Episode.40 仮面の下を知りたくて
「婚約者…………?」
その言葉を理解するのに一体どれほどかかっただろう。頭の中ではまるでそろばんを弾くがごとく、様々なことが浮かんでは消え、目まぐるしく変化していた。しかし、側から見ると春日伊塔矢本人は全く動きを見せていないように感じることだろう。そうして動きを停止していること数分…………いや、現実時間としては数秒か、やっとのことで絞り出した言葉が先のものだった。
「はい…………私があなたの婚約者です」
繰り返し告げられた言葉は幸か不幸か、やはり聞き間違いなどではなかった。今まで一度たりとも目の前に現れたことのない今、俺が最も気になっている人物…………つまり婚約者がこうして目の前に立っている。この急遽訪れたサプライズに俺はどうしていいか、まるで分からなかった。
「そう…………ですか」
俺はありきたりの返答しかできないこの時の自分を呪った。しかし、何を話せばいい?いや、聞きたいことなら、いくらでもある。何故、今まで姿を隠していたのか?それにこのタイミングで姿を現したのは何故か?何より、彼女の目的とは一体なんなのか?
「……………」
泡のように浮かんでは消えていく疑問。やばい。思考がまとまらない。いくらなんでも急すぎる。さっきまで考えていたことが思いつかない。そうして俺が戸惑っているとなんと彼女の方から話を振ってくれた。
「ここは賑やかでいいですね。それに皆さん、幸せそうで何よりですわ」
「………あなたも楽しそうですね」
これにより、若干緊張の解けた俺はゆっくりと言葉を吐き出した。そして、軽く深呼吸をする余裕も生まれた。逆に考えれば、これは絶好の機会。ここで少しでも婚約者の情報を手に入れたい。あわよくば、その正体も……………。
「ふふふ。もちろん」
「何故、今まで俺の前に姿を現さなかったのですか?」
「私が極度の人見知りだからですわ。普段、他人と話すのにも一苦労するのにそれがお慕いしている殿方となれば、尚のこと」
「何故、今になってこうして俺の目の前に現れたのですか?」
「私、ずっと葛藤していましたの。塔矢様にお会いしたい、でもそんなの恥ずかしくてできっこないって…………そんな時、このパーティーの存在を知ったんですの。参加者全員が仮装することが条件のこのパーティーでならば、こうしてお会いすることも可能だと思って……………それでもやっぱり緊張はしていますわ。だって、目の前に愛しの殿方がいらっしゃるんですもの。それでもやっとお会いすることができて凄く嬉しく思いますわ」
「…………婚約者がいるって親父から聞かされて俺が…………俺が一体どんな思いで今日まで過ごしてきたか分かりますか?」
「塔矢様…………」
「やっと会えたじゃねぇよ。勝手に一人で舞い上がってんじゃねぇよ。一方的に振り回すなよ。人見知りだとか言って逃げてんじゃねぇ。そこは勇気を持って出てこいよ。それに……………本当に好きなら、声まで変えて出てきてんじゃねぇよ!!」
そう。目の前に立つこの彼女は…………一世一代の勇気を振り絞って出てきたはずの婚約者は変声機のようなものを使って俺と話をしていた。
「……………」
「この期に及んで逃げんなよ…………何がしたいんだよ」
俺の必死の想いはどうやら伝わったらしかった。彼女は少しの間、顔を伏せるとこう言った。
「申し訳ありません。別に塔矢様を謀るつもりも何か他の目的があった訳でもありませんの。ただただ私が意気地なしというだけの話で…………でも、それで他でもない塔矢様にご迷惑をおかけしたんじゃ話になりませんよね」
「いや、ごめん。なんかその、言いすぎたよ。たぶん、色々と溜まってたんだと思う」
「いいえ。悪いのは私です。塔矢様は何も悪くありません。私にもう少し勇気があれば、よろしかったんですが」
「……………」
「でも、結果的に良かったです。だって、あなたがとても優しい人だと再認識できたので」
「っ!?」
「あ、すみません。これは私が言っていい台詞じゃなかったですね…………やっぱり、今日の私はどこかおかしいみたいです。緊張しているのか、疲れているだけなのか…………どっちにしても今日はこの辺で失礼させて頂きますわ。部屋に戻ってゆっくりしたいので」
「えっ………」
俺はもう少し話をしていたかった為、彼女の突然の申し出にショックを隠せなかった。だが、ここで立ち止まったまま、ぼんやりとしている訳にはいかない。
「……………」
とはいっても何を言えばいい?どうしたら、彼女は足を止めてくれる?仮に止めてくれたとして、俺は何がしたいんだ?…………ええい、先のことなど構うものか!!
「俺は…………!!」
俺はこのまま彼女をすんなり帰すまいと痛くなる程、頭を回転させ、最終的に零れ落ちた言葉をありったけの声で叩きつけた。
「俺はあなたのことをもっと知りたい!!」
すると、それが通じたのか彼女は一瞬だけ足を止めて微笑むとこう言った。
「今はそのお言葉だけで十分です」
彼女のシルエットが幻想的なこの世界から淡く消え去っていく。まもなく俺も現実へと帰る時間が来るのだろう。しかし、今の俺にはここを動くことができないでいたのだった。




