Episode.35 秋風
夏の影もだんだんと鳴りを潜め、周囲が忙しなく行き交う今は九月の中旬。いよいよもって、月末に開かれる文化祭の準備に各所が追われていた。かくいう俺もこんなところで物思いに耽っている場合ではないのだが、いかんせん気が乗らないのは致し方ない。気の早い生徒が衣替えしたばかりの慣れない制服に戸惑っているのをぼんやりと眺め、気まぐれでやってきた秋風にふと吹かれている……………とそんな俺に声が掛けられた。
「こんなところでサボりとはいい度胸だな、文化祭実行委員」
「……………そんな俺に声を掛けるとはあなたもサボりですか?…………文化祭実行委員長」
やってきたのは綾乃さんだった。わざわざこんな屋上までご苦労なこった…………まぁ、その原因を作ったのは俺なのかもしれないが。しかし、クラスの出し物の手伝いはとっくに終わっているし、そもそも実行委員としての仕事も今はない。だから、こうして堂々とサボっ…………心地の良い秋風に吹かれていても何の問題もないのだ…………と誰に対してかも分からぬ言い訳をしてみたり。
「中途半端なことをするな、少年よ。サボるのならば、堂々としていろ」
「いや、あなたがそれを言うんですか?ここは注意をするところでしょ」
「君がそうして欲しいのなら、そうするが?」
「いえ……………遠慮しておきます」
「私が言いたいのはせっかくサボるんなら、もっと気持ちよくサボれってことだ。今の君は正直、見るに耐えないぞ」
「……………」
「心の中で言い訳をするということは自分でも後ろめたいと感じているんだろ?それでは全然気持ちよくないじゃないか」
「仮にも実行委員長の言う台詞じゃないですよね」
「仮とはなんだ、仮とは!私はれっきとした委員長だ!!」
「なら、そんなこと言うなよ!!」
「……………」
「……………」
「文化祭、楽しみじゃないのか?」
「そういう訳じゃないですよ。ただ周りほど文化祭に対して、熱がないんです。それに今は本当に仕事がないですし」
「探せばいくらでもあるだろう。仮にも実行委員なんだしな」
「まぁ、くじ引きで決まったお飾りの役職ですけどね」
「そこは"仮とはなんだ、仮とは!俺はれっきとした委員だ!!綾乃さんの奴隷だ!!"くらい言ってみせろ」
「俺はあなたほど志しが高くないんですよ。あと、最後にしれっと変な肩書きつけ加えるな」
「なるほど。姿勢の問題か。どれ、私が直してやろう」
「ちょっ!?何するんですか!?痛い!!痛いですよ!!」
「ん?何って、姿勢を直してやろうとだな」
「姿勢ってその姿勢じゃないですよ!!日本語の妙を的確に突いてこないで下さい!!」
「……………私にとっては最後の文化祭だ」
「綾乃さん?」
「これは私のわがままになるのだが」
「……………」
「君が最高に楽しんでいる姿を見てみたい……………いや、違うな。正確には君を最高に楽しませたい」
そう言って微笑む綾乃さんに俺は返す言葉がなかったのだった。
次の日の放課後、俺は綾乃さんの家の道場を訪れていた。古武術…………日本に古くからある武術のことでその戦闘スタイルは武器を使ったものから、忍術などの特殊な技術を用いた戦術まで多岐に渡る。元々は人を殺める為に生み出されたものが(というよりも武術の大半がそうであるが)、今ではスポーツとして昇華され、鑑賞用の武芸として広まっている。綾乃さんの家は代々、その古武術を扱う家系であり、"紫風道場"といえば門下生500名を有する相当なものらしい。まぁ、よく知らんけど。
「「………………」」
で、そんな大それた道場の真ん中に何故か、俺は座らされていた。しかも少し距離を空けて綾乃さんと向かい合った状態で。
