第二章 10
「ところでだ」
「は、はい」
「俺が視察に出ている間、アスティル伯の工房に行ったそうだな」
「その、ドレスを作るところを見たくて……」
実際はエレナを心配しての口実なのだが、ガイゼルはそんなことは露とも知らず、じとりとした目をツィツィーに向けている。すると心の声がわずかに聞こえてきた。
『……アスティル伯はまだ独身だったはずだ。万が一ということが無くもない。どうせなら俺を連れて行けばいいものを、どうして一言も言ってくれないんだ……』
(陛下が……拗ねている……)
申し訳なさと可愛いと思う気持ちがない交ぜになり、ツィツィーは思わず口元を緩めてしまった。
それに気づいたガイゼルは目つきを鋭くしたかと思うと、回していた腕にぐっと強く力を込める。
「ガ、ガイゼル様⁉」
「何を笑っている」
「わ、笑ってないです!」
少しずつ頬を染めていくツィツィーを見ながら、ガイゼルはふうんと目を細めた。やがてわざとらしく睫毛を伏せると、ツィツィーの顎を上向かせ、そのまま唇を落としてくる。
(――ん、)
最初は長く。いったん離れたかと思うと、今度はわずかに口を開けて押し当てられる。温かい感触に誘われるようにツィツィーが舌をのぞかせると、倍はありそうなガイゼルのそれに、まんまと絡めとられてしまった。
(――⁉ ――⁉)
ツィツィーは息継ぎの仕方を忘れたかのように、必死に酸素を追い求めた。わずかに開いた隙間から息を吸い込むと、ガイゼルがハァ、と惜しむような熱い呼気を漏らす。
すぐに休憩は終わり、ツィツィーはガイゼルの厚い胸板と唇に再び拘束された。
やがてツィツィーが抵抗しなくなったのを見て、ようやくガイゼルがのそりと体を起こす。満足げに手の甲で口を拭っている一方で、組み敷かれたツィツィーは上気した顔で涙目のままガイゼルを睨みつけていた。
「ガ、ガイゼル様……苦しいです……」
「仕置きだ」
そう言い捨てるとガイゼルは一笑し、再びツィツィーを腕の中に抱き寄せた。
すっかり機嫌を戻したガイゼルを上目で観察していたツィツィーは、せめてもの反抗とばかりに彼の前髪をえいと指先で引っ張る。
「――ッ」
ガイゼルはわずかに顔を顰めたかと思うと、ふと普段の冷たい表情へと様変わりした。
怒らせたのだろうか、とツィツィーが一瞬不安になっていると、ガイゼルの押し殺したような心の声が響いて来る。
『だめだ……何をされても可愛い……無理だ……やっぱりあのドレスのまま式を挙げておけば、こんな我慢する必要もなかったのでは……?』
(ドレスって……もしかして仮縫いの試着のこと⁉)
まさかあの一瞬で、結婚式の幻覚まで見ていたとは。そして今更気づいたことだが、どうやらガイゼルは心の中で葛藤している間、真顔になってしまう癖があるらしい。
普段の会議で怖がられているのは、これが原因かも知れない。
どうしよう、と自らの行動を後悔したツィツィーに向けて、ようやくガイゼルが笑みを浮かべた。
珍しいことに、どこか穏やかな――まるで聖人のような微笑みに、初めて目撃したツィツィーは戦慄する。その美しい唇から脅しにも近い言葉が発された。
「どうした? ――足りなかったか」
「い、いいえ! 違います! けしてそういうわけではなくて、あっ、や、陛下――」
ガイゼルだ、というお決まりのセリフの後、主寝室には絹を裂くようなツィツィーの小さな悲鳴だけが残された。
それから数日経ったある日、儀典長よりティアラが完成したという報告が入った。
「実に素晴らしい出来栄えだそうで、職人たちも今までで一番の仕上がりだと断言しております」
「本当ですか? すごく楽しみです」
本来であれば一度ツィツィーの手元に運ばれるはずだったのだが、加工場所が遠方の都市であることと、ドレスの工程に若干遅れが発生しているという理由で、先にアスティル伯の工房へと運ばれます、という説明を受けた。
(そういえばルカも、他のアクセサリーと調整をすると言っていたわ……)
式典の日が決まっている以上ドレスの完成が先決だ。レヴィは寂しがるかも知れないが、当日には会わせてあげることが出来る。
ツィツィーも、よろしくお願いしますとだけ伝えて快諾した――のだが。
「ティアラが、盗まれた?」
突然応接室に呼び出されたツィツィーは、儀典長の言葉をそのまま繰り返した。
話によるとアスティル伯の工房に泥棒が侵入し、作業のため金庫から出されていた一瞬の隙を狙われたそうだ。他の現金や宝石には目もくれず、ティアラだけを奪って行ったらしい。
儀典長の隣にはルカの姿もあり、沈鬱とした表情を浮かべてうつむいていた。
「本当に申し訳ございません……まさか、このような失態を犯すとは……」
この処分は私の命に代えましても、と覚悟を決めたように呟くルカに、ツィツィーはとんでもないと首を振る。
「それよりも、皆さんに怪我はありませんでしたか?」
「……はい。幸い職人たちは無事です。妹も別室にいましたので」
「良かった……」
不幸中の幸いとはこのことだろう。
とりあえず胸を撫で下ろしたツィツィーだったが、式典の中で重要な役割を果たすティアラが不在となると、結婚式の開催自体が危ぶまれてしまう、と憂慮した。
(私としては代わりの物でも構わないのですが、国の威信をかけている以上、そういう問題ではないでしょうし……)
それにルカたちも無罪放免とはいかないだろう。
命までは取らないとしても、このことが公になれば彼らが築いてきた信頼と実績が崩れてしまい、結果工房で働く職人や――エレナの希望までも失われてしまうことになる。
(せっかくここまで頑張っていたのに……こんなことって……)
すると落ち込むツィツィーを案じたのか、儀典長はどこか猛々しく、ふかふかの眉毛を上下させていた。力強く拳を握りしめ断言する。
「大丈夫です皇妃殿下。今騎士団が総力を挙げて調査に向かっておりますゆえ、すぐにでも犯人の首を上げてみせましょうぞ!」
「はい、お願いします……」
その言葉にツィツィーもまた、早くティアラが見つかるよう祈る他なかった。












