第二章 お披露目会は戦場です。
ツィツィーがヴェルシアに来てから半年が経った。
「皇妃様、とってもお綺麗ですわ」
「ありがとうリジー、でもこんな豪華なドレス、私が着て良かったのかしら……」
「何を言っているんですか! 今日は主役なんですから当然です!」
力強く拳を握るリジーを鏡越しに見ながら、ツィツィーは困ったように眉尻を下げた。
あれからすっかり回復したリジーは、何かとツィツィーの身の回りを世話してくれるようになった。執事に聞いたところ、あの夜わざわざ見舞いに来てくれたツィツィーの人柄に惚れ込んでしまったらしく、本人の強い希望なのだと言う。
(ガイゼル様のおかげなのに、私まで大切にしてもらって……なんだか申し訳ないわ)
だが頼る者のないヴェルシアの地では、年の近いリジーの存在はツィツィーにとって、とてもありがたいものだった。やがて扉をノックする音が響き、執事が顔を見せる。
「皇妃様、迎えが参りました」
「ありがとう。すぐに向かいます」
振り返り答えると、ツィツィーは高いヒールを傷つけないよう、そっと一歩を踏み出す。
今日は第一皇妃ツィツィー・ラシーが、公の場に姿を見せる初めての式典だ。
王宮の大広間は人で溢れかえっていた。
楽団による流麗な音楽で満たされる場は、王侯貴族や外交官、他国からの使者など実に多くの客人によって埋め尽くされ、それぞれが噂話や内緒話に興じている。
広間の中央奥には低い階段があり、その上には玉座が続いていた。天井からは薄布で覆われた天蓋が下がっており、赤い天鵞絨の敷き詰められたその階上には、ヴェルシアの『氷の皇帝』が傲然とした様子で椅子に座している。
「……」
やがて側近の一人がガイゼルの傍に歩み寄り、何かを耳打ちした。するとガイゼルは組んでいた足を解いて、ゆっくりと立ち上がる。
その動きに合わせるかのように、大広間の一番大きな扉が開いた。騒がしかった話し声はふつりと途切れ、誰しもがそちらに目を奪われる。
現れたのは凛とした佇まいの、それは美しい女性だった。
目が覚めるような白銀の髪と、揃いの色であしらえた弓なりの長い睫毛。大きな瞳は夏の空を切り取ったような紺碧で、唇は咲き初めの薔薇のようだ。
それらの可憐さを一層際立たせる白い肌が、まるで雪の女神のような威厳を彼女に与えている。
身に纏うドレスは紺色で、一見地味に思われそうだが、シャンデリアの明かりを弾いてキラキラと輝くところを見ると、特別高価な生地で仕立てられているのだろう。
さりげなく配された装飾や宝石も一級品のものばかりで、指には大きな貴石の指輪も鎮座していた。そのどれもが、大国ヴェルシアの皇妃たるにふさわしい装いだと言外に知らしめている。
刺さるような周囲の視線を受けながらも、落ち着いた優雅な足取りで進んでいたツィツィーだったが――実は、その澄ました表情の裏側で悲鳴をあげていた。
(あああ、人が……人がこんなに……!)
