シルビーの至宝
シルビー伯爵家に仕える庭師一族に生まれたケイン。
シルビー伯爵家は公私の使い分けが激しい一族であり、公の場や客人の前でさえきちんとすれば礼儀も気にしない。庭師の息子のケインも年の近いシルビー姉弟とは主従ではなく友人として過ごしていた。
長女のフローラは物静かな父親譲りの茶髪を持つ達観した少女。
次女のフローリアは天真爛漫な母親譲りの赤毛をもつ年相応の少女。
長男のブライトは父親似の容姿を持つ好奇心旺盛な少年。
勉強の時間が終われば3人の自由時間の時間の始まりである。フローラは紅茶を飲みながら読書を楽しむ。ブライトは伯爵邸を駆け回るのでどこにいるかはわからない。フローリアは部屋を飛び出し、大好きな少年を探す。
裏庭の手入れをしている庭師見習いのケインを見つけ、ニッコリ笑って邪魔にならないように座る。ケインは今日も授業が終わって飛び出してきたフローリアの格好を見て苦笑する。
「リア、見ててもいいけど帽子と手袋は?」
「忘れた!!でもやっとケインを見つけたのに」
ケインが上着を脱いでフローリアに投げると手を伸ばしたフローリアはニッコリ笑って頭からケインの上着を被る。
「日焼けしたらフローラに怒られるよ。手袋をしてないなら触るなよ」
「ありがとう。うん。ケインの上着はお日様の匂いがする」
「汗臭くても我慢して」
身分の差別が激しい王国では貴族と平民は結婚できない。それでも優しい顔でフローリアを見るケインも、ケインの近くで向日葵のような笑みを浮かべるフローリアの邪魔をする者は誰もいなかった。
ケインは勉強のために裏庭の一部を借りている。本邸の庭は見習いのケインは触らせてもらえない。庭師見習いのケインは裏庭の手入れをしながら父の傍で学び庭師への道を歩いていた。ケインは綺麗に咲いた向日葵を一輪手に取りフローリアに渡す。フローリアは満面の笑みを浮かべて向日葵とケインの顔を交互にきょろきょろと見る。
「リア、首を痛めるよ」
「いいの!!これで痛めても本望なの。ケインと向日葵、両方見たいの。私は我儘なお嬢様だもの」
庭師の仕事は地味で過酷である。それでもケインはフローリアの笑顔を見ると、疲れも嫌な気持ちも一気に吹き飛ぶ。身分違いで結ばれないとわかっていても、近くに寄り添うフローリアとの時間を手放せない。
「ケイン、うちはリアがいなくても問題ありませんわ」
「は?」
「リアの夢、知ってますか?1日だけケインのお嫁さんになりたいですって。我が妹ながら可愛らしいわ」
突然現れたフローラにケインは驚かない。神出鬼没はシルビー姉弟の十八番である。
「ケイン、これを肌見はなさず持っていなさい。これが貴方の手を放れる時に試練が待ち受けます。同情はいりませんわ。貴方の心にあるものが本物なら運命を味方になさい」
フローラは妖艶に微笑みケインに手紙を押し付けて消えていく。フローラの言動は学のないケインにはわからない。
ケインにとって思い描いた未来が壊れ、シルビー伯爵家に暗い闇が襲ってくるのは気付かなかった。
シルビー伯爵夫妻が倒れ、ケインにできるのは庭の手入れと花を贈ること。そして体に良い植物を手に入れるだけ。懸命なフローリアの看病も薬も効果はなくどんどんやせ細っていく伯爵夫妻。
膝を抱えるフローリアの隣に座り赤毛をそっと撫でて、花を渡す。フローリアは顔を上げて
「ありがとう。頑張る。きっと治る。お父様もお母様も強いもの」
ケインの胸に飛び込みポロポロと涙を流すフローリアの頭をケインは撫で続ける。しばらくして涙を拭いたフローリアは顔を上げてニッコリ笑う。
「宝物をもらったから大丈夫。お父様におすそ分けしてくる。お休みなさい」
「送るよ」
「ううん。明日も朝早いケインは休んで。またね」
花を持った手を元気に振って走り去るフローリアの背中を見送りケインは夜空の星にシルビー伯爵夫妻のこととフローリアの笑顔が曇らないことを願った。
