悪魔が来たりて(1)
「はい。はちみつたっぷりメランジュ、熱いから気をつけて」
翌日、ガレリアのカフェにて。
待ち合わせに制服ではなく私服で現れたガリレオは、ファナの注文分のドリンクを、オープンテラスのテーブルに置いた。ミルクと泡立てた卵黄入のホットコーヒー。
入れ替わりに、席についていたアルベルトが立ち上がる。ファナを一人にしないため、常に傍らに人がいるように配慮しているのは明白。
聴罪室に不審人物が現れた昨日の今日ということもあり、アルベルトは神殿を出るときからずっとピリピリとしていた。
その空気はガリレオもよくわかっているようで、困ったような笑みを浮かべてファナを見た。
「アルベルトは昨日から寝ずの番かな。俺もいつも詰め所にいるわけじゃないから、アルベルトから伝言があるってついさっき聞いたくらいで。待ち合わせに間に合って良かった」
「内容が内容だけに、書面でお伝えするのは避けることに。とはいえ、神殿も信徒の方の出入りを表立って制限はできないので、必ずしも安全ではなく……。そもそも昨日、神殿へあちらからお越しになったわけですから。ガリレオ様と会うなら、いっそ人目のある仕掛けにくいところが良いと、アルベルト様が」
ガレリアの街路に面した席で、周囲のテーブルには他の客もいる。ファナはどこまで話すのが適切かわからず、小声で濁しながら伝えた。ガリレオは真剣な表情で聞いてから、「そうだね」と低い声で相槌を打ち、自分のコーヒーに口をつけた。
「アルベルトからの伝言は、『この間の件で、情報提供があった』だけだ。顔を見たらわかったよ、普通の内容じゃないね。昨日はかなり緊迫した状況だったの?」
「聴罪室での出来事で……、神殿としてもすぐに通報というわけにもいかず。あくまで相手は、『信徒を装って、正式な手順を踏んで、話して帰った』ので。聴罪室がガタつくほど暴れられましたが、その様子を目視で確認したわけではなく、実際にどこかを壊されたわけでもないので、被害というのも」
「たとえ殺人の告白をされても、それを通報できないのが聴罪室での約束だからね。本来ならこうして外部に助けを求めることが、まずもって難しい」
ガリレオの言葉に、ファナは無言で頷いた。
(もし聴罪士が暴行を受けたり殺害されるような「被害」があれば、警察に動いてもらうだろうけど……。そうではなく「信徒の告白」の範囲内とみなされることに関しては、神殿は沈黙するしかない。だけど)
「昨日の相手に関していえば、目的は明らかに、聴罪室の利用ではありません。先日のカリーナ嬢の件について、はっきりと関与を匂わせる情報を口にしました。まるで、あのときの関係者を誘うかのように」
「その件は少々行き詰まっている。情報は嬉しいが……」
ファナは自分の目の前のカップに手をかけたが、なかなか持ち上げることができない。飲むのを諦めて、すばやく言った。
「罠です」
「だろうね。しかし罠だとわかっていても、他にめぼしい情報がなければ乗るしか無い。詳しい話を教えてほしい」
前日、ファナはアルベルトから「相手が匿名の聴罪士ではなく、ファナ個人に狙いを定めて脅迫し、不用意に暴れた時点で聴罪と切り離して考えるように。かくなる上は隠し事をせず、交わした会話を正確に教えてほしい」と言われ、覚えている限りの会話内容を伝えた。結果的に、これは間違いなくカリーナ嬢の件と繋がっていると判断を下すことになり、ガリレオに知らせることに決めたのだった。
「ガリレオ様は、この街に幻の駅があるという話はご存知でしょうか」
周囲を気にしてひときわ声をひそめたところで、街路から女性の悲鳴が上がった。
反射のように、ガリレオが視線をすべらせて、そちらを確認する。喧嘩か、揉め事か、数人の怒号が続き、人々が足を止めて遠巻きにそれを見ていた。
ちょうど視線を遮る位置に数人が立ってしまい、よく見えない。
ファナはガリレオの心配事を察して、自分から申し出た。
「非番の装いですけど、もし気になるようなであればどうぞ。私はここで待っていますから」
「せめてアルベルトが戻ってから」
「飲みを買いに行っただけですから、もう来ますよ」
ちらっと店内に目を向けると、銀髪の後ろ姿が見えた。見える範囲にいるなら大丈夫、と結論づけて「行ってください」と重ねて言う。
ガリレオは翠の瞳を細め、淡く微笑んで立ち上がった。
「ただの喧嘩なら仲裁するまでもない。確認だけして、すぐ戻る」
さっと背の高い鉢植えの植物の間を通り抜け、街路へと出て行く。
ファナは無意識にアルベルトを目で探したが、店内で女性に話しかけられていた。神官のスータン姿なので、馴染みの信徒にでも会えば挨拶くらいはするだろう。
せっかくなので、自分は今のうちに温かい飲み物でも口にして少し落ち着こう、そう思ってマグカップに手を伸ばす。
ひやり、とした空気を感じた。悪寒。理屈ではなく、肌の下で血がざわめく。
「昨日危ない目にあった後だというのに、君の周りは迂闊な人間ばかりだね。こんなところに君を一人残して。何かあったらどうするつもりなんだ。いけないなぁ」
背後から聞き覚えのある声。歌うように楽しげで、害意があるようには思えない。
だがその声の主が、ふとした瞬間に豹変することを、ファナは知っている。
マグカップを掴めぬまま、テーブルの上で拳を握りしめて、振り返らずに答えた。
「今のこの状況で、迂闊さを悪として責められるべき人はいません。悪いのは常に、悪いことをするひとです。『何か』がなければそれで良いんですよ」
冷気を感じる。後ろの相手から、冷たい視線が注がれている。
ふっと、笑った気配があった。
「なるほど。君の言い分はわかった。何も起こらなければ誰も悪くない。もっともだ。だが現実は――そうはいかない」




