Episode.68 婚約者⑧
「トール殿!どうなされたのですか……………婚約の話はなかったことにして欲しいなどと。あまりにも急ですぞ」
「すみません、ダイゴさん。実は私には既に心に決めた相手がいるのです。だから、あなたの娘であるレイ…………ミス・ヨリシロとの婚約はできかねます」
「……………そうだったのですか。そちらの事情も知らず、申し訳ありません」
「いえ。私もなかなか父に言い出せず、ご迷惑をおかけして申し訳ございません……………しかし、色々と考えましたが、やはり間違っていると思いますね」
「間違っている?」
「はい…………本人の意思を無視した婚約など」
「っ!?」
「ダイゴさんはそこら辺、寛容だと思っていたのですが……………それこそ彼女が連れてきた相手であれば、どんな者だろうと受け入れてくれるような」
「………………確かに私は以前よりも柔らかくなった部分はあるかと思います。現に妻にもそう言われました……………しかし、娘のこととなるとやはり、冷静ではいられなくなると言いますか」
「彼なんかいかがでしょうか?」
「彼?」
「ほら………私と彼女との顔合わせの時、一緒に来ていた。確か…………」
「春日伊塔矢!まさか、トール殿も奴を高く買っているんですか!?」
「そうそう。そんな名前でしたね」
「はぁ…………何故、トール殿まで奴を」
「ダイゴさん?」
「やめて下さいよ。奴のことは玲華から散々聞かされて嫌になってるんですから。正直、あんな奴のどこが優れているのか、分かりません。性格だって、どうせ良くないですよ」
「ダイゴさん、決めつけは良くないですよ。もしかしたら、彼はあなたが知らないだけでとても優秀で人間的にできている人かもしれないじゃないですか」
「……………婚約破棄の件は了解致しました。ですから、もうこの話は終わりにしましょう」
「分かりました。ですが、最後に一つだけ……………ダイゴさんは私が彼を高く買っているんじゃないかと疑っていますが私は全く逆だと思っています」
「逆?」
「はい…………私はあなたが彼を低く見積もりすぎているんじゃないかと疑っています」
「何を馬鹿なことを……………」
「……………」
「お言葉を返すようですが、もしも仮にトール殿の考えている通りだとしたら、それが何だっていうんです?あんな小僧のどこに光るものがあるっていうんですか。あんなのどこにでもいる、ごくごく普通の……………」
と依代大吾がそこまで言った時だった。突然、どこからか、ピアノの音色が聞こえてきたのは………………
それは美しい旋律だった。技術的な面ももちろんそうだが、それ以上にそこには気持ちが乗っかっていた。誰もが一度は聞いたことのあるクラシック音楽…………されど、それはその者にしか弾けない、まるでオリジナルソングのようになっていた。
「「「「……………」」」」
トールと大吾の2人が駆けつけた時、既にその場には先客がいた。玲華と彼女の母である。2人はそのことを確認するとそっと彼女達の側まで移動し、何故か用意されていた椅子へと腰を下ろした。
「まさか、彼にこんな一面があるなんて…………それにしても美しい音色ね……………ね?玲華」
「……………」
「玲華?」
母の質問には答えず、ピアノ…………正確にはピアノを弾いている者へと視線を注ぎ続ける玲華。一体何を考えているのか、その表情から読み取ることはできそうになかった。
「あの小僧…………」
「ね?言った通りですね。やはり、彼にはこういった才があった」
「いや、しかしですね…………トール殿?」
「ははっ……………参った。せめて音楽だけならと思ったのにまさか、完膚なきまでに叩きのめされるとはね…………これは僕の完敗だ」
その後もそれぞれが複雑な胸中を抱えながら、演奏に耳を傾けた。本来ならば、考え事をしていたら演奏など集中して聴くのが困難なはずではあるのだが、何故なのか……………この時ばかりは違っていた。目を瞑り、思いの丈を乗せた彼の演奏は不思議と聴く者の心を捕えて離さず、また美しいその調べは絡まり合った心情を解きほぐしてくれるようで非常に心地が良いものだった。そうして十分程が経った頃に演奏は突如として終わりを迎え、皆が彼へと歩み寄った。そこには嬉しそうな笑顔や晴れやかな表情、苦虫を噛み潰したような顰めっ面…………そして、無表情という四者四葉の顔があったのだった。
「本当に帰るんだな」
「その約束だからね…………わざわざ空港までお見送り、ありがとう」
「お前みたいな奴はもっとごねてきそうだと思ったわ」
「あんなの見せられて、まだブツブツ言ってたら、それこそダサいでしょ」
そう言って、不意に視線を空へとやるトール。本日は晴天なり。そこには透き通った青の絨毯が広がっていた。
「…………そろそろ時間だ」
「……………」
そうは言ったもののしかし、全くその場を動く気配のないトール。俺がそれを訝しんでいるとトールは徐にキャリーケースから手を離し、
「ふっ!!」
俺の顔目掛けて、思い切り拳を突き出してきた。
「…………流石だ」
「何のつもりだ?」
顔を横にすることでそれを避けた俺は視線を鋭くしてトールを睨む。もしかしたら、まだ懲りていないのかもしれない。
「ごめん。最後にもう一度確認したくて…………僕に勝った男の実力を」
「俺じゃなかったら、大惨事だぞ」
「ごめんごめん。僕って、諦めが悪くてさ……………でも、そのおかげでたった今、新しい目標も出来たよ」
「?」
「ありがとう。君には多くを見せてもらった。日本で過ごしたこの数日間を僕は一生忘れることはないだろう」
「あっそ」
「興味なさそうだね」
「当たり前だろ。お前のことなんか、どうでもいいもん」
「ははっ。手厳しいね……………でも、いつか君の眼中に入ってみせるよ」
こうして、よく分からん捨て台詞と共にトールは日本を発った。俺はといえば、無事にミッションを完了し、ほっと一息ついたのだった……………あ、やべ。光に買い物頼まれてたんだった。




