Episode.24 走り切って
約束…………約束……………。
「………………」
俺の頭の中は美鈴に言われたあの言葉で一杯だった。
「………………」
ふと横を見れば、そこには相変わらず静かに外を見つめる美鈴の姿があった。
「約束……………一体何のことなんだ?」
約束といえば、今のところ俺に思い当たるのは1つしかなかった。静が転校してきた日に見たあの夢……………その中で俺と少女はある約束を交わしていたのだ。
「でも、本当にあの少女が美鈴なのか?」
そもそも夢の中の少女は俺のことを塔矢くんと呼んでいた。しかし、美鈴は俺を塔矢と呼び捨てで呼ぶ。やはり、どう考えてもあの少女と美鈴が結び付かなかった。
「じゃあ、もう1つの方か?」
それは直近で見た夢のことだ。雨の降りしきる中、シャッターの閉まった店の軒先で雨宿りをする俺と少女……………おそらく、幼い頃の記憶だろう夢だ。
「でもなぁ…………」
問題はあのやり取りを約束と捉えるかどうかだ。見る者によってはただの日常会話のワンシーンとも捉えることができる。それに美鈴は公園の砂場で約束を交わしたと言っていた。であれば、場所も違うということになる。それになにより………………
「あの少女も"くん付け"なんだよな」
ということはやはり、どちらの夢の少女も美鈴ではないということに………………いいや、待て!!心境の変化から途中で呼び方が変わるなんてことはよくあることだし、それに……………何かの本で読んだことがある。
「確か……………そう!"記憶の書き換え"だ!!」
人間には何らかの心理的負荷がかかる際にその防衛本能として、記憶を書き換える機能が備わっていると。つまり、あの雨の中での少女とのやり取りも本来は軒先なんかではなく砂場で行われていたとしたら?
「いや、でも考えすぎか?」
そもそもあのやり取りを約束と捉えるかどうかという話はどこへいった……………いけない。頭が混乱してきた。
「はぁ……………ん?」
答えが出ないまま、再び横をチラリと見るとそこで俺はあることに気が付いた。
「………………」
美鈴の見つめる外……………正確にはその先にグラウンドがあるということに。
「どうしたの?こんなところに呼び出して」
放課後のグラウンド。そこにいるのは俺と美鈴の2人だけだった。しかし、それもそのはず。まだ梅雨も明け切っておらず、雨が降りしきるこの状況では流石にグラウンドを使う部活など皆無だろう。
「それにわざわざ体操着に着替えさせて」
だからこそ、俺はこのチャンスを逃すまいと美鈴をグラウンドに呼び出した。それも汚れてもいいようにわざわざ俺の体操着を渡して。
「ちょっとな……………もしかしたら、これから汚れるかもしれないからな」
「は?」
そう。これから行われることに限っていえば、ほぼほぼ間違いなく服が汚れることになる。だから、俺はあえて自分の体操着を渡して、それに着替えてもらったのだ。自分の用事に付き合ってもらうのに美鈴の体操着を汚してしまう訳にはいかない。幸い今日は金曜日。仮に汚れてしまっても土・日を挟めば洗濯は間に合うはずだ。
「別に私は自分のでも構わないんだけど」
「靴は美鈴のだろ?」
「まぁ、そうだけど……………って、私が言ってるのは体操着のことで」
「お前さ」
俺のその声は雨音を超えて、不思議と大きく発せられた。
「……………何?」
美鈴は俺の真剣な表情を見て、これから行われるのがただの世間話などではないということを察したのか、やや間を空けてから小さくそう返してきた。
「陸上……………続けたかったのか?」
「っ!?」
彼女のその反応に全てが詰まっている気がした。
「……………図星か」
「……………」
俺と美鈴の間にある距離。それは傘に当たる雨粒の音が互いに聞こえない程だった。ふと地面を見れば、今まで幾千と使われた白線が雨でかき消され、幾万と踏み固められた土が泥へと変わるところだった。
「「………………」」
互いに無言の時間が続く。雨の中、こうしてただ立ち止まったままの俺達に怪訝そうな表情を浮かべながら下校する生徒達。そんな彼らにも幾百もの背景があり、人生がある。そして、それは俺達も例外ではなかった。
「どうして」
ややあって、そう短く口にした美鈴。その表情は普段とは打って変わって弱々しいものであり、思わず駆け寄ってしまいたくなる程だった………………が、ここで取るべき行動は違った。
「どうして、分かったの?……………か?」
「……………」