ケインの願いは届かなかった。
ケインは涙の跡のあるフローリアをエバンズ候爵家に送り、シルビー伯爵邸に戻りブライトを探そうとする腕が掴まれた。
「静かに。ケイン」
ケインはブライトに腕を引かれるままフローラの部屋に進むとベットの上で眠っていた。息を飲むケインと無表情のブライト。
「毒の痕跡を調べるから見張ってて。他言無用命令」
ブライトは伯父が伯爵印を探して父の執務室を調べさせているのを知っていた。ブライトはフローラがきっと何か遺すと信じ、両親の傍にいるはずのフローリアが邸にいないのが見つからないように手回しした。伯爵家の跡取りはブライト。悲しみにくれている暇があるなら動けという父達の言葉のもとに。
ケインはフローラの死に歪みそうな視界を堪えた。一番泣き叫びたい二人が伯爵家のために動き回っている。生意気で大人びているフローラの言葉を思い出し、ブライト達が運命を味方につけられるようになんでもしようと決意した。
ケインはフローリアがフローラになると言っているのを止めたくても口に出さない。髪が傷んでも落ちない塗料で染めて欲しいというフローリアのために調合し、美しい赤毛を茶色に染める。おしゃべりなフローリアは一言も話さず目を閉じていた。
「終わったよ。薬草を浸した水で洗わない限りは落ちないよ」
フローリアが振り返り、ケインの頬に手を添えてぐっと顔を近づけ唇を重ねた。
「ケイン、ずっと一緒にいたかった。リアはあなたのお嫁さんになりたかった」
泣きそうな笑顔を浮かべて走り去るフローリアの背中をケインは慌てて追いかける。
「リアはケインをずっと愛します。待ってては勇気がなくて言えなかった。リアは意気地なしです。お父様、お母様、お姉様、頑張るから見守っていてください。シルビー伯爵家はリア達が守ります」
ケインは息を切らして夜空を見上げる泣きそうな声を聞いた。一度も泣かないフローリア。
「言い逃げかよ。バカリア。いつも我儘なのにどうして肝心なことは言わないんだよ」
これがケインとフローリアの別れだった。フローリアは誰も傍に寄せ付けず淡々と葬儀と婚姻の準備を進めた。葬儀が終わると喪服を着てシルビー伯爵邸を出ていった。
主人が代わっても庭師の仕事は変わらない。ケインはようやく成功した真っ赤な花びらを持つ薔薇を眺め、贈ったら満面の笑みをこぼした初恋の少女を思い浮かべる。
「一輪もらえるかい?言い値で構わないよ。礼はしなくていい」
ブライトに会った帰りにエバンズ候爵はケインを見つけて話しかけた。ケインは驚きを隠して、一番美しい薔薇を棘を落とし恭しく差し出した。
「美しい薔薇の礼だ。運命の日から20年。世知辛い世の中に抗え若者よ」
ケインは優しい笑みを浮かべて去っていくエバンズ候爵を見送り、ようやくフローリアの言葉の意味に辿り着く。
もしもフローリアが戻れる日が来たら、共に歩める未来があるなら向日葵のような笑顔を取り戻せるなら…。
20年という自分の生まれた時間より長い年月。庭師の仕事は変わらない。ケインにとっての変化はいつも楽しそうに見守っていた笑顔がないだけ。いつかまた満面の笑みが見れると信じて、フローリアのために美しい花を咲かせようと決めた。もしも、フローリアがお嫁さんになってくれるなら苦労させないように一流の庭師を目指すことも。
****
ケインはブライトの協力でフローリアの誕生日に真っ赤な薔薇を一輪贈る。
そして庭師として一人前と認められてから買った家の鍵を。
エバンズ侯爵夫妻の仲睦まじい噂を聞いても花を贈るのはやめなかった。フローリアへの花だけは裏庭でケインが個人で育てたものを。
