第二章 8
エレナの部屋は廊下の突き当りにあった。
ルカの自室よりは小さかったが、それでも二部屋が繋がっており、十分すぎる広さがある。ただし机にも床にも大量の荷物が散らばっていた。
使用人の数が少ないため、掃除も各々の裁量下にあるのだろう。
「すみません……汚くて……」
「いえいえ、気にしないでください」
慌ただしく書物や紙切れを片付けるエレナを見ながら、ツィツィーは机の脇に置かれていた等身大の人形に目を留めた。
人間の胴体部分だけのそれは、確かトルソーと呼ばれているものだ。足元には歪な三角形に切られた端切れや、薄く透ける紙の欠片などが散乱しており、ツィツィーは手伝った方がいいだろうかとそれらを拾い上げる。
するとテーブル上の乱雑な書類の中に、精巧なデッサン画が置かれていた。
(これは……)
そこに描かれていたのは、以前のパーティーでエレナが着ていたドレスだった。
さらに下に重なっていた紙には、違うドレスが何着もスケッチされている。どれも洗練されたデザインばかりで、手慰みに描いたとは思えないレベルだ。
「あの、これ……」
「――!」
ツィツィーが声をかけると、エレナは大きく目を見開いた。奪い返すようにデザイン画をひったくる。
その剣幕にツィツィーが驚いていると、エレナも取り乱したのを恥ずかしく思ったのか「すみません……」と小さく謝った。
お茶をもらってきます、とエレナが席を外している間、ソファに座っていたツィツィーは先ほどのデザインを思い出していた。
(あのドレスは……たしか……)
二枚目に描かれていた深緑の衣装。あれはサラ・フォスターが、先日の夜会で身に着けていたものと同じだ。
(でも紙も古かったし、単に写したというよりは、エレナ自身が描いたものに見えたけど……)
自身のドレスを卑下するエレナと、服作りには関わっていないと言い切る頑なな態度。だがこの部屋の感じから見ても――彼女は服を作り出す『職人』だ。
エレナの持つ違和の正体がようやく掴めそうな気がして、ツィツィーは静かに彼女の戻りを待つ。
だが突然大きな感情を孕んだ心の声が、扉の向こうから飛んで来た。
『――おれはただ、君を守りたいのに……どうして……』
強い惑乱と切望。ツィツィーは慌てて立ち上がると、恐る恐る扉を開ける。
すると廊下の途中でエレナと誰かが言い争っていた。
どうやら先日のパーティーで、彼女を迎えに現れた青年のようだ。
「エレナ、考え直してくれ。君は利用されているだけなんだ」
「……そんなこと、わかっています。でも……」
「新しいブランドだって! 君の能力を使って、金儲けがしたいだけに決まっている! 今だってすべて君が……」
「オルビット、……もう、いいんです」
押し黙るエレナを前に、名を呼ばれた青年は静かに首を振っていた。エレナはひどく傷ついた顔つきのまま、ただじっと床を見つめている。
そんな二人の一部始終を見ていたツィツィーは、扉を閉める音がしないよう、細心の注意を払って部屋へと戻った。
知らず額には汗が流れている。
(と、とんでもない現場を見てしまいました……)
やがて茶器を携えたエレナが戻って来た。
ツィツィーはわずかに迷いながらも、先ほど見た光景について尋ねてみる。
「あの、……大丈夫でしたか? 他の方と約束があったのでは……」
「……いえ。特には」
「で、でもあの、オルビットさん、は……」
すると向かいに座っていたエレナの睫毛が、少しだけ押し上げられた。すぐにはあ、とため息を零すと、自らが淹れた紅茶を口にする。
「見られていたんですね。すみません、声が大きくて……」
「あ、その、ごめんなさい。お友達が来られたのかと思って」
ツィツィーが照れたように笑うのに対し、エレナは再びテーブルへと視線を落とした。
「――オルビットは、わたしの幼馴染で……元、婚約者です」
