丸まっているとどこか寂しさを感じる。私はいつから、こんな弱い人間になったのだろうか……………最近、いや、もしかしたら気付いていないだけで本当は昔からそうなのかもしれない。ただ、昔は今ほど兄の周りにあんなにも魅力的な異性がいなかったら、心が平静を保っていられただけではなかろうか。どちらにしても今はとにかく……………
「会いたい…………会いたいよぉ……………早く帰ってきて」
当然、届くはずもないその言葉は宙に吸い込まれ、どこかへと消えていく。どうせなら、私ごと吸い込んでどこかへ飛ばしてくれないだろうか……………それこそ、今最も会いたい人の元へ。
「………………」
それから私はそのままベッドに横になったまま、いつのまにか眠ってしまうのだった。兄の匂いのするベッドに横になっているとまるで兄に包み込まれているかのようでとても安心したのだ。だから、私は思い切り、それを吸い込み、シーツがくしゃくしゃになるほど強く握り締め、気が付けば朝を迎えていた。




