第三章 陛下、我慢の限界です。
そして結婚式の日が訪れた。
鏡の前で目を瞑っていたツィツィーは、リジーの声にゆっくりと睫毛を押し上げる。
背後には既に半泣き状態のリジーと、着付けを手伝ってくれたメイドたち。そしてエレナが達成感に満ちた顔つきで立っていた。
「皇妃様……なんてお美しい……」
「ありがとうリジー、そんなに泣かないで」
いよいよ涙を零し始めたリジーをなだめ、ツィツィーはそっと反対側にいるエレナを振り返った。
長かった赤髪はばっさりと切られており、今は肩につくかつかないかという程度。だが溌溂とした短いヘアスタイルは、彼女にとてもよく似合っていた。
「エレナも。そういえば、髪を切ってしまったのね」
「はい。自分に気合を入れたくて……」
やがて準備室のドアが叩かれた。恭しく開かれた扉の向こうから儀典長らが現れる。
「お待たせいたしました、皇妃殿下。それでは参りましょうか」
「――はい」
王宮の最も深部にある礼拝堂。定められた儀式にのみ開かれ、あらゆる争いごとを禁じている聖域だ。
歴史ある建物が生み出す独特な空気の中、正面に見えるのは青を基調とした丸いバラ窓。そのすぐ下にはこれもまた秀麗な三面のステンドガラスが飾られている。中央の身廊部分には鮮やかな赤の絨毯が敷かれ、祭壇までの道を一直線に示していた。
また、列柱のアーケードを挟んだ左右の側廊には、国中の名だたる諸侯が参列しており、主役の登場を今か今かと待ち望んでいる。やがて古めかしい木の扉が開き、わずかな衣擦れの音が続いた。
現れたのは純白のドレスを纏った第一皇妃だ。
艶やかな銀髪は丁寧に結い上げられ、顔は精緻な縁取りのベールによって隠されている。
水鳥のようなすらりとした首筋と鎖骨を主張しつつ、胸元から肩にかけては、職人が長い時間をかけて編み込んだ繊細なレースに覆われていた。
細くくびれた腰にはサテン地とフリルの二種類のリボンが巻かれており、白薔薇と蝶の装飾で留められている。スカートの正面には王家の紋章が銀糸で刺繍され、それ以外の部分は重みのある最上級の絹布で作られていた。
けして派手ではない、シンプルなシルエット。
だが最新の流行りと、皇族としての格式を絶妙なバランスで取り入れたデザインは、参列していた多くの女性の目はもちろん、ドレスの知識に疎い男性でさえも虜にした。
堂内は自然と感嘆の雰囲気に溢れ、誰もが皇妃の一挙手一投足に注目する。
その期待を一身に受けながら、ツィツィーは一歩、また一歩と聖櫃の前へと足を進めた。赤い絨毯の上に、月光をすかし込んだようなベールの裾がゆっくりと広がっていき、やがてツィツィーは祭壇の前にたどり着く。
「……」
顔を上げると、そこにはガイゼルが立っていた。
初めて見る白の衣装には、銀の肩章と飾緒が彩りを添えており、王章が刻印された釦、手には黒い革手袋がはめられている。
頭上には植物の葉を模した金細工のサークレットが飾られており、彼の黒い髪を一層引き立てていた。
肩の片方には豪奢なマントがかけられており、ただ立っているだけなのに思わずひれ伏したくなるような、創生神話の神様のような気品を漂わせている。
ガイゼルの前に到着したツィツィーは、段下でそっと膝を折った。脇にいた儀典長が読み上げる長々とした祈りの言葉を、その姿勢のまま謹聴する。
やがてヴェルシアの恒久の平和と繁栄を願った後、ガイゼルの元にティアラの乗った盆が恭しく届けられた。星粒のようなきらめきを零しながら、ガイゼルはそれを手にとる。
「――私の心は貴女を守り、私の腕は貴女の盾となるだろう」
ガイゼルの低く心地よい声が、ツィツィーの全身に触れる。
「私が貴女を愛するのと同じだけ、私を――この国を愛してほしい」
はい、というツィツィーの返事を受け、ガイゼルはそっとベールを外した。弓なりの長い睫毛と、ほんのり色づいた唇が露わになり、前方の来賓者は思わず息を吞む。
やがて、うつむくツィツィーの頭上に白銀のティアラが捧げられた。ガイゼルの手が離れたことを確認すると、ツィツィーはゆっくりとその場で立ち上がる。
ティアラ中央に輝く巨大なレヴァナイト。
どの角度から見ても完璧な反射光を見せるその宝石は、見る人すべてにぞくりとした憧憬をもたらした。
それはまるで、闇夜の持つ妖艶な魅力だけを丁寧に抽出して、丹念に丹念に磨き上げたかのようだ。
一方でそれを取り囲む銀細工には、メレダイヤと真珠がふんだんにあしらわれていた。職人たちが腕によりをかけた実に緻密な意匠で、触れること自体をためらいたくなる可憐さとはかなさを放っている。
これら二つが組み合わさることで、もはや『人の手に余る代物ではないか』とすら思わせる最高級のティアラ。だがツィツィーが身に着けた途端、それは彼女を引き立てるためのただのアクセサリーへと変貌した。
身に着ける者を喰ってしまう、非常に美しいが凶暴で、まるで野獣のような装飾品。
しかしツィツィーの美貌と控えめな笑みの傍にあるだけで、借りてきた猫のように大人しくなるのが誰の目から見ても明らかだった。
当の本人はそのことに気づいていないのか、晴れ渡った空のように輝く瞳を、ただまっすぐにガイゼルへと向けていた。そして優しく口を開く。
「――互いは互いのために、二人はヴェルシアの子らのために」
その言葉にガイゼルは、ほんのわずかに目を眇めた。
緊張のあまり、まったく周囲の光景が目に入っていなかったツィツィーだが、何故かそのガイゼルの顔だけがはっきりと映る。心の中がじんわりと温まるような感覚に、ツィツィーは花がほころぶような笑みを返した。
やがてツィツィーは壇上に上がり、ガイゼルの隣に並び立った。式の終わりを告げる言葉が朗々と紡がれる。誓いを、という儀典長の合図とともに二人は向き合った。
顔を傾け、優しく唇を触れ合わせる。
その瞬間――透き通るような鐘の音と、祝福の拍手にヴェルシア中が包まれた。












