第二章 12
次に目覚めた時は、小さな小屋の中だった。
地面がむき出しになっており、壁と屋根しかない簡素な造り。ツィツィーの目の前にはパチパチと音を立てる焚火が上がっている。誰かが室内に暖を入れてくれたのだろう。
ツィツィーの肩には古びた毛布が掛けられており、壁にもたれるようにして寝かされていた。服は全身ずぶ濡れで、白銀の髪の先からは冷たい雫が滴っている。
(そうだわ、私……用水路に落ちて……)
いくら夢中になっていたとは言え、まさか街中を走っていて水路に落ちるなんて。ガイゼルに知られたら、多分眉間の縦皺が二本くらい刻まれた状態で「お前は今年何歳になった?」とでも言われそうだ。
恥ずかしい、と一人反省していたツィツィーだったが、はたと思い出したかのように右耳に手を添えた。
「ど、どうしましょう……落としてしまったみたい……」
左右の重量が違ったからもしやと思ったが、案の定イヤリングを片方落としてしまったらしい。
走っている時か、水路に落ちた時か分からない――とツィツィーの顔が一瞬にして青くなる。
すると小屋の扉を開ける、ガタリという音が響いた。
ツィツィーが身構えていると、オルビットが顔をのぞかせる。ツィツィーが覚醒していることに気づくと、あからさまな安堵を浮かべていた。
「良かった……気がついたんだ」
「あの、もしかして……助けてくださったんですか?」
「……さすがに、エレナの友達を見捨てるわけにはいきませんから」
苦笑するオルビットを見て、ツィツィーは軽く唇を噛んだ。レヴィの言うことが確かならば、ティアラを盗んだのはオルビットの可能性が高い。ツィツィーに追われて逃げ出したのも、何かやましいことがあった、とみるのが自然だろう。
(でもわざわざ私を助けてくれた……)
見捨てておけばよかったものを、捕まる覚悟で水路から引き上げ、手当までしてくれた。
その行動を考えると、とても泥棒をするような心根の人物とは思えない。しょんぼりと肩を落とすオルビットに向けて、ツィツィーは静かに尋ねた。
「オルビットさん、……アスティル伯爵の家からティアラを盗んだのは、あなた……なんですか?」
「……」
「どうして、そんなことを……」
「それは――」
だがオルビットが口を開こうとした瞬間、ツィツィーはぞわりとした悪寒に襲われた。
何か巨大な感情の塊が、一足飛びにこちらに迫ってくる。怒り。焦り。途方もない熱量のそれに、ツィツィーは思わずきょろきょろと隠れる場所を探してしまう。
「ど、どうしましたか?」
「い、いえ、何だかすごく嫌な予感が――」
寒さ以外の理由で震えるツィツィーに、心配したオルビットが手を差し出す。
その瞬間小屋の入り口にあった古い木戸が、バァンとけたたましい音を立てながら蹴破られ、ケーキの上に刺さっているチョコレートのように地面へとめり込んだ。
突然の破壊音にオルビットが振り返る。
するとその瞬間「ひ、」と掠れた声だけがツィツィーの隣に落ちた。ツィツィーもまた諦観した面持ちで目を閉じる。
(縦皺……三本だったわ)
ドアを壊した張本人は、投げ出した足をゆっくりと戻す。そこに立っていたのは、逆光の中、見事な色彩の瞳を光らせる冥府の王――ではなく、ガイゼル皇帝陛下だった。
「本当に……申し訳ありませんでした。素晴らしい品だとは思いましたが、まさか皇妃殿下のものだったなんて……」
ガイゼルに襲撃――いや発見された後、ツィツィーとオルビットは本邸へと連れ戻されていた。
ツィツィーは一度体を清めるように言い渡され、自室で着替えをした後、ガイゼルの隣に座っている。ちらりと見るが、どうやら普段の面持ちに戻っているようだ。
(こ、怖かった……オルビットの命がなくなるかと……)
あの時、小屋でずぶ濡れのツィツィーと、それに手を伸ばすオルビットの姿を見た瞬間のガイゼルは、イエンツィエ侵攻の再来を思わせるほどの恐ろしさだった。
当然のごとくオルビットは恐懼し、すぐに罪を告白した後、地面に額をこすりつける。
だがガイゼルの怒りは収まらず、腰に佩いていた長剣を抜いたところで――ようやく追いついたヴァンによって羽交い絞めされたのだった――