エバンズ候爵が亡くなった年だけは白い百合の花を。その年以外は丹精込めて作った赤い薔薇の花を。夫を亡くしたエバンズ侯爵夫人に再び縁談の話が持ち上がっていると聞いても贈るのをやめなかった。ケインがフローリアのためにできることは花を育てて贈る事だけ。昔のように傍で慰めることはできない。
適齢期が近づき酒や女遊びの誘いが増えても断った。エバンズ侯爵夫人の噂はケインの耳にもたくさん入った。フローリアが正反対のフローラに成り代わり必死に立ち向かっているのにケインだけが遊ぶ気はしなかった。
ケインの晩酌相手は家族とブライトだけ。ケインの家族はいまだに捨てられない初恋を追い続ける息子に何も言わない。
ケインはフローリアに何も伝えていない。それなのにケインだけはフローリアの恋慕を知っていた。選んでくれるかわからなくても、一度はきちんと伝えたかった。フローラではなくフローリアに。
エバンズ侯爵夫人が年若い侯爵に見初められたと聞いても気にしない。エバンズ侯爵夫人はフローラ。ケインが待っているのはフローリアだと一人で言い訳をして庭師の仕事に専念した。そしてもしもの約束に向けて準備を始めた。
「ケイン、無期限の休みをあげるよ。もし戻ってくるなら祝儀に邸を贈るよ」
「は?」
「エバンズ侯爵夫人が行方不明。息子がお嫁さんを迎えて後継を作るまでは顔を出さないってさ。その手入れは後にして、多分勘違いして拗ねてるから行ってあげて。木々の手入れは誰でもできるけど、僕らの向日葵を咲かせるのはケインだけでしょ?」
ブライトのニヤリと笑う顔を見てケインは頷き、片付けを父親に任せて馬で駆けた。約束の日は明後日なので明日から三日休みは貰っていた。
ケインが扉に手をかけると鍵がかかっていなかった。扉を開けると綺麗に掃除されており、椅子に座って机に伏せる赤毛の女性がいた。
ぼんやりと顔を上げた、ケインの予定を狂わせた成人して大分経つのに少女のようなあどけない顔の持ち主に笑う。常に淑やかな微笑みを浮かべるというエバンズ侯爵夫人の面影は一切ない。
「もう終わった?」
バタンと立ち上がり飛びつくフローリアをケインは受け止める。
「ケイン?」
「バカだな。ちゃんと人の話は最後まで聞いてよ」
拗ねた顔をするフローラらしさの欠片もないフローリアにケインは更に笑みを深める。お互いに体は大きくなっても腕の中に収まるのは変わらない。
「ケインはお姉様が好きだったもの」
「ありえないよ。ずっとリアだけだったよ。フローラに花を贈ったことないし。いつもリアにだけ渡してたよ」
「私の機嫌を取るためでしょ?私、頑張ったの」
ケインの前では常に笑顔のフローリアを慰めるために花を贈っても機嫌をとろうとしたことはしない。鈍い腕の中にいる温もりに手を伸ばしていいか最後の確認を
「本当に俺のお嫁さんになりたいの?」
「はい。平民のリアはケインさえいればいいです。あとはいりません。このまま死んでも後悔はありません」
「侯爵にべた惚れだったのに?」
「アンリ様と侯爵の様子を真似しましたわ。恩人で尊敬はしてますが私はケイン以外に心を許したことはありません。息子は可愛いですけど」
「大人になった俺を見て幻滅するかもよ?」
「ありえない。でも愛人は嫌」
「リアがいいなら俺がもらうよ。苦労させないように努力する」
ケインはポケットから指輪を出してフローリアの指に嵌めると向日葵のような満面の笑みを浮かべ、ケインを見つめてゆっくりと目を閉じた。ケインはフローリアに優しく口づけ、二人で頬を染めて笑い合う。
アントニオに突撃されるまで二人の世界に浸っていた。アントニオに呆れたフローリアがケインを連れて家に入り、鍵を閉めてようやく騎士に連れ戻され外が静かになりフローリアは満面の笑みを浮かべてケインに抱きつく。ケインは短髪になったフローリアに大事な言葉を伝え忘れたことに気付く。
「リア、おかえり」
「ただいま。でも初めましてかな?」
「リアもフローリアも一緒だよ」
