りふ
鈴の音が鳴っていた。
僕は死んだのだろうか。
廃油のように重い灰色の、雲に覆われた空に煙が立ち昇っていて、たぶんそれが僕を火葬した煙だ。
鈴の音。
ここは神域だ。古びている。
三年前に赤く塗り直されたばかりの鳥居を、くぐった先に建物がある。
本殿はまだ改修されていないままで、入口との不均衡さに、クラクラと酔いそうになる。
この視野は……宙だ。眼が浮かんでいる、ということはやはり、僕は、僕の肉体から放たれているのだろう。
鈴の音は少しずつこちらへと近づいてくる。
そういえば、鈴を鳴らす者のことはなんと呼べばいいだろう。
奏者、というと少しずれているような気がする。しかしそれ以外に、適当な呼び名は無いような気がする。
思考には妥協が必要だ。
奏者(これ以降、奏者とは鈴を鳴らす者を指す)は、僕の幼馴染の男だった。神主らしい服装をしている。確か…正服、だったか?を身に纏っていた。
「アイヤララ、ソトソトソトナリゥ」
そうか、だから君は。
「ダー、ラー、ミトクサロィフォグザルィ」
人殺しをしたのは弟だったのか、道理で、切り傷が痛まないと思ったよ。死んだとも気づきにくいわけだ。
衣擦れの音がさらさらと、乾いて耳に届く。いつの間にか奏者は境内に到着し、自ら用意した塩で、身体を清めるようなフリをしていた。
葬式など、しなくともよいのに。
遺言に書いておくべきだったか。
ここまで早い時期に命を落とすとは我ながら想定外だったから、そもそも遺言状などは準備していなかった。が、それでも。
ふと、音楽が聞きたいと思った。なるべく下品なのがいい。和音もリズムもなってないような、薬物中毒者が5分で書き上げたようなやつがいい。
僕にはそうして、2つの目標が出来た。僕を殺した奴への復讐と、レコード屋での買い物(もとい窃盗)だ。
機械的に、赤茶けた古風な文句をモゴモゴ述べている奏者。邪魔だ。
奏者の影になっているせいで、せっかく神棚にある鏡は、僕には見えない。
別の鏡はないだろうか。
と、考えていると、ふいに、強力な磁力のようなものが働いて、僕は、東の方向に引っ張られた。
まだ宙に浮かんだままなので、さながら自分は、西から吹く暴風にあおられた、風船のようだ。
フーッと、フーッと僕は東へ飛ばされる。神社は山にあって、また、木が茂る南の斜面にあった。だから、相対的には、僕が北を向いているとすると、丁度右に進んでいることになる。
実際は、視界が暴風にやられて定まらなかった。なので、この説明は事後の理解によるものだ。
移動が止まったのは、山から東にある、大きな湖に到達したときだった。
同時に僕は理解した。あの磁力は、もう一人の僕だ。
いつのまにか、穏やかな晴天がおとずれていた。
水面は、やってくる光を全て反射しているようだった。拒絶ではない。湖は、あたたかな慈愛と冷静さをもってそうしている。
恐る恐る、クロールの要領で腕を動かすと、案外すんなりと、僕は自身の体を操縦することができた。
湖の真ん中の方を目指して腕をかき、そしてたどり着いた。
なんと大きな鏡だろう。魚すら、僕に気を遣って跳ねようとしない。
僕は、亡くなってからしばらく経った僕(その姿、身なり)と、久方振りに対面した。
竜。
僕は竜に変身していた。エメラルドのような緑を伴った堅い鱗が、びっちりと体表に並んでいる。金色の長い綱のような髭が、顔の側面から十数本、後ろに向かってたなびいている。牙は金属に似ていた。
腕だけは、人間の様相のままだ。ただし、それはムカデのように、蛇のような体躯の脇から何本も生えていた。
千手観音が悪魔に唆され、暗黒の道へと堕ちたりしたら、おそらく、こんな姿になるのではないだろうか。
(行かねばならないな…)
変化に少し驚いたとはいえ、この新たな身体に見惚れているままでは、ダメだ。
それではナルキッソスと同じだ。
僕は、今度は尻尾を振って(一度そうと理解してしまうと、元来のヒトとしての自分の体にはなかったはずの部位も、思ったままに動かせる)この場所を離れ、次の目的地へと向かった。
目的地?ここがどこかも分からないのに?