ガイゼルの恐ろしさを身をもって堪能したオルビットは、向かいのソファに座りながらいまだビクビクと怖気をまとっていた。
そんな哀れな子羊の前には、ヴェルシア全土を凍てつかせる『氷の皇帝』が君臨しており――高く組んだ足の上に、軽く合わせた両手を乗せた状態で、ガイゼルは切れ長の目を重々しく押し開いた。
「オルビット・リザー。レト男爵家の長男だな」
「……は、はい……」
「事情はツィツィーから聞いた。こいつを助け出してくれたことには感謝をしよう。しかしティアラに関しては別だ」
「は、はい……もちろんです」
聞いたところによると、彼はツィツィーのことも皇妃として認識していなかったそうだ。
正体が分かってからというもの、ツィツィーに対してもひたすら恐縮している。死神と対峙しているかのように怯えるオルビットに、ツィツィーが静かに尋ねた。
「……どうして、こんなことを?」
「……ルカを困らせてやろうと、……」
アスティル伯の工房が、依頼主からのアクセサリーを預かることは知っていた。もしもそれが無くなれば、アスティル伯に良くない噂が流れるのではと考えたのだという。
「でも、すぐに戻すつもりだったんです。ほんの少し、あいつを焦らせてやろうと……。そしたら騎士団は来るわ、工房には入れないわ、想像以上に大ごとになってしまって……」
「当たり前だ。そのティアラの価値を知らんのか」
「も、申し訳ありません……」
何の弁明もない、とばかりに落胆するオルビットに、ツィツィーは言葉を続けた。
「あなたはエレナの友人なんですよね? アスティル伯の評判が落ちれば、彼女も傷つくと思わなかったんですか」
「そ、それは――」
その時、廊下を走る慌ただしい靴音が近づいてくる。
ツィツィーが顔を上げると同時に応接室の扉が勢いよく開き、肩を上下させながら息を吐くエレナが姿をみせた。突然のことにツィツィーは目をしばたたかせ、オルビットはぎょっとした表情を浮かべている。
「エ、エレナ……?」
ツィツィーが呆気にとられるのもつかの間、エレナはずかずかとオルビットに詰め寄った。
その迫力に怯えたオルビットが急いで腰を浮かせるも、手のひらを握りしめたエレナが間髪いれず彼の頬にこぶしを突き立てる。
「がはっ!」
(えーーッ⁉)
見事なまでの鉄拳がオルビットの顔にめり込み、彼の体は弾むように絨毯へと投げ出された。
その光景を見ていたガイゼルは、腕を組んだまま『いい右ストレートだ』と無言で頷いている。一方のツィツィーはどう声をかけたらいいかと動転していた。
「オルビット……貴方自分のしたことがどれだけ重罪か分かっているの⁉」
「ご、ごめん! 本当にごめん! でもおれはどうしても、君を救い出したくて……」
「わたしを?」
不快そうに眉を寄せるエレナを前に、オルビットは正座のままうつむいた。
「だって賞賛されているのはすべてルカじゃないか! 本当は君がデザインしているのに、まるで自分の功績のように言いふらして……そのせいで君は、……」
「……オルビット」
「事業だって、君がいなければここまで大きくはなれなかった! それなのにルカは君を利用するばかりで、……君を金儲けの道具にしか思っていないのが、悔しくて、歯がゆくて……おれは、……おれは……」
語尾を濁らせていくオルビットを、エレナは静かに睨みつけていた。しばらくしてはあとため息を零すと、普段の冷静な声色に戻って呟く。
「だから……もういいんです。わたしのことは。わたしは……ただドレスが作れれば、もうそれで、十分なんです」
「エレナ、でも」
「もう放っておいてください!」
(――ッ、)
悲鳴にも似たエレナの叫びに、ツィツィーは胸の奥がぎしりと痛んだ。
比喩ではない疼痛は、彼女の心の声が強い衝撃となって、実際にツィツィーを襲っているからだろう。
本当にすべて納得している人間が、こんな慟哭をあげるだろうか。
(陛下も口にする言葉と内心が違う時ほど、強く心の声を発していた……だったらエレナも、きっと……)
だが他ならぬ彼女自身が、本当の気持ちに蓋をしてしまっている。それに気づかなければ、エレナはずっとこのままだ。ツィツィーはこくりと息を吞み込むと、そっと一歩を踏み出した。