美鈴とは長い付き合いだ。たったの四文字とはいえ彼女が何を問いたいのかぐらいは分かるし、その後の表情の意味も読み取れる。
「ここ最近のお前の行動を観察していれば、分かるさ」
俺は軽く呼吸を整えてから、そう口にした。ここからは慎重に彼女に向き合わなければならないからだ。
「とはいっても気付いたのはさっきなんだけどな」
「…………そう」
「思えば、お前は毎年この時期になると少し様子がおかしかった。それが何故か、今年に限っては顕著に見受けられた」
「っ!?気付いていたの!?」
「あのなぁ……………幼馴染みを見くびってもらっちゃ困るぞ。お前のことはずっと見てきたんだ。気付かないはずないだろ」
「っ!?そ、そうなんだ」
「ああ……………そして、今日のお前はやけにおかしかった。そんなお前の目線の先を追うとあったのが」
「……………このグラウンドって訳ね」
美鈴は少し自嘲的な笑みを浮かべると消えかけた白線へと寂しそうな眼差しを向けた。先程まであった生徒達の喧騒はすっかり収まり、今ならば遠くに咲くあのアサガオの葉から落ちる雫の音さえ、聞こえてきそうな程だった。
「美鈴がこの時期にそんな顔をするようになったのって、3年ぐらい前からだよな?」
「……………」
「美鈴が陸上を辞めたのもちょうど3年前のこの時期……………やっぱり、それが原因で」
「違う!!私はあの日、塔矢に救われたの!!立ち止まったままだった私の背中を押してくれた!!だから!!」
「俺のせいか」
「……………へ?」
「安易に言葉を掛け、お前の心の奥底にある本当の気持ちを蔑ろにしてしまった。お前がスランプに陥っていたことは確かだ。だけど、本当はあそこで陸上を辞めたくなんて……………」
「それは違う!!」
そう強く叫ぶと美鈴は自分の傘を捨てて俺に抱きついてきた。一本の傘の中、重なり合う身体。俺の胸に縋り付く美鈴はまるで小動物のように震えていた。そこで俺は知った。普段は明るく振る舞っている美鈴も本当は人一倍繊細で華奢で…………こんなにも………………。
「塔矢は何も悪くない!!実際、私はあの日を境に変われたの!!以前よりも強く!強く!……………あなたがいなかったら、私はどうなっていたか……………それは何もあの時だけじゃない……………それより前も」
「………………」
とそこまで言ってから、美鈴は徐に俺から身体を離すと傘の中から勢いよく抜け出した。しかし残念ながら、その表情は前髪に隠れてよく見えなかった。
「………………精算できそうか?」
「……………うん。今なら……………あなたが見ていてくれるから」
そう言うと美鈴はまだ残ったままの白線についた。そして、そこでクラウチングポーズを決める。
「今日が私のスタートラインなんだ」
彼女は笑顔でそう呟くと俺の振り下ろした腕を合図に走り出した。
「はぁっ、はぁっ」
本当は無意識のうちに感じていたのかもしれない。彼女が……………美鈴が本当はまだ陸上を続けたかったのではないかと。しかし、それを直視したくなくて……………もしかしたら俺のせいで苦しい思いをしているのではなんて思いたくなくて、俺は無意識のうちに逃げていたのかもしれない。
「………………」
しかし、こんな悪天候の中、とびきりの笑顔で走る彼女を見ていたら、そんな自分とも決別だ。これからはもっと真摯に向き合っていこう………………自分にも、そして彼女にも。
「約束……………守ったぞ」
と同時に俺の脳裏には別の映像も過っていた。それはとある公園の砂場で幼い頃の俺と少女が交わしたとある約束のこと……………
「美鈴ちゃんは本当に足が速いね!!」
「えへへ!私、走るの大好きだから!!」
「そうだね!!」
「でも……………」
「ん?」
「もしも、私が走れなくなっちゃったら、その時は………………」
「その時は僕が駆けつけるよ!!そして、美鈴ちゃんが走れるようになるまで見ていてあげる!!」
「本当!?」
「うん!!僕と美鈴ちゃんの約束ね!!」
気付けば、雨は上がっていた。俺は傘を閉じるとそれを放り出し、ゴールで倒れ込む美鈴の元へと駆けつける。さて、第一声は何て声を掛けようか………………
「塔矢……………ちゃんと見ていてくれた?」
いや、迷うまでもない。なんせ俺の答えはとっくに決まっているのだから。ふと空を見上げれば梅雨はすっかり明け、そこには綺麗な夕焼けが顔を出していた。それはまるで誰かさんの心情を表しているようでもあったのだった。




