悪魔の影(3)
遡ること数日前。
結婚式の夜、初夜を迎えるそのときに、カリーナの夫になったばかりの相手が寝台の上で酷い殺され方をしたこと。
警察に対し、カリーナは「犯人は見ていない」と言い続けてきたが、それは真実ではない。
本当は犯人を見ているし、それは知っている人物であった、と。
「彼は……、この結婚が決まる前に私が将来を誓いあった相手でした。けれど、彼の家の家業に陰りが有り、父は私達の結婚を許しませんでした。そして父は自分で私の相手を選びました。彼はそのことに納得していませんでした。人目を忍んで私に会いにきて、結婚前に一緒に逃げようと何度も言われていました。気づいた父は、私に部屋から出てくるなときつく言い含め、半ば軟禁のような状態に。逃げ出すことはかなわず……。もっとも、私には、逃げる気はなかったのですが」
「あなたが言う『彼』はブルーノ・デッシという青年ですね。警察も追っています。行方はまだ掴めていません」
ガリレオが言うなり、カリーナはアルベルトの手首を掴んだ手に力を込めて、かっと目を見開いて言った。
「それでは困るのです……っ。彼の本当の狙いは、夫になった相手を殺すことではなく、私をさらうこと……! このままあの家にいたら、次は私が狙われます!!」
「ならば対応するまで。人員を配置して、彼が襲撃をしてきたときに捕縛するのが良いかと」
「あなた方はつまり、私を囮にして彼をおびき寄せるというのでしょう!? 本当に守りきれるのですか、私のことを!!」
「それが仕事です」
感情が高ぶって声を荒げるカリーナに対し、ガリレオは淡々と応じる。
(結婚相手を殺された……。殺す理由がある人物を、警察は特定できていた。カリーナさんがそのひとの名前を警察に言わなかったのは、「庇っていた」から? だけど、庇っているというより、「恐れている」ように見える。アルベルト様を離さないし)
手首に食い込む指が痛そうだ。つい険しい顔で見てしまったファナの前で、カリーナはさらに鬼気迫った様子で告げた。
「警戒はいつまで続きますか? 三日? 七日? 彼が現れなければ、警察は徐々に人員を減らすでしょう。すでに私の結婚を潰してしまった彼には、時間があります。焦らず、あなたがたが警戒を解くのを待ち、手薄になったときに現れるに決まっています!」
「いずれにせよ、市中に潜んでいるなら所在を突き止めますよ」
「今まだ全然行方を掴めていないのに? 信じられるわけがありません。私は……私は、あの家にはもう戻りませんッ」
カリーナに掴まれたままじっと動きを止めていたアルベルトが、ガリレオに視線を向けた。表情を消し去ったまま、短く言葉を発した。
「そこにいる」
判断は、一瞬。
ほとんど最小の動作で、ガリレオは裏拳を放った。それを喰らう位置にいたはずのロダン少年は、物音ひとつ立てず俊敏に体の位置をずらして、綺麗にかわしている。
飛び退り、腰を落とした体勢でガリレオを見つめると、澄んだ瞳に不敵な光を宿して笑った。最前までの朴訥さはなりを潜め、危うさが濃く漂っている。
「いきなりひどいなぁ。一般市民ですよ? いまの聴取で何がわかったって言うんですか」
拳を軽く握って向き合ったガリレオは、ロダンを見据えて目を細めた。
「一般市民の動きじゃない。何者だ? なんて。聞いて答えるとは思っていないけど」
ロダンが前傾姿勢を取り、ガリレオの元へ駆け込む。鋭く繰り出された蹴りを見切ってかわしながら、ガリレオがファナに視線をくれた。
その向こう側で、ロダンがにやりと酷薄な笑みを浮かべるのが見えた。
手に、銀の輝き。
時間が間延びしたような感覚。ファナは最悪の光景を想像しながら目をそらすこともできずに、ロダンが刃物をふりかざすのを見てしまった。
ガチャン、と硬質な音が響いて、ナイフが床に落ちる。
ガリレオが的確に反応し、ロダンの手を殴りつけていた。ナイフを取り落しながらも、ロダンの表情からは余裕が失われていない。
「へぇ。竜騎兵って伊達じゃないんだ。強いね」
「どうも。これで飯食ってる。簡単に負けるわけにはいかない」
「さすが弱い者の味方」
明るい笑みで応じたロダンは、袖からもう一本ナイフを取り出す。流れるような仕草。
ガリレオを見つめたままそのナイフを構えて言った。場違いなほどにこやかに。
「そのまま、弱い者守るのに集中していてくださいよっ」
(いけない。こっちに投げる気!?)
ロダンはファナを見ないまま、ナイフを投擲。察知していたらしいガリレオが走り込んでくる。間に合わない。
ファナを救ったのは、横に立ち、ファナの腕を強くひいたアルベルトの動きだった。
頬すれすれ、髪を数本切り落とすほどの近さでナイフはファナをかすめて背後の壁に刺さった。
全身が強張って、息が止まる。
「あいつ、逃げるぞ」
アルベルトがガリレオに低く叫んだ。
身を翻してガリレオが振り返ったときには、すでに、キイ、と音を立ててドアが開け放たれており、ロダンの姿は消えていた。
ガリレオは追わなかった。「店は囲んである……」と小さな呟き。それから、床に崩れ落ちるように座り込んでいたカリーナに向かって歩き出す。
「な……に? なんであのひとは、いきなり」
ファナは、もつれた舌でようやくそれだけ呟く。
すべてが瞬く間の出来事だった。
今更ながらに、刃物がかすめたときの感覚がよみがえり、手足が震えだした。
ファナの腕を掴んでいたアルベルトは、ため息とともに手を離した。すぐにファナの背に左腕を回して支え、ファナを見下ろして言った。
「カリーナ嬢の証言には嘘が混ざっていた。真実の声を俺が聞いて、ガリレオに伝えた。俺にはそういう、直接触れ合っている相手の心を読む『能力』がある」
アイスブルーの瞳に苦渋を滲ませ、アルベルトはファナの目を見つめる。ナイフの軌道上で数本切られたファナの髪を惜しむように、指で軽くファナの髪に触れた。