健気に花を育て続けた少年はようやくかつての初恋の少女を手に入れた。無理矢理大人の階段をかけ登った少女は無理矢理閉じ込めていた箱を壊すと堪えていた物が一気に心に戻ってきた。
「お姉様は私の所為で死んだの。あの時私がお父様に」
ケインはようやく会えたフローリアを抱きしめて、静かに耳を傾ける。感情豊かなフローリアは両親と姉の死に初めて心のままに涙を流した。
ケインはフローリアを満面の笑みにする花を持っていなかった。それでも傍で慰められる現実に感謝していた。
「フローラはきっと褒めてくれるよ」
「うん。お姉様は実は家族で一番優しいもの。リア、バカなことは言わないで幸せになりなさいって」
「お説教されるかもな。リアが自責の念に駆られてると知れば。身の程をしれってさ」
「そうね。子供を産んで魔法の一族の血を残さないと」
「庭師を魔法使いと言うのはリアだけだよ」
「ケインの花は特別よ。人を幸せにする。あの花があったから頑張れた。私はケインの育てた花だけはわかるもの。ケインの花がなくなっても、貴方を想ってずっとここで過ごそうと決めてたの」
「俺には花を育てるしかできなかったから。リアが他の誰かを選んでも誕生日には贈り続けたよ。去年の薔薇は傑作だろう?リアのためだけに育てた俺の」
「え?嘘でしょ!?まさか、あの子が・・?なんてことを、絶対に許さない!!親子の縁もここまでね。だってあんなに頑張って育てたのに親って思われてなかったもの。反抗期でマザコンの息子なんて知らない!!」
「リア、落ち着いて。そろそろ休もうか。今日は疲れただろう」
「そうね。バカな元息子のことは忘れるわ。今はケインとの時間だもの。もし会うことがあれば絶対に」
「リア、俺は君の笑顔が一番好きなんだけど、笑ってくれないか?フローラそっくりの笑みは寒気がするからやめて。俺のお嫁さんになってくれるリアに会わせてくれないか?」
「ケイン」
ケインは泣き顔が怒っている顔に変わり、次第にうっとりと微笑み目を閉じたフローリアに口づける。ケインは離れたくないとずっとくっついている子供の様なフローリアに笑いながら、戻ってきた初恋の少女に幸せを噛みしめる。これ以上は傷つくことがないように、精一杯幸せにしようと腕に力を入れると幸せそうに笑う顔に目を奪われる。
純粋無垢な向日葵のような笑みではなく、甘い香りで誘う色香を身に纏う花のようになったフローリアからの口づけの甘さに酔いしれる。
離れていた時を埋めるように触れ合い、二人の世界に浸る。
ケインが目を開けると腕の中のフローリアは指輪を見つめて、満面の笑みを溢していた。
「ケインのお嫁さんなんて嘘みたい。頬をつねると痛いの。幸せすぎて」
「頬が赤くなるまでつねるなよ。リアが早起きとは知らなかったよ」
「起きたらケインがいないなんて嫌だもの。寝てるからって置いていかれたら追いかけるけど」
扉の叩く音にフローリアの笑顔が抜け落ちる。
ため息をついて起き上がり肌蹴た姿で出ていこうとするフローリアにケインは慌てる。
「リア、着替え!!その格好は駄目」
「確かに会うのは侯爵閣下。でも平民のリアならこれでいいか」
フローリアはワンピースに着替えて髪を整えて出て行く。
フローリアとケインの新婚生活はアントニオに邪魔され中々甘い生活に浸れなかった。
ケインの花を捨てたおバカな息子を追い返したフローリアは先ほどまでの冷笑が嘘のようにケインの腕の中で上機嫌に笑っていた。
「お姉様の真似、上手くなったでしょ?」
「フローラはもっとキツイけどな。いつまでも閣下に来られても困るし帰ろうか」
「私の庭師見習いデビューですか!?」
「止めても離れないんだろう?」
「うん。ケインの手で育つ花をずっと見ていられるなんて幸せ。でも時々でいいから花も欲しい」
「うちの庭で育てるか。ブライトが小さい邸をくれるってさ」
