ある侯爵夫人の息子の記録 前編
覗いてくださりありがとうございます。
このお話のフローラとフローリアは同一人物です。
ただフローラ・エバンス時代はフローラ、フローラ・エバンスを捨てた後はフローリアと表記しています。
読みにくいかもしれませんが、お付き合いいただけると幸いです。
エバンズ侯爵家嫡男アントニオにとって母のフローラが一番美しく慎み深い女性である。祖母のように口うるさくなく、侍女のように賑やかでなく、令嬢のように煩わしくない。理想の女性を聞かれれば母の名前を迷いなく口にする爽やかな容姿の美少年だった。
アントニオにとって子供の頃の記憶はフローラとの記憶ばかり。
多忙な父は留守が多いが寂しさを感じたことは一度もない。アントニオの世界の中心は母親。多忙で留守の多い父よりも母が好きな父が留守の日が好きな親不孝な少年だった。
アントニオがフローラの膝の上に座り本を読んでいると部屋に現れた侍女を見て落胆する。
「旦那様がお帰りです」
「ありがとう。アントニオをお願いしますね」
エバンズ候爵の帰宅を聞いたフローラは微笑み抱いていたアントニオを乳母に預けゆっくりと立ち上がり迎えに行く。
「お帰りなさいませ。旦那様」
「ただいま。かわりはないか?」
「はい。ありませんわ」
エバンズ侯爵は慈愛に満ちた笑みを浮かべて出迎える小柄な妻に手を出すと、やわらかく微笑み手を重ねる。エバンズ侯爵夫妻は仲睦まじく言葉をかわしながら足を進める。年下の愛妻に夢中なエバンズ侯爵はどんなときでもフローラを優しくエスコートする。そしてエバンズ侯爵家にとっては見慣れた繰り広げられる二人の世界がアントニオは大嫌いだった。
早くに帰宅するエバンズ侯爵の行先はいつも同じ。アントニオにとって執務室で仕事をしている父の横で母がお茶を飲んでいるのが見慣れた風景。顔を出せば暖かく迎え入れられるが、ふと両親の二人の世界に浸る姿が心底嫌いなアントニオは用がなければ父の執務室に行くことはない。
エバンズ侯爵家の使用人達は多忙な侯爵の邪魔をせず静かに寄り添うフローラを微笑ましく見守っていた。
事情がありエバンズ侯爵家に夫人が足を踏み入れたのは婚姻して2年目。
小柄で華奢なフローラ・エバンズ侯爵夫人の腕には髪は夫人譲りで瞳はエバンズ侯爵譲りの男の子が抱かれていた。
「ご挨拶遅れて申しわけありません。フローラと申します。よろしくご指導お願い致します」
「フロー、不便があればいつでも言いなさい」
「ありがとうございます」
社交界では悪い噂ばかりでも使用人達は後継問題を解決してくれたフローラに感謝し、精一杯仕えようと決めていた。悪女と言われていたフローラは噂とは正反対で慎ましく、淑やかな笑顔で夫に寄り添い、甲斐甲斐しく子育てをする様子に次第に打ち解け心から仕えるようになった。そして、母親が一番のアントニオよりもエバンズ侯爵を優先する姿も若さゆえと諌めることはなかった。エバンズ侯爵が留守のときはきちんと家を守りアントニオに愛情を持ち接している。たまにしか帰宅できない夫との夫婦の時間を咎めるほど非情ではなく、使用人達は不幸な生い立ちの侯爵夫人の味方だった。侯爵夫人は嫁いでから1度も生家に帰っていない。シルビー伯爵夫妻とシルビー伯爵令嬢暗殺事件で心に傷を負いながらも、甘えを許さず恩ある侯爵家のためにと社交界で誹謗中傷を受けても逃げずに笑顔で立ち向かう年若い夫人の味方である。
「母上は帰らないの?」
「旦那様に追い出されたら考えますわ。お菓子を用意しておきますわ。お友達の分もあるから遊んでらっしゃい」
フローラはブライトとの面会が終わり、同席していたアントニオの頭を優しく撫でて送り出す。エバンズ侯爵が出不精のアントニオのために同世代の子息を招待していた。シルビー伯爵夫妻は勉強の時間以外は子供達を自由にさせていた。フローラ達は両親が好きでも各々が自分の時間の楽しみ方を知り、姉弟仲も良く多忙な両親と離れても寂しいという感情はなかった。アントニオが母親を好きすぎることも父親を敵視していることもフローラは気付かない。
