ある侯爵夫人の記録 2
夜空に輝く星と月明かりを頼りに真っ暗な道をフローラは進む。アントニオに引き継ぐ前に最後のエバンズ侯爵代理の仕事としてエバンズ侯爵夫人を書類上は殺し侯爵邸を出る準備は二年前から進めていた。フローラが不在でも侯爵家に一切の支障はない。約束の場所で馬と護衛に合流し目指すはシルビー伯爵領の辺境の村。
夜な夜な馬を走らせ村に着いたフローラは護衛として雇った騎士にお金を渡して別れる。目的の家を見つけ扉に手をかけると鍵が閉まっていた。
フローラは鍵を開けて中に入ると埃まみれの家具に生活感のない空気に泣きたくなるのを我慢する。
寂しさと興奮で眠気が起きず、窓を開けて淀んだ空気を入れ替える。昔の夢は庭師のお嫁さん。幼い頃に覚えた家事を思い出しながら掃除道具を見つけ月明かりをたよりに掃除を始める。この家で会いたい人がいなくても待ち続けると決めていた。
これからは第三の人生の始まりである。
シルビー伯爵家とエバンズ侯爵家には秘密があった。
フローラの本当の名前はフローリア。
これはまだフローラがフローリア・シルビーとして生きていた時の話である。
歴史ある名門シルビー伯爵家の次代を担うのは聡明で淑やかな長女フローラ、お転婆な次女フローリア、好奇心旺盛な長男のブライト。
名門伯爵令嬢として厳しい教育を受けながらもフローリアは優しい両親と仲の良い姉弟に囲まれ幸せに暮らしていた。
シルビー伯爵家は王国でも屈指の美しい庭を持つ一族である。シルビー伯爵家に代々仕える庭師一族が庭を守り、現当主の望むままの庭を作り上げる。シルビーは美しい庭園を愛し惜しみなく援助する。そして時々、美しい庭に心を奪われる者が生まれる。
庭ではなく、美しい花の手入れをする魔法のような手の持ち主に魅入られたのがフローリア・シルビー。
フローリアは勉強が終わるといつも部屋を飛び出し庭の手入れをしている庭師見習いのケイトを追いかけ、美しい手で丁寧に手入れされる草花を隣に座り眺める。姉や弟に呆れられても、楽しくて堪らない時間だった。
「リア、はい」
「ありがとう!!今日も綺麗!!」
フローリアはケインから一輪の花を受け取り満面の笑みを浮かべ、ケインはフローリアの笑みに優しい笑顔を返す。
フローリアにとってケインが手渡す花は特別で宝物。
フローリアはケインから贈られた花を部屋に飾り自身の手で世話をする。花が枯れる前に新たな一輪の花が贈られるのでフローリアの部屋にはいつもケインの花が飾られていた。ケインに会えなくても花を見てケインを思い出して過ごすのはフローリアの至福の時間。
身分に厳しい王国では平民と貴族の婚姻は許されない。現実はわかっていてもフローリアは夢を見るのはやめられなかった。シルビー伯爵夫妻も子供の夢を取り上げるほど非情ではなくまだ幼いフローリアがケインを追いかけるのを止めない。優しい家族と好きな人に囲まれてフローリアの人生で一番幸せな時間だった。幸せは突然儚く消えると知るのは10歳の時。
シルビー伯爵の誕生日パーティの翌日に伯爵夫妻が突然倒れた。滞在していた伯父が医師を手配しても原因不明。食事も摂れずに、日に日に衰弱していく両親をフローリアはブライトと一緒に必死に看病した。伯爵家の仕事は姉のフローラと伯父夫婦が代行していた。
両親がベッドから起き上がれなくなり一月経つ頃、フローリアは眠れなかったので父の部屋を目指して歩いていると笑い声が聞こえ足を止める。
「苦しいでしょう?あの時、私に譲ってくれればよかったものを。もう聞こえませんか?わざと体を蝕む薬を選びました。地獄でどうか後悔してください」
フローリアが笑い声のする父の寝室をそっと覗くと伯父が父に何かを飲ませているのが見えた。そして聞いたことのない明るく楽しそうな声の持ち主はいつも落ち着いた優しい声の伯父だと知り、父の部屋に入ろうとすると強く腕を引かれ連れ出される。顔をあげると姉のフローラだった。
「リア、駄目よ」
「お姉様?」
「ここで静かにしてなさい。絶対に声を出さずに伯父様に見つからないように部屋に帰りなさい。今夜は部屋から出てはいけません。絶対に守りなさい」
フローリアは真剣な顔で厳しい口調のフローラに廊下のカーテンにくるまれた。
扉が開き、フローラはフローリアが見つからないように部屋から出てきた伯父に笑みを浮かべて近づいていく。
「まだ起きていたのか」
「寝つけずに散歩をしようかと」
「もう遅い。私が送ってやろう」
「ありがとうございます」
フローラが淑やかに微笑み伯父に手を引かれて離れて行ったのでフローリアは部屋に急いで戻る。姉との約束は絶対。両親にも姉の言葉は絶対に守るようにと教わっていた。