「すまないな。いきなり招いて」
「いえ、それは俺の台詞ですよ。いいんですか?俺なんかがこんな由緒正しい場所にお邪魔しちゃって」
「ただのボロ道場だ。そう畏まるな」
「今の台詞、きっと師範が聞いたら怒りますよ」
「安心しろ。師範は私だ」
その瞬間、綾乃さんが鋭さの増した瞳で俺を見つめてきた……………あれ〜?何でそんな目で俺を見るのかな。
「とはいっても上には上がいる。未だ父や祖父には勝てた試しがない。だが、いつまでも現役で道場に張り付いていたくない……………そう言って、全てを私に丸投げしてきたんだ」
「なんか綾乃さんのご家族って感じがします。とんでもないですね」
「それは褒めているのか?」
「ええ、割と」
綾乃さんは俺の言葉に軽く苦笑すると居住まいを正した。鈍感と言われることはあるが、俺もただの馬鹿ではない。ここに連れて来られた時点で何をさせられるのか、おおよその検討はついていた。とうとう始まるということだろう。
「昨日も言った通り、私は君に文化祭を最高に楽しんでもらいたい。だが、口で言って強制的にそうさせたところでそこには何の意味もない。だから、強硬手段に出ることにした」
「あの、接続詞からなにから文章がおかしいんですが…………それに強硬手段に出るのが早くないですか?昨日の今日ですよ?」
「ただ待っていたって何も始まらない。"鉄は熱いうちに打て"だ」
「俺のモットーは"果報は寝て待て"なんですがね」
「君の場合は寝過ごして気が付かないだろ。それじゃあ、せっかくの果報も台無しだ」
「……………はぁ。年貢の納め時か」
俺の答えにニヤリとした笑みを浮かべた目の前の綾乃さんはしかし、目を閉じて数秒後には武人の顔になっていた。明らかにさっきとは纏うオーラが変わっている。そして、それはこの場の空気にも伝染し、道場内には一気に緊張感が流れ出した。
「ルールは?」
「時間無制限。相手が降参の意を伝えた場合、決着とする。私が勝った場合、君には全力で文化祭を楽しんでもらう。私が負けた場合は君の望みを出来る限り、叶えよう。そして、審判及び見届け人として、この方々にお越し頂いた」
綾乃さんがそう言うのとほぼ同時に扉を開けて入ってくる二人の男。見た感じからして、只者ではない。保有する筋肉の質、さらにはこちらに向かってくるまでの足運びからしても間違いなく目の前の綾乃さんよりも強いだろう。
「私の父と祖父だ」
そう紹介を受けて俺の近くに立つ二人……………なんだか、凄い見られてる気がする。
「お前か?俺の娘にちょっかい掛けてるのは」
いや、どっちかと言うとちょっかい掛けられてるの俺なんだけど!!あと、目つきが怖い!!なんか、玲華のお父さんと同じ感じがする!!
「いや、何でワシ呼ばれたの?帰って、酒飲みながら、ピラニアに餌やりたいんじゃが」
こっちはやる気ない!!てか、なんつーもん飼ってるんだよ、この爺さん!!
「ご、ごほんっ!ということでこれで私達は心置きなく試合ができるという訳だ」
「何が"という訳で"ですか!俺、試合中、どさくさに紛れてお父さんにやられるんじゃないですか!?全然安心できませんよ!!」
「おい、クソガキ!!俺はお前なんぞにお父さんと呼ばれる筋合いはないぞ!!」
「ひぃっ!?」
「おい!話をややこしくするな、馬鹿が!!さっさと始めてもらうぞ」
爺さん!まさか、俺を助ける為に……………
「そんで終わったら、次はワシが相手じゃ。こんな小僧にワシの日課を邪魔されては脳の血管が千切れてしまいそうじゃわい」
爺さん!?やっぱり、この人達、家族だ!!
