第二章 2
「おや、そろそろ始まりそうですね」
おそらく今日の主役であるツィツィーが現れたことで、式典は本来の目的である社交場――舞踏会へと様変わりしているようだ。階下では来賓客たちが、互いのパートナーと手を取り、挨拶を交わしている。
その華やかな雰囲気にわあ、と感嘆を浮かべていたツィツィーだったが、目の前に現れたものを見て二三瞬きした。そろそろと顔を上げると、ガイゼルが渋面を浮かべたまま、手をこちらに差し伸べている。
「へ、陛下?」
「……」
じとりと睨まれ、返事に悩むツィツィーに、後ろで見ていたヴァンが助け舟を出した。
「陛下、ダンスの誘いはもう少し優しい顔でした方がいいと思いますよ」
「え、そ、そうだったんですか⁉」
「……」
図星だったのだろう。ガイゼルはヴァンに鋭い眼光を飛ばした後、改めてツィツィーの手を取った。
「いいから来い」
「は、はい!」
なかば引きずられるような力強さで、玉座から階段を下りていく。広間の人々は当然のように二人のために場所を譲り、気づけばツィツィーはフロアのど真ん中に立たされていた。
(こ、こんな、たくさんの人前で……)
大丈夫、この半年あれだけ練習したのだから、とツィツィーは呼吸を整える。だが緊張に耐え切れず震えてしまう指先を、ガイゼルの大きな手がしっかりと握りしめた。
「陛下……?」
「怯えを見せるな。お前を笑う者は、ここにはいない」
ダンスの始まりの音を待つように、ガイゼルは遠くを見つめながら、視線も落とさずに告げた。その言葉にツィツィーは驚いたように目を丸くしていたが、やがて背筋を正し、ガイゼルの傍らに体を添わせる。
ゆっくりと舞踏の曲が始まる。
三拍子で紡がれるそれは優雅で繊細だったが、踊り手にはかなりの技量を要求するものでもあった。だが完璧なタイミングで、ガイゼルは始まりの一歩を踏み出す。
(すごい……勝手に体が動くみたい……)
決して強い力ではないが、ガイゼルの動きによってツィツィーの体は自在に操られていた。もちろんレッスンで習った部分も大きかったが、それ以上にガイゼルのダンスの腕前が高いということだろう。
次第に曲のテンポが上がっていき、周囲には付いて行けないカップルも現れ始めた。しかしガイゼルは涼しい顔で、難度の高いステップを次々にクリアしていく。当然パートナーのツィツィーにもさりげない誘導をし、翻るドレスの裾が二人の姿を彩っていく。
『ガイゼル陛下、なんて素敵なのかしら……』
『私とも踊ってくださらないかしら』
『ラシー? どうしてそんな辺境国の姫なんかを……』
時折、うっかり受心してしまった誰かの心の声が聞こえ、ツィツィーは少しだけうつむいてしまった。そんなツィツィーの様子に気付いたのか、ガイゼルは低く呟く。
「どこを見てる」
「え、えっ⁉」
「俺を見ろ――他に目をやることは許さん」
はい、と消え入りそうな声で答えながら、ツィツィーは心の中で叫んだ。
(こ、心の声じゃないのに、陛下の言葉に、ドキドキする……)
やがて曲調が穏やかなものに変わり、終焉を迎えるのだと気づいたツィツィーはほうとため息をついた。それを見たガイゼルは終わり際、険しい表情で睨みつける。
「次はヴァンと踊れ」
「は、はい」
「二曲こなせば十分だ。あとは抜けて適当に逃げておけ」
もしかしたらガイゼルは、ツィツィーが初めての式典で疲れていることに気づいたのかもしれない。分かりました、と答えた後で、ガイゼルの心の声が聞こえて来た。
『ち……近すぎて、心臓が止まりそうだ……仕事終わりに練習をしておいて良かった……ツィツィーに恥をかかせるわけにはいかないしな……』
(陛下が、ダンスの練習を……⁉)
だがさらに続くどこか早口な心の声に、ツィツィーはさらに動揺した。
『しかし距離をとっていても危険なのに、こんな間近で見るものじゃないな……可愛すぎて目が痛いぞ……だがこんな距離で見られるのは今度いつになるか分からん、もっとよく見ておきたい』
