ある侯爵夫人の記録 3
かつてエバンズ侯爵は数多の令嬢を虜にしても誰も選ばなかった。
すでにエバンズ侯爵の心は心優しい村娘に囚われていた。どんなに素晴らしい女性でも平民を愛人として迎え入れるのは厳格なエバンズ侯爵家は許さず、前エバンズ侯爵夫妻は息子を貴族令嬢と婚姻させようと手段を講じるも回避され全て無駄に終わっていた。
そこに目を付けたのはフローラ・シルビー。
両親が倒れ、命の灯が消えつつあるのがわかり後見を探していた。父が伯父に家督を渡すなら死を選ぶことも。貪欲な伯父が跡を継げばブライトは殺され自分とフローリアはお金のために嫁入りさせられることも。シルビー伯爵家を襲う闇にのまれないための唯一の方法を。
フローラはエバンズ侯爵の愛人を調べ、神のめぐり合わせに感謝した。
エバンズ侯爵の愛人とフローラは同じ色を持つ容姿。愛人との子供をフローラと侯爵との子供として育て、お飾りの侯爵夫人になるので伯爵家の後見と伯父夫婦から守ってほしいとエバンズ侯爵に取引を申し出た。エバンズ侯爵はフローラに取り引きを持ちかけられ当初は断ったが、事情を聞き侯爵家として手を貸す約束をした。
フローラの情報をもとに伯父夫婦やシルビー伯爵家を調べている間にシルビー伯爵夫妻とフローラが亡くなり、突然訪ねてきた妹のフローリアの覚悟を決めた顔を見て取引に応じた。計算高い者よりも覚悟を決めた単純な者のほうが手強いことをエバンズ公爵はよく知っていた。
噂で聞いていた向日葵のような明るい笑顔を浮かべる天真爛漫な令嬢の瞳の暗さが不憫で、世を儚むには早すぎた。
シルビー伯爵家では髪色を染めたフローリアがフローラのように振る舞い、ブライトもフローリアを亡くなったと思い込んでいる。
突然エバンズ侯爵家の家臣が指揮を取り、葬儀や婚姻の準備が進められ指示されるまま動いていた。シルビー伯爵家の家臣達はあまりの慌ただしさに何も考える余裕はなかった。
一番幼いブライトだけが落ち着き忙しそうな家臣の様子を眺め、フローリアは人払いをして淡々と作業をこなしていた。屋敷を駆け回る悪戯好きなブライトが別人のように落ちついてたたずみ、いつも明るいフローリアの静かなフローラにそっくりな雰囲気に家臣達は声を掛けることはできなかった。
家族の突然の死が大事なお嬢様と坊ちゃんの心を壊したと家臣達は隠れて涙を流しながら幼いお嬢様と坊っちゃんの心を守るためにフローリアの葬儀を受け入れた。
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エバンズ侯爵は爽やかな雰囲気を持つ紳士的な青年である。唯一の欠点は妻を持たないこと。歳を重ねても妻の座をめぐる令嬢達の戦いは繰り広げられていた。
どんな女性とも一定の距離を保ち特別な女性は誰一人持たなかったエバンズ侯爵の突然の婚姻話は社交界を騒がせた。
フローラ・シルビーは常に淑やかな笑みを浮かべどんな時も落ち着きを払う令嬢。14歳に見えない発育の良い体を持っているが、決して下品に見えない仕草で名門伯爵家の令嬢として相応しいと評価されていた。
フローラの評判は良くも14歳の令嬢である。どんな女性も相手にしなかったエバンズ侯爵がフローラを選ぶとは誰も思わなかった。フローラは整った顔立ちをしているが絶世の美女ではなく、愛らしい笑顔も持たない。同世代の中では聡明だが、学者顔負けの知識も持たない。
フローラが選ばれなかった女性達との違いはたった一つだけ。そして成長途中でも発育の良い体は下世話な妄想や噂を加速させるには十分だった。
家族を亡くしたシルビー伯爵令嬢がエバンズ侯爵の同情を利用し、お手付きになり強引に婚姻を迫ったと噂は瞬く間に広がっていた。
前エバンズ侯爵夫妻は、初めて息子からシルビー伯爵令嬢を迎えたいと聞き快く頷いた。すでに身籠っていることに驚き、順序は違うが後継問題が解決し尊い血を引く後継は大歓迎だった。エバンズ侯爵家に及ばなくてもシルビー伯爵家は歴史もある名家。そして年若いフローラ・シルビーは同世代の中では評判の良い令嬢なのでエバンズ侯爵夫人として受け入れることにも反対はなかった。婚姻前に手を出した醜聞など後継問題に比べれば軽いもの。前エバンズ侯爵夫妻にとっては平民に夢中の息子の目を醒ましたフローラは救世主だった。