フローリアは嫌な予感が消えずに翌朝、父に会いに行くと何度呼んでも目を醒まさない。ずっと熱が下がらず熱かった体は冷たく、真っ青な顔でフローリアはフローラの部屋に走る。何かあればフローラを頼るのはシルビー姉弟の常識。フローリアは全力で走りフローラの部屋の扉を勢いよく開けると、読書をしながら朝のお茶の時間を楽しんでいるはずの姉はベッドで眠っていた。
「お姉様!!」
フローリアがどんなに姉のフローラの体を揺すっても瞼はピクリともしない。瞳が潤み歪む視界に「貴族たるもの慌ててはいけません」と姉の言葉が脳裏に浮かび、フローリアは震える手を爪が喰いこむほど握って目を閉じて深呼吸する。ゆっくりと目を開き涙を拭き静かに眠る姉を見ると枕の下に手紙を見つけ手を伸ばす。手紙には昔、フローラとフローリアで考えた暗号が綴られていた。
「この手紙が読まれるときは私はいないでしょう。もしお父様が亡くなったら伯爵印を持ってエバンズ侯爵閣下を訪ねなさい。絶対に大人に見つからないように。リア、秘密を覚えてるかしら?」
フローリアは溢れる涙を拭き、手紙を握り絞め父の執務室から伯爵印を持ち出しポケットに入れる。庭にいるケインを探しに走る。姉とフローリアの秘密はケインを好きなこと。
「ケイン!!お姉様から秘密の何かを預かってる?」
「これか?」
ケインはフローリアの泣き腫らした顔と握り絞める拳に驚きながらもフローラから預かった手紙を渡す。
手紙にはエバンズ侯爵、愛人は茶髪の平民、妊娠中と綴られておりフローリアは姉の考えがわかった。
優しい伯父の豹変と父と姉の死。フローリアの世界が壊れ信じられるものは二つだけ。
「ケイン、お願い。誰にも見つからずにエバンズ侯爵家に行きたい。連れてって!!」
ケインはフローリアの必死な願いに頷き、爪が食い込んでいる拳をほどき手を繋ぐ。フローリアの手を引いて屋敷を抜け出しエバンズ侯爵邸を目指した。
両親と姉を殺した伯爵になりたい伯父を絶対に許さないとケインの手を強く握っていることに気づかずに歩いていた。
エバンズ侯爵邸に着き、門番にフローリアは礼をした。
「先触れもなく申し訳ありません。フローラ・シルビーです。エバンス侯爵閣下と面会させてください」
門番が確認に走るとすぐに中に通された。
「ケイン、ありがとう。後は大丈夫」
「待ってるよ」
「ううん。帰って。弟のそばにいてあげて」
「わかったよ。無理するなよ」
フローリアはケインの心配そうな顔に明るく笑いかけ手を振った。これからフローリアの戦いが始まる。大好きなケインに甘えるわけにはいかなかった。
フローリアは執事に案内された客室に通され人払いを願った。エバンズ侯爵は暗い瞳で真剣に頼む様子に了承し、執事が出ていき扉が閉まる。フローリアはエバンズ侯爵の前に膝を折り、額を床に付け深く頭を下げた。
「先触れもなく申し訳ありません。髪色は染めます。どうかフローラ・シルビーとの取引を私に代行させてください。お力を貸していただけるなら私はどんなものでも差し出します」
フローラは伯爵夫妻が倒れてから隠れて出かけることがありフローリアはアリバイ工作を頼まれて協力していた。
「シルビー嬢、頭をあげなさい。事情を聞かせてくれないか?フローラはどうした?」
「姉は亡くなりました。父も。恐らく母も」
「遅かったか」
フローリアは床に額をつけたまま頭を上げない。フローラが死んだのは自分の所為と自責の念にかられたフローリアは絶対に姉の行動を無駄にするわけにはいかなかった。そしてフローリアはフローラのように賢くないのでできる選択肢は限られていた。土下座などシルビー伯爵令嬢として許されないと姉に怒られてもこれしかなかった。
「どうか弟の後見についていただけませんか。無理なお願いは重々承知しております。私は父が命懸けで守ったものを敵には渡したくありません。どうか力を貸してください。私が今日よりフローラ・シルビーになります。社交界で悪女と言われてもかまいません。シルビー伯爵家のこと以外は何も望みません」
「わかっているのか?」
「はい。断られたら私は伯父夫婦を殺し自刃するしか思いつきません。ですが弟を一人にしたくありません。どうかお力をお貸しください」
フローリアは伯父夫婦を生涯許さない。あの時フローラはフローリアを庇わなければ殺されなかった。部屋から聞こえた会話で伯父との優しい思い出はなくなった。証拠が見つからなくても絶対に復讐すると決めていた。それでも復讐の前に成し遂げないといけないことがあった。恨みにかられてもフローリアはシルビー伯爵令嬢である。
侯爵は頭を上げないフローリアをしばらく見つめ、ゆっくりと口を開く。
