聴罪室(3)
素早く、ファナとアルベルトは目配せをした。
言葉を交わすことなく、ファナが自分の胸に手をあてる。ここは私に、と。了承したようにアルベルトが小さく頷いた。
ファナは息を吸って、声を作る。
「ようこそ。翼ある女神アタルガの加護がありますように。あなたの話を聞きます」
(声。低音を意識して。「女性的な外見の男性」という見た目のごまかしが無い状態で、声だけで男性として振る舞わねば)
ファナは普段、変装や化粧で性別を偽っているわけではない。それだけに、鏡を見て男性的な表情の作り方など、自分で適宜確認している。
声は鏡に映らないから、難しい。不本意ではあるが、今日一人目の相手が「想定外の目的」で聴罪室に現れて、ファナと接したときに女性と看破してきた、その事実。迷惑をかけられた件とは別に、重く受け止めなければならないだろう。
二人目の相手には、細心の注意を払って呼びかけた。
どうでした? と確かめるようにアルベルトを見下ろす。アルベルトは、ファナを見てはいなかった。伏し目がちに顔ごと小窓へと向け、その先の気配を探っているようだった。
コン。コツン、コツン。
まるでノックのような音が響く。
(窓を……叩かれている?)
狭い部屋内で、動いた拍子に体の一部がぶつかったにしては、妙だった。
はっきりと、何かのリズムを刻むように、固いもので軽く叩かれたような音。
コツン、コツン。
音は続く。もはや疑いようがない。それは何かの意味をなす――言ってみれば、取り決められた合図のような叩き方だ。
問題は、ファナはそれを読み解くことができないということ。言葉に寄らないやりとり。知らない暗号。他に誰も聞いていないという前提の聴罪室で、「声を出さずに意思伝達すること」に、どれほどの意味があるのか。
(アルベルト様は)
ファナより年長で、聴罪士とのキャリアも長い。何か思い当たることがあるのではと、その顔をのぞきこむ。
目を細め、厳しい面差しをしていた。小窓を睨んでいる。
ここでファナが声を出してアルベルトに話しかけてしまえば、向こう側の人物に、聴罪士が二人いると気づかれてしまう。ファナは身を屈め、アルベルトの手を取った。その滑らかな手の甲に、「何?」という単語を指先でゆっくりとなぞって示しつつ書く。
アルベルトは唇を噛み締め、頬を強張らせてファナを見上げた。
苦渋の滲んだ表情。
目が合った。ファナはアルベルトの手をとったまま、口の動きだけで「何?」と今一度尋ねた。
ついにアルベルトは吐息をして、言った。
「伝わっている。私だ」
硬質でよく透る声。それ明らかに、目の前のファナではなく少し離れた位置にいる人物に向けられたもの。
一拍置いて、小窓の向こう側から「そうだと思ったんだ」という爽やかな男声が響いた。
ファナには聞き覚えの無い声であったが、妙な愛想の良さや親しみやすさを感じる。温かみすら漂う明るい声だった。
「何か用か」
アルベルトのまとう空気が、先程までとは明らかに違う。冷気。
声の作り方、話し方。何もかもがファナと二人きりのときとは違う。他所向きに、隙無く整えられたもの。
壁の向こう側の人物は臆した様子もなく答える。
「力を貸してもらおうと思って。花嫁の初夜に現れる悪魔を祓ってほしい。そういうの、得意じゃないの?」
「さて、どうかな」
違和感。腕を組んで、小窓を睨みつけたまま話すアルベルトの横顔に、ファナは直感的にひっかかりを覚える。
(硬質な声。慇懃な話し方。……だけど「さて、どうかな」って言った瞬間、崩れた。気心が知れている相手を前にしているかのように。アルベルト様はこの相手に、気を許している? 知り合い?)
そのファナの憶測を裏付けるように、窓の向こうの相手がきっぱりとした声で言った。
「今晩だ。ガレリアのいつもの店で待っている。すっぽかすなよ、アルベルト」
(名前を呼んだ……! 聴罪士は、相談しにきた相手を知らないという建前がある。たとえ思い当たっても、知らないふりをする。それは、相手も守らなければいけない最低限の約束事。聴罪士を特定した上で、名指しで相談を持ちかけるだなんて……!)
これはどういうことなのだろう?
ファナは青い目を大きく見開いて、真意を探るようにアルベルトの秀麗な横顔を見つめる。
振り返らぬままアルベルトは、ファナの手をしっかりと掴み直した。
「用が済んだなら行け」
鋭い声音で退室を促す。
「はいはい。珍しいね。というか、こんなことは初めてだ。そこにお前以外の誰かがいるなんて」
笑いを含んだ声はそう告げると、蝶番の軋む音を響かせて、ドアを出ていく。
ふと、ファナは一瞬それまでの会話とはまったく無関係なことを考えた。あちら側のドアの蝶番がいつも音を立てるのは、きっと意味があるのだと。よほどの鈍感でない限り、その音によって、こちら側では退室の有無をある程度察することができる。裏を返せば、音を立てて開閉させ、部屋内に留まられても気配を断たれていたら気づかないこともありえそうだが。
(行った……?)
遠ざかる足音は聞こえるだろうか。心臓がどくどく鳴っていて、音を探るのを邪魔する。緊張感。変な汗が出てくるほどに背筋が冷えている。
そのとき、アルベルトに強く手を握られた。
「ファナ。心配しなくて良い。俺がついている。あれは恐れる相手ではない。会えばわかる。ただの人間で、ファナを取って食うこともない。食おうとしたら俺が許さない」
淡々とした物言い。ファナはかすれた声で「なんだったんですか?」とだけ尋ねた。
アルベルトは手を握る手に力を込めながら、ファナを見上げて告げた。
「ファナを巻き込んだ。こうなっては仕方ない。この先、可能な限り俺のそばを離れないように。心配しなくても良い、目の届くところにいる限り必ず守る」
「……何からですか?」
わからないことだらけで、尋ねてばかり。
気にした様子もなく、アルベルトはいつもの飄々とした口ぶりに戻り、嘯いた。
「すべてからだよ。きっと、そうなる」