多いとは思ったが、まさかここまでとは。
狼狽えた顔を晒すわけにはいかないと、毅然とした態度で振舞ってはいるものの、一体どこまで歩き続ければいいのだろう。
(ヒールも高いし、コルセットは苦しいし、私、どうしたら……)
だがすぐに助けは訪れた。ツィツィーの前に、階上にいたガイゼルが下りて来たのだ。
ガイゼルの格好もまた、一段と華やかな式典用の衣装だった。黒の礼装には、銀糸で刺繍が施されており、胸にはいくつもの勲章が輝いている。ベルベット地で作られた深紅の外套は、黒豹の毛皮で縁を飾り立てており、彼が歩むたびに実に優婉に翻っていた。
「ツィツィー」
名前を呼ばれ、伏し目がちだったツィツィーはようやく瞳を上げた。見知った顔と、ようやく呼ばれ慣れた名前に気づき、思わず零れるような笑みを浮かべる。
その一瞬、高貴さから愛らしさへと雰囲気を変えた皇妃の表情に、周囲を取り巻いていた男性陣は一様にほう、と息をついた。その空気を察したのか、ガイゼルはツィツィーの手を取ると、いつもの鋭い目つきで睨みつけてくる。
「遅い」
「すみません、歩き慣れなくて」
「あとヘラヘラ笑うな」
「へ、へらへらですか?」
『だめだ、こいつは自分がめちゃくちゃ可愛い自覚がないんだった……あんな顔見せて、惚れる男がいたらどうするつもりだ。まあいたところで俺が許さないが。しかし悪い虫がつくと面倒だ。ランディの奴、もう少し招待客を制限できなかったのか? 独身の男は追い出してしまいたいんだが』
手を引かれながら聞こえてくる心の声に、ツィツィーは耳が熱くなるのが分かった。この分では顔も真っ赤になっていることだろう。
(陛下は私のことを買いかぶりすぎです……)
故郷ラシーにいた時は、ツィツィーの容姿を褒めるものなど誰もいなかった。
ラシーでは艶やかな赤髪が美しいとされるため、ツィツィーの風貌はまさに正反対のものだった。たまに公式行事などに出ても、一人見た目の違うツィツィーは指をさされ、ひそひそとした雑言に耐えていた思い出しかない。
だから今回のお披露目式も、どれだけ貶められるかと覚悟をして挑んだのだ。だがツィツィーが予想していたような反応はなく、拍子抜けした気分になる。
(これはきっと、陛下がお傍にいるからだわ)
この皇帝を前にして、ツィツィーを悪く言えるものはこの場にはいない。それを見越して、ガイゼルがここまでツィツィーを迎えに降りてきてくれたのだと思うと、繋いでいる手が温かく感じられるようだった。
やがて覆いの向こうにある玉座まで戻ると、ガイゼルはようやくツィツィーの手を離した。すぐに階下には、皇妃へ一目ご挨拶をと願う貴族たちが集まり始める。だがガイゼルは彼らに一瞥をくれただけで、奥へと声をかけた。
「ヴァン、ルクセン」
は、と短い応答が聞こえたかと思うと、後ろに控えていた二人が立ち上がった。ガイゼルの前に進んだかと思うと、ツィツィーに向かって深く頭を下げる。
「初めまして皇妃殿下、ヴァン・アルトランゼと申します。陛下とは幼馴染というか……腐れ縁で近衛騎士を賜っています」
最初に名乗りを挙げたのは、爽やかな青年だった。
綺麗な金色の髪に、灰色の混じった青色の瞳をしており、鍛え抜かれた体躯は礼装の上からでも分かる。ヴァンはツィツィーを前に、人好きのしそうな笑みを浮かべた。
「噂には聞いていましたが、本当にお美しい姫君ですね」
「そ、そんなことは全く」
否定しようとしたツィツィーは、背後から伝わってくる禍々しい雰囲気に戦慄した。心の声は聞こえてこないが、目の前で「しまった……」とばかりに目をそらすヴァンの顔を見れば、後ろのガイゼルがどんな表情をしているかなど一目瞭然である。
(こ、これもヘラヘラに入るのかしら……?)
話題を変えなければ、とツィツィーは急いでもう一人の男性の方に向き直った。すると男性は手慣れた様子で、深々と礼の姿勢をとる。
「わたくしは王佐、ルクセン・マーラーと申します。皇妃殿下とお会いできて光栄にございます」
穏やかな笑顔で頭を下げる男性は、ツィツィーよりも随分と年上だった。
髪は白髪が混じっており、目は氷のような薄い水色。指には赤い宝石がついた金の指輪があり、既婚者なのだと分かる。視力が弱いのか眼鏡をしており、ツィツィーを見てガラス越しの目を眇めた。
「ルクセン様、ですね。よろしくお願いいたします」
聞けばルクセンは、先代皇帝の時から王佐の仕事を任されており、ガイゼルが新しい皇帝の座に就いた時にも、彼の政治を助けるにふさわしい、と満場一致で選ばれたのだという。
「本当はもう一人、王佐補の者がいるのですが、あいにく所用で留守にしております」
「王佐補、ですか?」
「はい。ランディ・ゲーテといいます」
「あ、その方がランディさん!」
言った後で、ツィツィーははっと言葉を飲み込んだ。幸いガイゼルには気づかれなかったようだが、万一聞かれていたら「どうしてお前がその名前を知っている?」と疑われかねない。
(いつも心の声で、不満をぶつけられている方……なんて言っても信じてもらえないわ)
互いの紹介を終えた頃、楽団の奏でる音楽が変わった。時を同じくしてヴァンが楽しそうに眉をあげる。