驚くツィツィーを前に、ガイゼルはしばし無言で睨みつけてきた。
何と言葉をかければいいか分からず、真っ赤になったツィツィーがたまらず目をそらすと、ガイゼルは繋いでいた手をすぐに離す。
ガイゼルはそのまま、何かを堪えるように片手で額を覆っていたと思うと、やがて顔を上げ「はっ」と鼻で笑った。
「下手くそ」
「な、な――」
心で思っているのと全然違う物言いに、ツィツィーは先ほどの感動が吹き飛んでしまうのが分かった。だが彼が素直な言葉を発しないことなど、この半年で分かり切っている。
(どうして意地悪な言い方しかしないのかしら、思っていることを直接言ってくださったら、……う、嬉しいのに……)
と、そこまで考えたところで、ツィツィーはぶんぶんと頭を振った。ダメだ、あの身に余りすぎる美辞麗句を、あの美貌の皇帝から紡がれる現実が想像できない。
今は声だけだからかろうじて耐えられているが、あの口から直接なんてとんでもないことだ。
「――ツィツィー様? 大丈夫ですか?」
「あ、はいっ! すみませんっ!」
突然名前を呼ばれ、ツィツィーは思わず素の状態で返事をしてしまう。すると目の前に立っていたヴァンが一瞬きょとんとしたかと思うと、くくっと堪え切れない笑いを零した。
いつの間にか、次の曲が始まるようだ。
「そんなに驚かないでください。陛下から直々の御指名で」
「あ、はい、よろしくお願いします」
「こちらこそ、――良ければお手を」
次に流れてきたのは二拍子のゆったりとした曲だった。差し出された手を取ると、ヴァンはくるりとツィツィーを引き寄せる。
「失礼」
慣れた様子で腰を持たれ、ツィツィーは少しだけ恥ずかしくなる。ガイゼルとはまた違うアプローチに、女性の扱いに慣れているのね、とちらりとヴァンを覗き見た。
まっすぐに伸びた鼻筋に、冬の空のような瞳。やがてツィツィーの視線に気づいたのか、ヴァンはこちらを見てにっこりと口角を上げた。
「ふふ、照れますね」
「あ、その、すみません、不躾なことを」
「いえいえ、皇妃殿下に見つめてもらえるなんて、騎士として光栄です」
やっぱり手慣れてる、とツィツィーは反論を諦め、踊りに専念することにした。
先ほどよりも随分と簡単なステップなので、周囲からはかすかな話声も聞こえてくる。おそらくこの曲は、踊りの技巧を魅せるものではなく、男女の会話を楽しむために挟まれているものなのだろう。
「ヴェルシアはどうですか」
静かな口調で、ヴァンが話しかけてきた。
「とても寒いですね。でも温かくする工夫がたくさんなされていて、驚きました」
「そうか、ラシーは一年中温かい国でしたね」
「ラシーをご存じなんですか?」
喜びの表情を見せるツィツィーに向けて、ヴァンが微笑む。その表情は穏やかで、心に決めた相手がいる女性でなければ、つい心を奪われてしまいそうなほどだ。
「ええ。実は母がラシーの生まれでして」
「まあ! そうなんですか」
「俺も少しの間ですが、暮らしていたことがあります」
まさかこの北の大国で、ラシーに住んだことのある人と出会えるとは。嬉しくなったツィツィーがラシーの有名な観光地をあげているうちに、いつの間にか曲は終わりを迎えていた。
「ありがとうございました。またいつか、陛下のお許しが出ましたら」
「こちらこそ、とても楽しかったです」
互いに礼をして、場所を移動する。ガイゼルの指定した二曲が終わり、ツィツィーはさりげなく窓際へと足を向けた。だが好機とばかりに男性陣が集まって来る。
「皇妃殿下、次はわたくしと」
「申し訳ありません、少し休ませていただきたいので……」
「でしたらワインはいかがですか? こちらに運ばせましょう」
端から断っているのに、次々と言葉が飛んできて、ツィツィーは対応が追い付かなくなってくる。すると男性に囲まれているツィツィーを見た女性たちが、聞こえるか聞こえないかという音量で、ひそひそと囁きを零し始めた。