第一章 4
ツィツィーはそっと、無言のまま視線を落とすガイゼルを見つめた。伏せた瞼によって鉄紺色の目は陰っており、長い睫毛が物憂げに影を落としている。
その姿は大国ヴェルシアの皇帝にふさわしい、実に優雅な形貌をしているにも関わらず、ツィツィーには不安を抱えた、とても脆い存在に見えた。
(陛下は……一人で戦っているのかしら……)
たまらずツィツィーは、ソファの隣に腰かけるとガイゼルの手を取った。
「――私は、ガイゼル様の味方です。だからどうか、ご自分の気持ちを大切になさってください」
「……」
ガイゼルは閉じていた目をゆっくりと押し開いた。深い青色の瞳が、ツィツィーを真っ直ぐに射貫く。普段見せる睥睨ではなく、自らの気持ちを探りながらも言葉が出ない、そんな戸惑いを孕んだ眼差しだった。
だがすぐに、普段の自信にあふれた笑みに変わる。
「――お前に言われるまでもない」
ガイゼルがくく、と愉悦を浮かべるのを見て、ツィツィーは安堵したように息をついた。するとガイゼルは、何かを思い出したかのように、空いていた方の手で上着を探った。取り出されたのは布張りの小さな箱だ。
「開けてみろ」
受け取ったツィツィーは言われるままにそれを開く。中には台座に収められた銀の指輪が入っていた。頂上についているのは綺麗な薄緑の宝石だ。
「やる」
「え⁉ でも、貴重なものなのでは……」
「イエンツィエの、それも王族でしか取引されない石らしい」
その言葉にツィツィーは目を丸くした。
「こ、困ります、そんな貴重なもの」
「この俺の妻とあろうものが、そこらのやつと同じものを身に着けるのか?」
そ、そういう訳では……と困惑するツィツィーの左手を、今度はガイゼルの方から掴んだ。するりと薬指に光が走り、気づけば先ほどの指輪がツィツィーの手に輝いている。
「勝手に外すな。これは命令だ」
「は、はい」
『これで万一ツィツィーの顔を知らない奴が来ても、虫よけくらいにはなるだろう。……ああーしかし、やはり石が大きすぎたか? ツィツィーは華美を好まないと知ってはいたが、……イクスの水晶やアガサのアクアマリンの方が良かったか……帰ったら商人を呼びつけて、ツィツィーの好きな石であと二、三個作らせても……』
「ありがとうございます! これだけで十分です!」
大変なことになる、とツィツィーは指輪を嵌めた左手を広げて、嬉しそうに笑った。
その様子に満足したのか、ガイゼルは自身の右手を、ツィツィーの手にそっと絡めた。指先まで覆い隠されてしまうような大きな手に包まれて、ツィツィーは顔が熱くなるのを感じる。するとガイゼルは、そのまま手に力を込めてツィツィーを押し倒した。
「ガイゼル様⁉」
バランスを崩して後ろに倒れ込むツィツィーに、覆いかぶさるようにしてガイゼルが迫る。色気を孕んだ絶世の美貌が目と鼻の先にあり、ツィツィーは呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、はくはくと口を開閉させた。
やがてガイゼルは、ツィツィーの両頬に手を添えたかと思うと、ゆっくりと顔を近づけてくる。ツィツィーの心臓は早鐘のように高鳴り、今自分がどんな表情をしているのかも分からなかった。
(ど、どうしましょう、でも夫婦なのだから口づけくらいは普通なわけで……でも私、初めてなのに、ど、どうしたら⁉ このままでいいのかしら⁉)
ガイゼルの顔が斜めに傾き、いよいよ覚悟を決めたツィツィーは、目を強く瞑ってその時を待つ。
(――?)
だが待てども待てども唇に触れる感触はなく、代わりに思いつめたようなガイゼルの心の声が聞こえて来た。
『まだ、怯えているか……』
(……ガイゼル様?)