「力を貸そう。名前は?」
フローリアはゆっくりと立ち上がり淑女の礼をする。
「フローラ・シルビーと申します。妹のフローリアは亡くなりました。10歳より14歳の母のほうが世間は納得するでしょう」
「契約期間は20年。そしたら自由にしなさい」
「ありがとうございます」
フローリアはポケットから命より大事な伯爵印をハンカチに包んでエバンズ候爵に差し出した。
エバンズ侯爵はハンカチに包まれた伯爵印を受け取り、小さい手のひらの痛々しい爪の痕を見つけて手当をし、伯爵印がなければ後任の手続きができないため、これからについて二人は話し合った。
歴史あるシルビー伯爵家でもエバンズ侯爵家には何も敵わない。エバンズ侯爵家がシルビー伯爵家の後見につき嫡男のブライト・シルビーが成人するまで預かり、フローラ・シルビーのエバンズ侯爵家への嫁入りについて詳しい話を。
フローリアにとって一番優先すべきはシルビー伯爵家を守ることである。
シルビー伯爵家は大混乱していた。
伯爵夫妻とフローラが亡くなり、姿を消したフローリアは自身をフローラと言いエバンズ侯爵を連れて帰ってきた。
「フローリア、どこに行っていたんだい?」
驚く伯父にフローリアは姉のマネをして淑やかに微笑む。天真爛漫なフローリアも名門伯爵家の令嬢として厳しい教育を受け、お手本であり先生よりも厳しい淑女の鑑の姉に鍛え上げられた。
「ごきげんよう。伯父様。私はフローラですわ。葬儀は私達で行います。どうか最期は家族で送らせてください」
「子供には無理だ。私に任せなさい」
「伯爵家はブライトが継ぎます。ですがまだ社交デビューしていないので私が代行します。どうか出て行ってくださいませ。シルビー伯爵家は伯父様達と縁を切ります」
「フローリア!?どうしたんだい?気が触れたようだ。君には…。侯爵、申し訳ありません。姪は動揺して」
「私が任されよう。出て行きなさい」
冷たい瞳で淑やかに微笑む天真爛漫なフローリアとは正反対の姿に伯父は目を見張る。兄夫婦とフローラさえいなければ簡単にシルビー伯爵家は自分のものになると心の中で喜んでいた。
庭で遊んでいると思っていた頭が軽くも愛らしい姪に邪魔されるとは思わなかった。フローリアは出て行く伯父に睨まれ一瞬ゾクリとしたが笑みを浮かべて耐える。フローラ・シルビーはどんなときも毅然と微笑み、感情を決して敵に見せないから。
エバンズ侯爵は膝を折り、フローリアに視線を合わせる。
「フロー、手配は私が任されよう。最期の別れをしてきなさい」
フローリアは執事長にエバンズ侯爵に従うように命じ、頭を下げて両親の部屋に入る。
ベッドには両親とフローラが眠り、側にはブライトとケインがいた。
「寂しそうだったから一緒にした」
フローリアはケイン以外に人払いを命じた。そしてケインの隣にいる弟のブライトをギュっと抱きしめる。
「私は今日からフローラになる。ブライト、二人で伯爵家を守ろう。私はお父様の命懸けで守ったものを守る。そのためなら手段を選ばない」
「うん。僕が引き継ぐよ。父上達の教えどおりに」
ブライトは姉の背中に手を回した。いつも感情豊かなのに泣かない二人をケインが心配そうに見つめていた。
その夜、フローリアはケインに頼み赤毛を茶髪に染める。
最期はケインの手で終わりにしたかった。
髪を染め終わり心配そうな顔をするケインの頬に手を添えてフローリアは唇を重ねた。
「ケイン、ずっと一緒にいたかった。リアはあなたのお嫁さんになりたかった」
フローリアは精一杯の笑顔を作って笑いかけケインの言葉を聞かずに走り去る。
フローリアはケインがずっと好きだった。ケインが世話して贈ってくれる花が大好きだった。片思いで叶わないことも知っていた。だから婚姻する前に1日だけでいいからケインのお嫁さんになりたかった。そのため令嬢教育を早々に終わらせて、侍女に家事を教わっていた。ただその夢はもう口に出すことはできなくなった。
フローリアが消える前に想いだけは伝えたかった。後悔しないように。必死に走ったフローリアは息が切れて足を止め、夜空を見上げた。
「リアはケインをずっと愛します。待ってては勇気がなくて言えなかった。リアは意気地なしです。お父様、お母様、お姉様、頑張るから見守っていてください。シルビー伯爵家はリア達が守ります」
家族の命日にフローリアはフローリアを殺した。そしてフローリアはフローラになった。
小さい希望を見つけても縋って立ち止まるのは許されない。前を向き茨の道だろうと進むしか選べない。たくさんの人を騙す日の始まりであり、幼い少女が大事なものを全部箱に詰めて鍵をかけ、胸の奥にしまいこみ、大人への階段を無理矢理駆け上がった日だった。