「ご、ごほんっ!!では塔矢くん。そろそろ始めようか」
「は、はい」
このままだと収拾がつかなくなりそうだと判断したのか、綾乃さんは咳払いを一つすると所定の位置についた。そして、それに促される形で俺も位置につく。
「「……………」」
いざ、試合が始まるとなるとこの場に漂う緊張感はその色を一層濃くした。俺も俺で試合に集中するとなると綾乃さんのお父…………審判の憎悪に満ちた鬼の形相も特段気にならなくなった……………いや、嘘です。ちょー怖い。早く帰りたい。
「始めっ!!」
まもなく試合の火蓋が切って落とされた。審判の掛け声と共に力強い踏み込みでこちらに向かってきた綾乃さん。そこから繰り出されるは素早く重さの乗った打ち込みだろう。
「うおっ!?」
これを俺は身体を逸らすことによって紙一重のところで避けた。全く…………冗談じゃない。あんなの食らったら、ひとたまりもないぞ。
「流石は塔矢くん。やはり避けてきたか」
「何が流石かは分かりかねますが、どうでしょう?これで手打ちってことで」
「今の私を見てもその台詞が吐けるかな?」
「っ!?ちくしょうが!!」
俺は思い切り叫びながら、綾乃さんから距離を取る。すると、一秒前まで俺がいた場所へと鋭い蹴りが繰り出された。広範囲の回し蹴りだ。大袈裟なぐらい避けていなければ、おそらく命中していただろう。
「おい、あの小僧…………」
「ああ、分かってるよ。てか、一目見た瞬間に気付いてんだろ?」
何やら外では二人で俺の話をしている。何だ?いつ半殺しにしてやろうか計画でも練っているのか?やだ、何それ怖い。
「避けてばかりじゃ勝てないぞ?」
「って言ったって攻撃され続ければ避けに回るしかないでしょう!」
俺は綺麗な姿勢から次々と繰り出される拳や蹴りをなんとか躱していく。あ〜頼むから、さっさと攻撃が止んでくれないかな……………
「っ!?」
「へ?」
とそんなことを考えていると審判である綾乃さんのお父さんが俺達の間に入り、試合に待ったをかけてきた。
「父上!何故、邪魔をするのです!?私は今、真剣に…………」
「そうだ。少なくともお前はそうだ…………だが、クソガキ。お前は違うな」
お父さんの言葉によって、この場にいる全員の目が俺へと降り注ぐ。一体なんなんだ、この状況。
「この試合がどんな経緯で行われたものなのか、そこにどんな想いがあるのか、なんてのはどうだっていい。だがな、両者が納得して始まった神聖な試合に対して、真剣に向き合わないっていうのは武人としてはあるまじき光景だ」
「いや、俺は武人じゃ…………」
「じゃあ、一人の人間として……………だ」
「……………」
「これ以上、そんな無様な試合を見せつけられるのであれば、俺は審判を下りる。もちろん、そうなれば、ここを使っての試合も取りやめだ。そうだな。俺達の視界に入らない…………どこか遠くの河原にでも行ってやってくれ」
「父上!!」
綾乃さんが悲痛な表情で叫ぶ。これは非常に悪いことをした。彼女がどんな想いでこの試合に臨んでいたのか、俺には分かっていたはずだった。しかし、俺はその想いを踏み躙った。また、そればかりか、ここにいる全員を武術を冒涜してしまったことになる。
「皆さん、すみませんでした!!」
俺は頬を強く叩くと深く頭を下げた。この人達は本気で武術を愛しているのだ。ならば、自分にできるのは謝罪とこれから真剣に試合へ取り組むことだけだ。
「ふむ。潔いな。自分の誤りをすぐに認め、その場で正す……………なかなかできるもんじゃないのぅ。若い者にとっては尚更な」
「…………いけるか、春日伊塔矢?」
俺を見つめる目が武人に対してのものへと変わった二人。また、俺の雰囲気が変わったのをいち早く察知した綾乃は再び、構え始める。
「……………」
俺は綾乃父の言葉にただ黙って頷いて返し、綾乃とは別の構えを取り始めた。
「ん?あれは…………」
「……………」
綾乃祖父が何か呟き、綾乃父が言葉なく見つめてくる。ここにきて俺の意気込みはさっきと打って変わっていた。
「始めっ!!」
綾乃父の掛け声。ここはさっきと同じだ。しかし、違ったのはそこからだった。
「っ!?」
俺は綾乃よりも力強い踏み込み、綾乃よりも素早く重い打ち込みを真正面へ向かって繰り出した。これに対して、綾乃は咄嗟に両腕をクロス…………ではなく身体の正面に重ねるブロッキングのような体勢で持って防いだ。