『無理もない。……元々、望んで俺の元に来たわけではないだろうしな』
ツィツィーがそろそろと目を開けると、ガイゼルの瞳とぶつかった。イシリスの星空のような美しい鉄紺色が、寂しそうに眇められる。
「何を期待した?」
「そ、その……」
「――くだらん。俺は寝る」
そう言うとガイゼルはツィツィーを解放し、自らも立ち上がった。室内に戻っていく――かと思えば、ベッドではなくそのまま部屋を出て行こうとしているではないか。
「ガ、ガイゼル様、どちらに」
「明日も早い。俺は別の部屋で寝る」
「で、でも」
言いかけてツィツィーは言葉に詰まった。
実は輿入れしてから今日まで、二人は別々の寝室で眠っている。ガイゼルの仕事が深夜に及ぶことや、まだツィツィーが生活に慣れないだろうからという配慮からだ。
しかし今日は新婚旅行。ツィツィーもある程度の覚悟はしていたつもりだが、口づけのふりだけで縮こまってしまったツィツィーを見て、ガイゼルは考えを改めたのかもしれない。
(一緒に寝ましょう、と言うのは、正直ものすごく恥ずかしいわ……)
思考停止してしまったツィツィーに気づいたのか、ガイゼルは再びいつもの嫌味な笑顔を浮かべた。
「抱かれたいなら、抱いてやってもいいが?」
「け、結構です!」
あまりに挑発的な物言いに、思わず反論してしまったツィツィーは「しまった」と頭の中で呟いた。だがガイゼルは別段気を悪くした様子もなく、笑いを堪えている。
『やっぱり可愛いな。……本当に抱いてしまいたい……だが、怖がらせたくはないしな……』
聞こえて来た心の声に赤面しながら、ツィツィーはそろそろとガイゼルの顔を窺う。微笑みを残したその表情には、『氷の皇帝』と呼ばれる残忍なイメージは欠片もなかった。もしかしたら、これが本当のガイゼルの姿なのかもしれない。
「じゃあな」
「あ、ガイゼル様、その」
「まだ何かあるのか?」
「ええと、一つだけ、お願いが」
ん? と訝し気に眉を寄せたガイゼルに向けて、ツィツィーは息を深く吸い込む。
「その、……名前を呼んでいただけたら、と」
「……」
一瞬、世界から音が盗まれたのかと思うような、長い沈黙が流れた。
(や、やっぱり、いきなりおかしかったかしら⁉ でも……)
彼の口から、自分の名前が零れるのを聞きたい、と思ってしまった。
などと言えるわけはなく、ツィツィーはひたすらにガイゼルの言葉を待つ。だが先に聞こえて来たのは、音にはならない心の声だ。
『名前……名前を呼んでって……俺が、か? 俺が誰の、いや、それはツィツィーのだろうが、……たしかにまだ一度も呼んでいないから、不満に思うのも分かるが、わざわざそんなことを頼んでくるか? このタイミングで? 可愛すぎないか? 狙ってやってるのか? 俺をどうしたいんだ?』
やはり抱くか? とまで聞こえたあたりで、ツィツィーは心の中で「わー!」と叫びながら、降参するように両手のひらをガイゼルの方に向けた。
なんとか心の声を遮れないか、と思っての行動だが、彼の言葉はとめどなく溢れてくる。
「も、申し訳ありません、差し出がましいことを、その、忘れて……」
「――ツィツィー」
低く響く、鋼のような真っ直ぐな声。
湖の漣だけが立てるわずかな音の合間を縫うように、ガイゼルがツィツィーに向けて呼びかけた。その声が、想像していた以上に優しく――甘いものだったので、ツィツィーは最初呼ばれたことにすら気づかなかった。
「ツィツィー」
「は、はい!」
「ツィツィー」
「はい……」
「ツィツィー?」
「も、もう、十分で……」
「……ツィツィー」
ひゃーと首から上まで真っ赤になるツィツィーをからかうように、ガイゼルは何度も彼女の名を呼んだ。やがてはは、とお腹を押さえて笑う。
「すみません! すみませんでした!」
「飽くまで呼んでやる。ツィツィー」
「やめてくださいー!」
両手で耳を押さえて逃げ回るツィツィーを見て、ガイゼルは心から楽しそうに、愛する妻の名前を口にしていた。