両親や家臣から溺愛されていたシルビー伯爵令嬢はエバンズ侯爵家の使用人達からも忠誠と言う名の過剰な愛情を受けているが気付かない。
アントニオは利発な子供だった。侯爵子息として必要なお付き合いを理解しており、同世代の友人とも遊ぶが母親のお茶の時間には必ず帰ってきた。
「母上は出かけないの?」
「外出なら護衛を連れて行きなさい。旦那様とお出かけするにはもう少し大きくなってからかしら。そうすれば視察にご一緒」
フローラは義母からアントニオが父親との時間が少ないのではないかと心配されていたので、もう少し大きくなったら共に視察に行けるように取り計らってもらおうかとお茶を飲む。アントニオが自分と外出したいと思っているんのは気付かない。
「父上、ここは?」
「たまには自然豊かなな場も悪くない。空を見上げて風を感じて、当たり前を確認する」
「母上とも来られたんですか?」
「ああ。ここは大事な場所だ」
エバンズ侯爵はアントニオを連れて領地を周り始めると頻繁に立ち寄る村があった。
「父上、どうしていつもここに?」
「ここにはフローの好きな焼き菓子が売っているんだ。手に入るかは運しだい」
「命じて作らせれば」
「アントニオもいずれわかる。お前の髪は美しいな」
エバンズ侯爵は愛しい人と同じ髪を優しく撫で、戻ることのない時間に想いを寄せる。ここはアンリが生まれ育った村で近くにアンリの家がある。窓からでも我が子を見れればいいとフローラにアントニオとの外出を頼まれてから頻繁に訪ねていた。体調のいい時はお菓子を焼いて温かいお茶を淹れて自分を迎えてくれる愛しい人。不治の病にかかり先は長くない。フローラに心配させないために会うの拒みアントニオを託した自分よりも他人を大事にする愛しい人。アンリと正反対のエバンズ侯爵はアンリを手放せない。エバンズ侯爵や家族よりも恋人を選ぶ。もしも自分がアンリの後を追っても祝福してくれる妻なら自分亡き後も託せると信じていた。自分が育てるよりもマトモに育つとも。
恨みの根源は葬り去り、妹のような妻が運命を掴めるかは二人次第。そして息子が唯一を見つけられるかも。
「アント、時に頭でわかっていても心が受け入れられないものがある。生きて諦めなければ適う―」
アントニオは父親の語りに耳を傾けながら、今日も見つからない母の好きな焼き菓子屋の休みに落胆する。父親との時間よりも早く家に帰って母と過ごしたい薄情な息子は親心には気付かない。
しばらくして6歳になったアントニオは執事に父が倒れたと言われ、夫婦の寝室に足を運ぶ。青い顔で眠っている父の顔を覗くと、ゆっくりと目が開き、長い指がアントニオの髪に触れる。
「アンリ、いたのか」
アントニオは壊れ物のように髪に触れる指と聞いたことのない声と見たことのない笑顔に驚く。エバンズ侯爵の甘く愛しさの籠った笑みや甘えをふくんだ声を向けられるのは恋人のアンリだけだった。
「愛しているよ。君の髪は美しい」
アントニオは何も言葉が出ない。あんなに母に大事にされて愛人がいるのかと軽蔑している息子に気づかずにエバンズ侯爵は甘い笑みを浮かべ目を閉じると真っ青な顔のフローラが駆けこんできた。
「閣下!?あら?アントニオが旦那様に付いていてくれたんですね。ありがとうございます。お父様にお話があるならしてください。人は突然亡くなるものです」
フローラはアントニオを見つけて、慌てて平静を取り繕った。いつも貴族として堂々と落ち着いていた姉を脳裏に浮かべ微笑んだ。
「母上、僕はお話したよ」
「そうですか」