「きっと私にお仕事を手伝わせるのね。仕方ないわ。庭師見習いのリアはケインが隣にいてくれるならどんなことも引き受けるわ。ケインが私のために花を育ててくれるなんて・・。シルビー伯爵家の宝を独り占め」
うっとりと微笑むフローリアにケインは笑う。ケインの花を宝物というのはフローリアだけである。
ケインとフローリアはシルビー伯爵家に帰るとブライトが出迎えた。
「お帰り」
「お初にお目にかかります。リアと申します」
「ケインのお嫁さんなら僕の姉上でしょう?歓迎するよ。お帰り。ブライトでいいよ」
「かしこまりました」
「もう少しゆっくりしてくると思ったよ」
「頭のおかしい侯爵が訪ねてくるのよ。平民のリアは恐ろしくて」
「わかったよ。ケインとのんびり過ごしなよ。時々手伝って」
「ケインと一緒なら」
ブライトは予想より早く帰ってきた二人に驚きながらも笑顔で迎え入れた。二人のために用意した離れに案内し、使用人達に命じて急いで二人への贈り物を手配した。古くから仕える使用人達はリアの正体に気付いても何も言わない。シルビー伯爵家のようやく戻ってきた宝物を守るために。
「おじょ、リア様、ケイン、おめでとう!!」
「ケイン、しっかりしろよ!!」
「ケインは人気者だね。皆が魔法使いの虜になるのは当然ね。ケインの手はシルビーの至宝だもの」
「シルビーの至宝のために頑張るよ」
「楽しみだな。ケインのお嫁さんとして認められるように頑張らないと。お嫁さん修行は全然できなかったから」
ささやかなリアとケインの結婚式が行われフローリアは明るさの戻ったシルビー伯爵邸と最愛の人と一緒になれて幸せの絶頂だった。フローリアの中で止まった時がようやく動き出した。
フローリアの満面の笑みに涙を流す使用人に優しく微笑み、ずっと笑みを浮かべるのフローリアをケインが肩を抱く。
シルビー伯爵家の欠けたピースが揃い、本当の意味でのシルビー伯爵家の始まりだった。
今日も帽子と手袋を付けたフローリアはケインの傍に座って満面の笑みを浮かべている。庭師の仕事は見学からと言われ頷いていた。ケインもケインの家族も華奢なフローリアを庭師として仕込むつもりはなく植える花の相談や子供の遊びのような簡単な仕事しか与えない。
「フローラ!!」
フローリアは聞き覚えのありすぎる声に決して振り向かない。アントニオは気にせず話しかける。
「帰ろうよ。僕のお嫁さんはフローラだよ。こんな不自由な生活はさせない。こんな薄汚れた男と」
「侯爵閣下、恐れながら人違いでしょう。私の愛する夫を侮辱するなんて亡きお母様が悲しみますわ。それにお父様も」
フローリアはシルビー伯爵家に引っ越してからアントニオに居場所が見つかるまでは平穏に暮らしていた。アントニオは時間ができるとフローリアを訪ね、ブライトは甥がいつもケインを追いかけていた姉にそっくりと笑う。
フローリアは離れてもいつまで経ってもマザコンが治らないことに頭を悩ませていた。
フローリアは生まれたばかりの我が子に初めての言葉を贈った。
「覚えておいてね。親とは結婚できません。マザコンに育ってはいけませんよ」
「リア、それは大きくなってからで」
「ううん。駄目。アントニオはどこから間違ったかわからない」
フローリアの娘が最初に話した言葉はマザコン。ブライトは笑い、ケインは苦笑し、フローリアはマザコンは駄目と覚えさせ直していた。
「アント、平民と貴族は結婚できないんだよ」
3歳になったばかりの赤毛の少女は腰に手を当ててアントニオにお澄まし顔で言う。
「それはいずれなくなるよ。身分で結婚できないなんておかしいだろう?」
「でも人妻とはいけないのよ」
「世の中には略奪愛というものがあるんだよ」
我が子とアントニオの会話に頭を抱えながらフローリアはブライトに呟く。