エバンズ侯爵はフローラの家族の喪に伏すため盛大な婚儀をあげずに書類だけで手続きをした。
家族を亡くし、身重のフローラの体を気遣い産まれるまで静かな領地で療養させたいと願う息子に前エバンズ公爵夫妻も同意した。後継問題が片付き歓喜し、不謹慎でもエバンズ侯爵邸ではお祭り騒ぎだった。
フローラの希望でエバンズ侯爵は愛人のアンリの家の近くに邸を用意した。
エバンズ侯爵はフローラに面会はいらないと断られても週に一度は顔を見に行くといつのまにかフローラがアンリと親しくなっているのに驚きながら受け入れた。
「閣下、御子が生まれたらアンリ様を乳母にされますか?私もお世話しますが」
「1年はこのまま過ごしていい。君は産後の肥立ちが悪く私が心配して社交に出さないことにするよ。復帰したら忙しいだろうが」
「社交のお勉強は終わっています。ブライトをありがとうございます」
「覚えがいい。父の相手をしてくれるから助かるよ。無事な子を産むのが一番だから今はゆっくり心身を休めなさいとこれを預かってきたよ」
フローラは弟からの手紙と赤い薔薇に満面の笑みを溢す。
赤い薔薇に深い意味はなくても、薔薇を見ると大好きな人が思い浮かんだ。無理矢理閉じた箱の中身は出さない。それでも薔薇を愛しく思う気持ちは抑えられなかった。
「フロー様は赤い薔薇がお好きですね」
「はい。今年も美しいです」
フローラは葬儀が終わり、シルビー伯爵邸を出てからずっと与えられた邸で過ごしていた。葬儀はヴェールとヒールの高い靴のおかげでフローラに見せることができた。人々の記憶が薄れ、フローリアがフローラに見えるようになるまで療養と妊娠を理由に人と会うつもりもない。
葬儀でフローリアの死を悲しむ友人達の涙に何も感じなかった。フローラ・シルビーは妹が罪の意識で立ち止まることを望まない。きちんと利用して家を守りなさいと言うのがわかっていた。姉弟の中で一番伯爵家を愛し誇りを持っていた姉に成り代わり、伯爵家とブライトを守ることと伯父夫婦への恨みしかフローリアの心にはなかった。
それでも時が経ち優しいエバンズ侯爵に明るいアンリと過ごす時間は少しだけフローリアの心を癒した。そしてエバンズ侯爵が夫人を迎え入れなかった理由もわかった。
アンリはエバンズ侯爵が夫人を迎え入れれば身を引く。何度も別れようとしたのをエバンズ侯爵が引き留め離さなかった。
フローリアと違い世間に抗い、身分が違っても共に歩む道を選んだ二人を見ると愛しい人を思い浮かべそうになる。フローリアを消した日から一度も顔を見ず、思い浮かべることを許さなかった人を。
フローラは恩のあるエバンズ侯爵のためにアンリと過ごす時間を守るために協力したいと思うようになり、いつの間にかアンリ達と過ごす時間が好きになった。
エバンズ侯爵は暗い瞳の少女の瞳に光が灯ることに安心した。
その頃前エバンズ侯爵夫妻がシルビー伯爵家でブライトを補佐しながら領地経営を教え込んでいた。ブライトを孫のように可愛がっている話にフローラはお礼の手紙と刺繍をいれたハンカチを贈り、前エバンズ侯爵夫妻と文通しながら親交を深め、エバンズ侯爵夫人の心得について学んでいた。
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フローラはエバンズ侯爵邸で生活を始めたのは婚姻して2年目。
嫡男のアントニオを抱いたフローラをエバンズ侯爵家は暖かく迎え入れた。
実年齢は12歳でも15歳の設定である。20歳以上も歳の差がありどうしても夫婦に見えないのはわかったのでフローラはエバンズ侯爵を愛しているフリをした。フローラの中では押しに負けてエバンズ侯爵が折れた設定である。
アントニオが生まれてからはフローラはアンリと一緒に住み、エバンズ侯爵とアンリの仲睦まじい様子を眺めていたので、二人のエピソードを自分のもののように語った。年若くも自分の主にべた惚れのフローラをエバンズ侯爵家の家臣達は微笑ましく見守っていた。