「こ、婚約者、ですか⁉」
「はい。ですが断りました」
エレナはカップを持つ手を、膝の上に下ろした。
「幸い結婚をせずとも、伯爵位を維持出来るまでにはなりましたし……わたしはこれからも、兄を助けていきたいと思っていますので……」
その言葉を聞いていたツィツィーは、自分の中で形作られてきた推測と、オルビットの会話から、ある一つの結論を見出していた。
これを口にして良いのだろうか、と一瞬だけ思い悩むが、パーティーの日――ドレスを汚されて沈痛な表情を浮かべていたエレナの姿を想起すると、覚悟を決めたように息を呑み込む。
「エレナ……もし違っていたらごめんなさい。もしかして本当は――あなたが『デザイナー』なのではありませんか?」
途端にエレナは口を引き結んだ。
同時に緊迫したビリ、という感情がツィツィーの脳裏をかすめる。間違いない、とツィツィーは確信した。
「あなたの部屋にあったデザイン画は、既に商品として作り出されたものだった。……単なる手伝いだけじゃない。今ルカがデザインしたと言われているドレスはすべて……あなたが手掛けたものなのでは?」
「……」
我慢比べかと勘違いしそうになるほど、長く重たい沈黙が室内を満たした。やがて白旗を上げるように、エレナが口を開く。
「……その通りです。特注品のデザインは、すべてわたしが起こしています」
――きっかけは些細なことだった。
まだ事業が軌道に乗り始める前、工房にいたデザイナーの仕事を見ていたエレナは、試しに自分でもドレスを描いてみたのだという。
兄のルカがそれに目をつけ商品化したところ、さる高名な貴族のご婦人がたいそう気に入り、そこから一気に噂が広がった。
二度三度と兄からデザインを頼まれ仕上げていくうちに、エレナのドレスは人気を博し、さらに依頼が舞い込んだ。
だがどれだけ点数が増えても、デザイナーとしての名前は『ルカ』が受け持つこととなった。
「どうして、ルカの名前を?」
「兄が言うには……『女がデザインしたものでは売れない』と……」
古い貴族体質が色濃く残るこのヴェルシアでは、事業経営で金策をする家は二流と思われがちだ。そんな世間の目の中でもシュナイダー家が戦っていられるのは、ひとえにルカという才能の塊がその名を馳せているからだろう。
だがその肝となるデザイナーが、本当は女性だとしたら。
いまだ男尊女卑の明確な王都において、その信用度は天と地ほどにも変わってくる。実際どれだけ優れたデザインであっても、初めからエレナの名前で出していたら、きっとこれほどまで持て囃されはしなかっただろう。
「わたしも……そうだと思います。みんなが欲しがっているのは『わたしのドレス』ではなくて『兄がデザインしたドレス』なんです……」
わたしが作るものに価値なんてない、と嘆いていたエレナの心を思い出した。
同じようにエレナがデザインしたものなのに、ルカがデザインしたと札が付くだけで人々はこぞって買い求める。その一方で彼女のドレスは無残に汚され笑われる。その無力感は計り知れないことだろう。
「このことを知っている人は、他にいないんですか?」
「工房の人間は知っています。ですが皆、理解していることなので……」
「そう、ですか……」
おそらくオルビットという青年もこの真実を知り、なんとか出来ないかと訴えていたのだろう。
どう声をかければいいか分からず、黙り込んでしまったツィツィーに向けて、エレナは諦観を含んだ言葉を続けた。
「いいんです。わたしは、……たとえわたしの名前でなくても、ドレスを喜んでくれる人がいれば、それで……」
「……エレナ……」
やがて部屋の扉がコンコンとなり、ツィツィーの迎えが来たことを知らせてくれた。ツィツィーは寂しそうなエレナの顔に後ろ髪を引かれながらも、仕方なく彼女の部屋を後にした。












