悪魔の影(1)
大きな道から一本入った裏通りに、目立たぬ看板。下り階段となった入り口を下りていく、地下の居酒屋。
ファナはこれまで来たことがないような類の店だ。
颯爽と歩くガリレオに続いて、おっかなびっくり階段に一歩踏み出す。
そのとき、前方から階段を上ってくる人影があって、脇に体を寄せながら足を止めた。
目深に帽子をかぶった、背の高い男。豊かに波打つ黒髪を一本に括って、背に流している。暗い色のコートを羽織っていた。
ガリレオとすれ違うときに、肩の位置、背の高さがさほど変わらぬように見えた。すぐにファナの横を通り過ぎる。
そのまま立ち去るだろうと思いつつ肩越しに振り返ると、男は階段を上りきったところでアルベルトの正面で足を止めていた。
アルベルトは超然とした無表情のまま、アイスブルーの瞳で男を見ている。
男が、ふふ、と笑った気配があった。
「女神の不興を買いそうなほど美しい男だ」
暗がりに響いた声は、音楽的な優美さを備えていた。言われた内容の不吉さにも関わらず、次の言葉が待ち遠しくなるほどの蠱惑的な美声。
表情を動かすことなく、アルベルトは向き合った相手に冷厳とした口調で応えた。
「さて、女神がかように心が狭いとは聞いた覚えがない。それはどちらかというと、毎日鏡に自分のことを美しいと言わせている、古の女王のようだ。童話の」
「なるほど」
それ以上何を言うでもなく、男は体の向きを変えて、裏通りの暗がりへと歩き出した。
一瞬。
前に向き直りながら帽子を軽く持ち上げた。その動作にまぎれて、目が合ったような感覚がファナにはあった。
(……見られた?)
後ろ姿は暗がりにまたたく間に紛れてしまう。アルベルトはしばし男が消えた方向へ厳しいまなざしを向けていた。光が乏しい中にあっても、白銀の髪と肌の白さゆえに、横顔の陰影が際立つ。それは、初対面の相手からして思わず声をかけたくなったのも頷ける麗しさだった。
「ガリレオ。今の男、何か心当たりは?」
アルベルトは階段の中途で止まっているガリレオを振り返り、そっけない口調で言う。
「考えていたんだけど、思い当たらない。妙な雰囲気があったな。気になる。気にしておくよ」
「そうだな。何かひっかかる。気の所為とは思えない」
納得いかない様子で呟きながら、アルベルトが階段を下りてきた。ガリレオもファナを先導するように早足で進む。下りきったところにあるドアの前で足を止めて、振り返って待っていた。
* * *
「良かった、ガリレオさん。お待ちしていました……!!」
ドアを押し開けると、ベルが思いがけないほど涼やかに鳴った。
カウンター席とテーブル席がいくつかの狭い店内。ガリレオが戸口に姿を見せるなり、丸テーブルについていた細身の少年が明るい声を上げた。
金糸のような髪に、澄んだ青い瞳。整った顔にそばかすが散っていて、笑顔に愛嬌がある。服装はネルシャツにズボン、少し汚れた靴。下働きのような姿だとファナは思ったが、心を読んだようにガリレオが「さる家の庭師をしているロダンだ」と紹介してくれた上で、少年に目を向けた。
「今日はお嬢様の護衛だね?」
「確かにお連れしました! 今頃、お屋敷では不在に気づかれているかもしれないけど……」
少年が気にしながら、伏し目がちに振り返った先には、フードをすっぽりとかぶった細い人影がテーブルについて座っていた。
蝋細工のように白く細い指がフードをつまんで持ち上げ、視線を向けてくる。
長いまつ毛に縁取られた青い瞳。すっと通った鼻筋に小さな唇。可憐な印象。
青い目はガリレオ、ファナを見て、最後にアルベルトに向けられた。
「神官さま……ッ」
押し殺した悲鳴のような声。
椅子を蹴倒すような勢いで立ち上がり、木の床を踏みしめて駆け込んでくる。
ファナの前を過ぎて、止める間もなくアルベルトの胸に飛び込んだ。
勢いのついた小柄な体を、アルベルトが片手で受け止める。
抱き合うかのような体勢で、そのひとはアルベルトの胸にすがりながら告げた。
「どうかお救いください。悪魔が、悪魔に狙われているのです……ッ」