アンリは産後の肥立ちが悪く、ともには戻れなかったためフローラは毎日アントニオの様子を手紙に綴りエバンズ侯爵が出かける時に家臣に見せつけるように恋文として贈る。
フローラはアントニオを育てながら常にエバンズ侯爵の傍に寄り添い屋敷で仲の良い夫婦をアピールする。フローラはエバンズ侯爵が執務のために侯爵邸にいる時は必ず傍で過ごし、エバンズ侯爵の貴重な自由時間はアンリのためにあてられるようにと動く。
フローラの努力のおかげで二人はおしどり夫婦と言われ、アンリに会うために頻繁に出かけるエバンズ侯爵のアリバイ工作もフローラが手伝っていたのでエバンズ侯爵家の使用人達には愛人とは手が切れ新妻に夢中と思われていた。夜になるとエバンズ侯爵が窓から抜け出し、早朝に戻ってくるのに気付いている者はいなかった。
社交界に復帰したフローラは批難の嵐に襲われる。婚姻前に肌を重ねるのは淑女としてありえなかった。エバンズ侯爵のいないお茶会の席はフローラにとっては断罪の場。
財産目当て、ふしだら、みっともない、尻軽、どんな言葉も伯父夫婦への憎しみに比べれば可愛いものなので、淑やかに微笑みを浮かべて受け流す。
それに後見目当てで婚姻を迫ったのは事実である。どんな時も酷い言葉でも動揺を見せず落ち着き淑女の仮面を外さないフローラは年長の夫人達の心を掴んでいく。
女遊びに夢中な貴族に何度も誘われてもフローラは淑やかな笑顔であしらう。エバンズ侯爵以外に甘える仕草は見せず、どんな貴公子にも見向きもせず、甘い言葉に頬も染めないフローラは次第に同世代でも認められていく。常にエバンズ侯爵に寄り添い、シルビー伯爵家の後見を引き受けてもらっていることに感謝を告げ、傷を癒してくれた夫を愛していると淑やかに微笑むフローラの悪女説は次第に消え、淑やかなシルビー伯爵令嬢が夢中になるのはエバンズ侯爵だけと噂が広がり後におしどり夫婦と呼ばれるようになる。
フローラが社交界に復帰してからブライトが都合がつく限り毎年訪問する日があった。
ブライトはフローラに赤い薔薇と鍵とカードを渡した。
カードにはシルビー伯爵領の辺縁の村の名前が書いてある。
「姉上、どうぞ」
「ありがとうございます」
4歳のアントニオは幸せそうに笑うフローラを見ていた。
「お母様、薔薇が好きなのに庭に植えないの?」
コテンと首を傾げるアントニオをフローラは膝の上に抱き上げる。
「お庭にはいりません。特別なものは特別な日だけでいいのです」
フローラが好きなのは薔薇ではない。鍵をしても花を見ると幸せだった時間を思い出す。フローラは淑やかに微笑みアントニオの頭を撫でながら、アントニオが大人になった時に思い出せる幸せな時間があるようにと願う。本物の母親の愛情をあげられない代わりにフローラは精一杯大事に育てると決めていた。
フローラの穏やかな日々は結婚6年目までだった。
アンリが亡くなり、追うようにエバンズ侯爵も亡くなり、突然の親しい人達の死にフローラは茫然とした。
エバンズ侯爵のために贈られた白百合の花束を抱きながら、決して起きない寝顔を見つめ現実の無情さを思い出す。そして動揺して飛び出しそうになったフローリアを追い返し、フローラとして生きる覚悟を思い出す。
フローラにとっての救いは伯父夫婦への断罪が終わり、ブライトが婚姻しシルビー伯爵を継いでいたこと。亡き父の代わりの庇護者だったエバンズ侯爵を亡くしても前を向いて立ち上がる。
精一杯アントニオを立派な侯爵に育てますと棺の前でフローラは祈りを捧げ、葬儀では涙も流さずエバンズ侯爵の最期を見送った。
フローラは義父を頼り必死に領主代理をこなしていると、いつの間にかアントニオにお母様と呼ばれなくなったが反抗期と思い気にしなかった。ただ反抗期のわりに自分にべったりのアントニオに不思議に思いながら父親を亡くしたなら情緒不安定になるのは当然かと甘やかした。
家族の死を悲しむよりも憎しみにかられたフローラは立ち直り方を知らない。エバンズ侯爵の死も悼むよりも優先すべきことに追われた。フローラにはアントニオが望むままに傍にいて甘やかすことしかできなかった。