「何て重い一撃だ…………次に食らったら、武人生命が終わるな、こりゃ」
しかし、いくら身体構造を理解しようと、力・身体の使い方を学び、活かすことができようとも圧倒的実力差があれば、それは気休めにしかならない。それを彼女も痛感しているのだろう。顔を顰めながら、構えを取り直そうと四苦八苦していた。
「次はそちらが打ち込んできて下さい」
「……………分かった」
本来、歳下でなおかつ先程まで逃げ回っていた者から言われれば腹も立ちそうなものだが、綾乃はそんな表情をチラリとも覗かせず、了承した。
「いざ…………参る!!」
負傷しているはずであるが、これまでで最も早く威力のある一撃を放つ綾乃。俺はそんな彼女の打ち込みを化頸を使い、受け流す。途端、驚いた表情をする綾乃。しかし、彼女がこれに対して次の行動を起こすことは出来なかった。何故なら、俺は既に次の手を打っていたからだ。
「ぐっ!?」
左手で受け流した俺は右貫手を綾乃の左横腹へ向けて放った。もちろん威力は抑えてある為、武人生命が終わるなどということはない。せいぜい蹲り、起き上がることが不可能になるだけだ。
「……………」
だが、そんな俺の予想に反して綾乃は内股になりながら生まれたての子鹿のように震えながらも立ったまま、俺を睨み据えていた。
「まだ………まだだ。まだ私はやれる………………こんなに強い武人に出会えたのにこれで終わりなんて悲しい……………いや、違うな。私は勝ちたいんだ」
「…………これ以上やれば、どうなるか分かりませんよ?」
「構わない!!だから、最後までちゃんと向き合ってくれ!!」
俺はそんな彼女に対して、ため息を吐くとゆっくりとその距離を縮めた。
「…………はっ!!」
そして、十分に拳が届く距離になったところで繰り出された綾乃の打ち込みを俺は最小限の動きで躱すと彼女の足を払い、
「っ!?」
前のめりになった彼女の腕を取って、その身体を背負うと前方へ向かって振り下ろした。
「うっ!?」
いわゆる一本背負いと呼ばれるそれを食らい、畳の上に叩きつけられた綾乃だが、ギリギリのところで受け身が間に合ったのか、どうにかこうにか苦悶の表情と声を上げるだけに留まっていた。俺としてはこれ以上立ち上がって欲しくなくて、放った技だったが……………
「…………参った」
「ふぅ」
「「……………」」
果たして、その思いは無事に届き、綾乃さんは降参の意を伝えてくれた。俺はこれにほっと一息ついて、ふと周りを見渡すと何か言いたげな表情の二人がいた。
「これって、俺の勝ちですよね?」
「ああ。勝者………春日伊塔矢!!」
「はぁ〜良かった〜」
その試合終了の合図を聞いた俺はゆっくりと腰を下ろそうとした。
「っ!?」
「ほぅ?これを躱すか」
しかし、三メートルはある距離を一瞬で詰めてきた爺さんの打ち込みによって、それは叶わなくなった。上体を逸らすことでなんとか躱したものの、こんなことを続けていたら、いくら身体があったって保たないぞ。
「勘弁して下さいよ」
「言ったじゃろう。次はワシが相手じゃと」
「えっ!?あれ本気だったの!?」
「まぁ、気にするな。ほんの肩慣らしじゃ。ラジオ体操のようなものだと思えばいいじゃろ」
「そんなんで殺されかけたら堪りませんよ」
「でも、無事じゃないか」
「それは俺が避けたからじゃないですか!!全く…………流石にお爺さんの相手となると…………」
「ギアをもう何段階も上げねばならんのぅ?で?あと何段階まで上げられるんじゃ?」
「……………」
「うちの爺さんがすまないな。だが、許してやってくれ。久しぶりに現れた強者に昂っているだけなんだ」
「勘弁して下さいよ〜」
「いいや、勘弁せんよ!!近頃の道場破りときたら、軟弱者ばかりでかなわん!!で?塔矢は一体いくつの武をどこで学んだんじゃ?」
「早速、ファーストネームで呼んできてる、この人〜!!」
俺の叫び声が道場内に木霊する。これにはこの場にいる全員で笑い合った。特に綾乃さんが大きく笑い、そして、その瞳からは涙が溢れていた。そこにどんな意味が含まれているのか、俺は聞かなかった。気が付けば、開け放たれた道場の扉からは秋の涼やかな風が入り込み、それは彼女の美しい紫色の髪を静かに揺らしていたのだった。