そういった心配が僕にもあったが、しかし「僕」(磁力だ)は僕の腕を引いてくれたので、なんということはなかった。
方角は、もはや意味を為さないだろう。
まるで光になったような気分だ。景色の流れるのが速すぎて、時間さえも置き去りにしてしまいそうだ。
ビルが、一棟、二棟、…数えるのも馬鹿馬鹿しいか。
僕は都会に到着した。
排ガスの匂いがする。脳を真っ黒に溶かす匂いは、都会の毒であり、かつまた同時に特権でもあった。
誰も僕を見ていない。これも都会だ。皆、意識を、どこかつまらない組織に隷属させている。なので、許可されたもの以外を見つけることができない。
だから窃盗もすんなり済んだ。
こんな手順だった。
身体をしぼませる。
偶然目にとまった、青い看板が特徴的なレコード屋の自動ドアを過ぎる。
適当に一枚、戸棚(都会に似合わない木製だった、僕はすこし落胆した)からレコードを抜き取り、懐に隠して、何事も無かったかのように店を去る。
呆気なさすぎて欠伸が出た。
その失礼さを誤魔化すために、高度10000mまで上昇して、全ての建物を見下す位置に辿り着けるというのをみせつけた。そうやって、自らの優位性を街に示してから、「僕」は都会のことを忘れて、次の目的地(もはや説明は不要であろうが、僕は目的地を知らない)へと向かった。
レコードに収録されていたのは落語で、聴く気は失せた。やっぱり実際に目で見てでないと、窃盗はうまく行かない。
景色を取り残して、ヒュン、と空の道(「道」というのは、自分が通った場所が、後付けで得る称号のようなものだ。たとえ線で区分けされていなくても、誰かに通行されたスペースは全て道なのである)を進む途中で、面白いものを見つけた。
お菓子の城だ。
おそらく、茶色いバタークッキーでおおかたの骨組みが作られていて、ホワイトチョコで、壁が塗られている。
庭園にはカラフルな飴細工が並ぶ。特に、水色の噴水の出来が見事だった。
王様が作らせたのか。
優秀な蟻達がその脆弱さに気付き、城の角の方から少しずつ登りはじめていた。黒い災難、とは彼らのことを表現した言葉だ。
ガジガジ、とかすかにかじる音声が聞こえる。
人生とはあの城のようなものに違いない。当人の知らないところで蝕まれて、崩れるのは一瞬だ。
僕はぺっと城に唾を吐きかけた。竜の唾は、紫色で、ナメクジのようにネトネトしていた。
………静かに。
今僕は、小さな子供が14人住んでいる、見窄らしいトタン製の秘密基地への侵入を試みている。
みんな、お揃いのピンクの寝巻きを着ている。ボタンをかけられるのか。偉いなあ。親は死んでいるのか。
…ああ!君がうるさくするから、ばれてしまったではないか!
子供がみんな、地下の核シェルターへと逃げ込んだ。鋼鉄に覆われた、哀しい囲いの中へと。
どうしようか。
そうだ。僕は料理がしたい気分だったんだ。
晴天にもそろそろ飽きた。
僕はこう怒鳴った。
『ーーーーーーーーーーーー』
それが、落雷を呼び寄せた。
落雷は、核シェルターを容易にすり抜けて、子供たちへ届いた。
そうそう、今まで、雷はてっきり黄色なのかと思っていたが、どうやら、実は銀色だ。僕に誤った事を教えた世界の全てを訴えたい。
落雷は14人の子供たちの心臓を貫き、それから、彼らの表面を黒焦げにした。
つまりは、14粒からなる料理ができた。
酒のつまみくらいにはなるかもしれない。
叫び声の聞こえない死というのは幸せだ。子供たちも天国で僕に感謝しているだろう。
白くてコミカルな雷雲が、空にマダラ模様で現れていた。
これは復讐で、子供たちは自業自得なのだ。
悪いことをしたのを、悪いことで返されただけだ。
帰ろうか。
と、ここで「僕」は痴呆になってしまった。
僕は迷子だ。
僕は、どこに帰ればいいかわからない。
(鱗を剥がして一枚プレゼントしてやるから、誰か道案内してくれよ)
そういった念を発してみたが、駄目だった。
ここはどこだ。本当に分からない。
七つの色が見えるので、もしかすると、虹の胎内だろうか。
かろうじてプカプカ浮かんではいるが、形容するなら「トボトボ」というのが一番似合うであろう、そんな移動をして、僕は溜息をつきそうになっていた。
俯いて、プカプカ、トボトボと。
次第に、七色のうち六色分は、薄まって無くなっていく。それと同時に、先ほどまでには無かった、ある一色分が増えた。そうして僕は、緑と茶色が広がる草原に至った。
どこまで行っても草原だ。
無音の草原だ。
プカプカ、トボトボと。
…ドン。
ぶつかった。
衝撃と痛みに耐えかねて、再び顔を上げた時、そこにあったのは、巨大な黒いピアノだった。
この僕の竜の大きな体が、目の前のピアノにとっては、小指大にしかならない。
最後に…。
ミの音をならそう。鈴の音に最も近い音を。
白鍵に狙いを定め、体当たりすると、ポロン。
あっ、蝿が背後で落下した。
そうか、この蝿の命は僕が奪ったのだな。
そうして、夜が訪れた。
オイオイ泣いた。涙は、闇と上手に混ざり合って、酸になる。
涙と闇の混合により生じた酸は、草原をゆっくりと満たしていく。
スケール感は違えど、プールに水が貯まるのと同じだ。
草原の空気が追いやられて、そこに、代わりに酸が満ちる。
僕の身体も、ピト、と酸に触れた。
ようやっと、僕は尻尾の先からとろけはじめる。
酸は波を呼び起こした。
波は、僕の身体を一気に飲み込んでくれた。
全身の、先端という先端がとろけだす。
とろけながら、ロンドンに思いを馳せた。
いつか、ロンドン。溶けた僕は夢。
「僕」だけが先に消えたために、少しばかり釣り合いがメチャクチャな時間もあったが、これで、やっと僕は溶けきって、均衡を取り戻せた。
楽しさ。