動揺してない現実の厳しさを知らない幼い頃の自分のようなアントニオにフローラは唇を噛む。親を亡くすアントニオへの不憫な気持ちは我慢して姉の真似をした淑やかな笑みを浮かべたフローラはエバンズ侯爵の手を握って祈りを捧げる。真剣に祈る母の邪魔をしないようにアントニオは立ち去る。父の裏切りを知り軽蔑の視線が我慢できず、真剣に祈れる心境でもない。そして裏切られているのを知らずに父の手を握る母が不憫で、ぐちゃぐちゃのどす黒い感情に支配されそうで、庭に出て一心不乱に剣を振る。
いつも仲の良い両親。父が母と一緒にいる場所は執務室か寝室。二人で私的に出かける姿もなく、留守の多い父の行先は―。
アントニオには父が死ぬかもしれないことよりも母を蔑ろにしていることのほうが許せなかった。
裏切られていると知らずに、ずっとエバンズ侯爵に付き添うフローラが心配でそっと部屋を覗くと話し声が聞こえた。フローラが付き添っている時はフローラの希望でエバンズ侯爵夫妻の寝室は人払いされていた。
「フロー、ありがとう。約束の日になったら自分のために生きなさい。君のおかげで幸せだったよ」
「候爵閣下、お礼を言うのは私のほうです。アントニオは私が立派に育ててみせます。どうか私の友人に会ったらよろしくお伝えください」
フローラはいつもエバンズ侯爵を旦那様と呼ぶ。少し様子のおかしいフローラを使用人達に動揺を隠して気丈に振る舞っていると言われてもアントニオには違和感があった。
エバンズ侯爵が息を引き取り、手を握って泣き崩れる子供のようなフローラをアントニオは静かに見ていた。
「閣下、どうかアンリ様とお幸せに」
ポロポロと涙を流すフローラの嗚咽と呟きにアントニオは息を飲む。
「お二人の代わりに私がきちんと育てます。安心してくださいませ。ご恩は必ずお返しします」
泣きながら呟くフローラの言葉にアントニオは笑う。父の死は天罰だと思っており悲しみよりも、どす黒い感情が支配していた。献身的に看病する大事な母を裏切る父のかわりにと、アントニオに生まれた願いがあった。
「フローラ?」
母と呼ばずに名前を呼ぶと顔を上げて涙を拭いて微笑むフローラは美しかった。フローラは手を伸ばしてアントニオを優しく抱きしめる。
「お母様が立派な侯爵に育てるから安心して。お父様の分まで頑張るから」
アントニオを抱きしめるフローラの体は細く、手は震えていた。
「僕が父上の分まで守るよ」
「頼もしいですわ。侯爵を目指すには心構えは大事ですよ。お父様にお別れなさい」
「父上、フローラは僕が守るよ」
アントニオはフローラの胸に顔を埋めて隠れて笑った。
エバンズ侯爵の亡くなった日はアントニオにとって始まりの日だった。フローラの一番である父の立ち位置がアントニオは羨ましくてたまらなかった。
エバンズ侯爵の葬儀が行われ喪服に身を包んだフローラとアントニオを貴族達が見つめ囁き合う。
「エバンズ侯爵夫人、お可哀想に」
「13で両親を亡くし、今度は・・・」
「でももしかしたら・・・」
囁かれる声にフローラは淑やかな笑みを浮かべ参列の礼を言い、葬儀を取り仕切る。
アントニオは姿を消したフローラを探しにいくとブライトから花束を受け取っていた。
「姉上、大丈夫?」
「ありがとうございます。アントニオが寂しがるから時々遊んでください」
「これを閣下に」
花束を抱きしめるフローラの顔が一瞬歪む。フローラは心を落ち着けるために花束に顔を埋めて香りに集中していると息子の自分を呼ぶ声に顔を上げ、気合を入れる。アントニオは花束を抱いているフローラの表情に目を奪われる。
エバンズ侯爵代理が不甲斐ない姿は見せてはいけない。アントニオが継ぐまではフローラが侯爵家を守らなければいけない。昔のように丸投げできる相手はいないとこれからに決意を秘めたフローラの凛とした姿は美しく、時々憂いを帯びる儚げな風貌は庇護欲をそそられ、引き付けられるのはアントニオだけではなくなった。アントニオが子供の振りをして追い払えば、敬愛する父を亡くし動揺する子供から母親を奪おうとする者はいなかった。