「私に子育ての才能はないみたい。ケインに期待するわ。うちの子はマザコンには育ってないもの」
「ケインは子守のプロだからね」
「あの時甘やかしたのがいけないのよね・・。何度診察させても頭に異常はなかった。侯爵閣下はマザコンじゃなかったのに・・・」
ケインが暗い顔のフローリアに花を渡すとフローリアは花を受け取り満面の笑みを浮かべる。フローリアの気分を浮上させるのは簡単だった。いつまで経っても変わらないフローリアにケインとブライトは笑う。フローリアの明るい笑顔が20年の時を経て帰ってきた。淑やかに笑う顔よりも向日葵のような明るい笑みは空気を明るくする。
ブライトは亡きフローラといずれフローリアとケインが望むなら応援しようと決めていた。向日葵のような笑顔はシルビー伯爵家の宝物だった。力の無かったブライトはフローリアに全てを背負わせた。だからいずれは返してあげたかった。
ブライトはフローラよりも厳しくない。ケインへの縁談の申し入れや他家への誘いは断り潰していた。二人に離れ離れになる以外の試練は望まなかった。いつまで経っても姉の為に花を育てるケインを嬉しく思い、いずれ時が来たら結ばれて欲しいと願っていた。
フローラにそっくりの淑やかな笑みしか浮かべないフローリアを取り戻せるのはケインだけだと気付いていた。
エバンズ侯爵家に恩があっても、ブライトにとって大事なのはフローリア。それにフローリアは恩を返せるだけの働きをしたとブライトは思っている。
ケインもブライトもアントニオがマザコンではなく真実に気付いていることはフローリアには話さない。
パンドラの箱が開き明るい笑みが消えるようなことはしたくなかった。
アントニオがフローリアに薬を盛られて、既成事実を作られ令嬢を嫁に迎える未来が見えても口にすることはない。未だに実行されてないのはケインが止めているからである。
他家のことは口に出さない。これは貴族に関わる者の常識である。
一時、暗闇に襲われたシルビー伯爵家が嘘のような明るい雰囲気に溢れていた。
不幸な生い立ちを持つ優しく紳士なシルビー伯爵。シルビー伯爵の傍には家族代りの庭師夫婦がいた。
シルビー伯爵家の平民なのに所作の美しい美人教師は有名だった。
「ごきげんよう。皆様。リアと申します。私の教えで一番覚えていただきたいことからお話しましょう」
教師のリアは貴族の結婚についての教えを熱弁する。誰もが知っている常識を授業の始めに。そして授業で令嬢達の様子を観察しながらアントニオと後継を作ってくれそうな令嬢を探していた。
令嬢達は授業中は淑やかな美女リアが夫に見せる少女のような仕草に目を丸くする。
「うちの教師は二面性が激しいんだよ。色々あってようやく結ばれた二人だから」
「リア先生を追いかけているのは・・・」
「気の迷いだろう。リアは10歳の時に亡くなった両親の借金を負わされて飛び出したんだよ。初恋の少年に一方的に想いを告げて事情も告げずに。少年はずっとリアを待ち続けた。操を守りながら借金をようやく返したリアは20年ぶりに帰ってきてようやく結ばれた。うちにも相談せずに飛び出したのは腹が立つけど、邪魔したくないだろう?」
「貴族とはいえ許せないものがありますわ。お美しいリア先生の」
フローリアは姉想いのブライトの暗躍には気付かない。
授業を終えたフローリアはケインの傍で幸せに浸る。赤い薔薇をうっとりと見つめて微笑む。
「私もいつか貴方のために花を咲かせられるかな」
「俺は枯らしたくない花を持ってるからいらないよ」
「そんな花があるの?ケインの魔法の手にかかれば」
「俺の世界で一番大事な花。変幻自在だから世話が大変だ」
「ブライトに無茶を言われたら教えて。手伝うよ」
「そうだな。そろそろ帰ろうか」
「手袋をしているから手が繋げるね。貴方のお父様は魔法使いよ。マザコンに育たないでね」