アントニオとフローラの後見には前エバンズ侯爵夫妻が名乗りをあげ、葬儀が終わると、前エバンズ侯爵はフローラをお茶に誘った。
「フローラ、そなたは若い。また別の道もある」
「義父様、私はエバンズ侯爵夫人です。旦那様亡き今、私が家を守ってアントニオを立派に育てます。この子が立派に育ち侯爵を継いだらまた違った世界も見えてくるかもしれませんわ。新たな人生はそこからでしょうか」
淑やかに微笑むフローラに前エバンズ侯爵は苦笑する。未亡人となり大人の色香を匂わせる適齢期のフローラに好条件の縁談の申し入れがあった。4つ年上の侯爵嫡男や伯爵、いずれも正妻として迎え入れたいと。孫が育つ頃にはフローラの華も散る時期とわかっていても決意を秘めた瞳に言葉を飲み込み不甲斐ない息子と違いしっかりした義娘の頭をそっと撫でた。
「苦労をかける」
「こちらこそいつもすみません。弟の次は私達が指導していただかないといけませんわ。もうすこし執務についてお勉強しなければいけませんでしたわ」
アントニオは聞き耳を立てていたのを侍女に気付かれ慌てて中に入った。アントニオが祖父に挨拶をして、フローラの隣に座ると微笑まれ赤くなる顔を隠すために抱きつくと頭を撫でられ膝の上に頭を乗せられる。優しく撫でる手に瞼が重たくなり眠りの世界に誘われる。前エバンズ侯爵はフローラとアントニオのやり取りを眺めながら良い家族を作ったことを讃えるべきか先に逝ったことを責めるべきか息子に複雑な気持ちを浮かべていた。
アントニオはフローラの新しい人生に期待を抱き早く侯爵を継いでフローラに認めてもらおうと心に決めた、フローラに近づく男は身内以外は徹底的に追い払いはじめたのはこの日が始まりだった。
アントニオの決意を知らないフローラにより8歳からアントニオのお見合い地獄が始まる。
フローラは早めに婚約者を選び支え合うほうがアントニオのためだと思っていた。そして父親を亡くしてからフローラにべったりなアントニオを心配していた。
アントニオは母に送り出され案内された席に座り、令嬢に挨拶をしてすぐに立ち去り侯爵邸に帰った。
「ただいま、フローラ」
フローラはアントニオを見て驚きを隠し、お茶を飲む手を止めた。
「まだお茶会に行ってなかったんですか?使いを」
「もう終わった」
フローラは笑顔で自分の膝を枕に寝転ぶアントニオにため息を我慢し優しく嗜める。
「早すぎます。ご令嬢に失礼ですよ」
「ちゃんと侯爵夫妻の機嫌は取ってきたよ。僕はフローラをお嫁さんにする」
「まだ子供ですものね。お疲れ様でした。お休みなさい」
アントニオは頭を撫でられる手に気持ちが良くなり目を瞑る。
幼い頃から自分を寝かしつけるフローラの手に敵わない。
アントニオは空気は読めるので、エバンズ侯爵家に不利になることはしない。自分がやらかすとフローラが忙しくなるので、さじ加減はわかっていた。
エバンズ侯爵邸にはシルビー伯爵が時々訪問した。叔父のブライトがフローラに面会していると聞きアントニオは剣の稽古が終わり急いで会いに行った。
「姉上、これ」
ブライトが差し出す真っ赤な薔薇にフローラは目を輝かせ手を伸ばした。頬を染めうっとりと薔薇の香りを楽しむフローラの溢す吐息とともに溢れる声色はアントニオの知らないものだった。
「今年も綺麗。魔法の手」
ブライトは自分の世界に入り込むフローラの邪魔をせずに静かに眺める。ブライトは不器用な姉の幸せも兄のような幼馴染の幸せも願っている。
この光景を隠れて見ていたアントニオが頬を染め息を飲んだのには気付かない。いつも淑やかに微笑むフローラが女性の顔で、薔薇に恋い焦がれる顔は令嬢達がアントニオに向ける顔にそっくりだった。
フローリアはいつも姉のフローラを演じていた。フローラの仮面が無意識に剥がれるのはケインからの花の前だけ。それを知るのはブライトだけである。