ケインは道具を片付けフローリアに手を伸ばすと満面の笑みを浮かべる。庭師のケインにとって一番大事な妻の笑顔が枯れないように。愛情という栄養を与えて傍に寄り添う。
人を嫌うことを知らなかったフローリア。伯父夫婦に裏切られ、大事な両親と姉を亡くし、恩人と友人も儚くなった。
花の化身のように育った妻をケインは抱きしめる。嬉しそうに笑うフローリアは不幸の生い立ちがあるように思えない。ケインは腕の中の花を生涯大事にした。
運命を味方につけた少年と少女は幸せになった。シルビー伯爵家の大輪の赤い薔薇が流行するのはしばらく先の話だった。恐ろしいほど繊細な大輪の赤薔薇を育て求婚すると結ばれると謳われる薔薇を初めて育てた庭師の少年の物語が本になるのも。
「ケイン、この女性誰なの!!本に、浮気は絶対に」
「リアだよ。俺個人が花を捧げるのは生涯リアだけだ」
「そ、それなら許してあげる。ケインが有名になるのは嬉しいのに、私の薔薇が・・・」
「今度は向日葵を育てるかな。薔薇はもういいや。リアが欲しいなら育てるけど。ブライトが名前をつけろってうるさいからフローにしたんだ」
「懐かしいな。お父様ったら二人を呼ぶのが面倒ってお姉様と一緒に呼ぶときはフローって」
「薔薇の名前にしてはセンスがないって言われたから丸投げした。結局フローになったけど」
「ブライトもセンスはないもの。でもあの薔薇は力があるから独り占めは勿体ないわ。うちの元バカ息子のために薔薇を育ててくれる令嬢はいるかしら」
フローリアの教育を受けた令嬢達がアントニオを追いかけているのは知らずに庭師夫婦は二人の世界に浸る。シルビー伯爵家の庭は国内でも屈指美しさを誇る。
そして美しい庭を作る庭師にシルビー伯爵家の血が混ざるのは珍しいことではなかった。
身分に関係なく婚姻が認められる世がきて、アントニオは父と同様に年若い少女を妻に迎える。フローリアはケインの胸で涙を流した。亡き姉フローラの面影を持つ次女の嫁ぎ先に。
フローリアはケインの腕から離れて娘の肩に手を置き真剣に見つめる。
「ほんとうに侯爵閣下でいいの?」
「はい。お世継ぎを残すのは大事でしょう?それに侯爵夫人になれば本がたくさん読めます」
「もしも辛くなったら帰ってきなさい。バカを言えばお母様が叱ってあげるから」
「リア、侯爵閣下は変わっているけど、大人気だろう?大丈夫だよ」
「う・・・。子供ができたらマザコンに育たないようにきちんと言い聞かせるのよ。最初が・・」
フローラそっくりに微笑む娘にフローリアは自分の失敗を言い聞かせる。
「アントニオも諦めが悪いよな。まさか契約結婚なんて」
「リアが知ったら乗り込むよな・・・。でも目的のために手段を選ばないのはフローラそっくりだよ。侯爵夫人の仕事をして、禁書を手に入れたいんだってさ。世継ぎを産んだら子育てはうちに預けるけどリアには内緒にしてほしいって」
「子育ての天才のケインに?」
「俺は庭師で乳母じゃないよ。まぁ好きに生きればいいよ」
「姉上、ご満足はしていませんよね・・。わかってますよ。それは僕が亡くなる瞬間に聞くべき言葉ですよ。シルビー伯爵家の繁栄のために力を注ぐのでご心配なく」
ケインは娘に贈るブーケを考えながら生意気で手のかかる義息子が増えさらに賑やかになる明日を想像して笑う。
ブライトは誰よりも厳しいフローラを思い浮かべて苦笑する。どんな結果でも最後まで全力でやり遂げれば「さすが私の弟」と美しい笑みを浮かべるシルビーのもう一つの至宝に。
シルビーの至宝はシルビー伯爵の宝のこと。
前シルビー伯爵の宝は美しい庭と領民そして家族の笑顔。
シルビーの家臣はシルビーの至宝を大事にする。
伯爵夫妻の優しい笑み、フローラの美しい微笑み、フローリアの向日葵のような明るい笑顔、ブライトの無邪気な笑顔。
シルビーを守る本家一族は領民達の拠り所であり宝である。