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第一章 3


 太陽が頭上に輝く頃、ようやくガイゼル率いる一行は目的のイシリスに到着した。

 手綱を引いて馬の足を止めたガイゼルは、そのままするりと地表へ降り立つ。振り返ると、ツィツィーに向かって無言で腕を伸ばした。

 ツィツィーはその高さに少しだけ怖がっていたが、そろそろと彼の手を取る。すると思ったよりも勢いよく引っ張られ、すとんと下ろされた。


「ここが、イシリス……」


 ツィツィーは目の前に広がる景色に、息を吞んだ。

 遠くには霧がかった山々がまるで白馬の背を描くかのように並んでおり、深緑の針葉樹林に囲まれた湖は白く微かな漣を浮かべている。透明度が高いのか、泳ぐ魚の背びれが見えており、ツィツィーは興味深げにそれらを目で追いかけた。


「ナガマ湖だ。冬になると底まで凍る」

「この湖がですか⁉」

「ああ」


 ツィツィーは水の淵へと足を進め、恐る恐る覗き込んだ。水底の方は光が届きにくいのか、深い青色をしており、その神秘的な美しさに思わず胸が高鳴る。同時にツィツィーは先日の授業を思い出していた。

 イシリスは四季の変化が大きく、特に冬は命の危険もある極寒の世界になるらしい。夏は農業、冬は狩猟と工芸品で生計を立てている。大きな街はなく、山間部にそれぞれの集落がある小さな国だ。


「あの山を越えるとイエンツィエがある」

「イエンツィエ……」


 イエンツィエは、大国ヴェルシアと比肩する巨大国家だ。海に面しているため交易路が発達しており、ヴェルシアにはない珍しい宝石や織物などがあると読んだことがある。

 本で見た知識に、血肉が与えられているような感覚に、ツィツィーは今までに無い感動を覚えた。ラシーにいた頃のツィツィーは腫れ物扱いで、しっかりとした勉学が出来る状況ではなかったという背景もあるだろう。


「何を呆けている。来い」


 ツィツィーがはっと気づいた時には、荷物を持ったガイゼルが一人さっさと湖畔の先に足を進めていた。慌てて追いかけると木々の奥に一軒の邸宅が現れる。白を基調とした建物で、上下に花の細工がなされた太い柱が何本も並んでいるのが印象的だ。


「ガイゼル様、ここは……」

「別邸だ」

「……ええっ!」

「行くぞ」


 そのままずんずんと進んでいくガイゼルの後を追う。

 確かにイシリスは、戦によってヴェルシアの支配下になった属国の一つだ。皇帝であるガイゼルのための邸があっても不思議ではない……が、本邸とさほど変わらない、下手をすればそれ以上の大きさのある建物を前に、ツィツィーは改めてガイゼルの持つ力というものを思い知らされる。


「皇帝陛下、ようこそお越しくださいました」


 別邸に入ると、こちらの管理を任されているという使用人たちが出迎えてくれた。通された部屋に入ったツィツィーは再び感嘆の表情を浮かべる。


「……湖が、目の前に!」


 その部屋は、壁の一辺が全面窓として作られていた。

 窓の外には湖の上に張り出すよう、広いバルコニーが(しつらえ)られており、小さいが可愛らしいソファとテーブルがちょこんと並べられている。ツィツィーが窓を開けると、水面を走る爽やかな風がさあっと流れ込み、まるで部屋全体が湖面に浮かんでいるかのようだ。

 感動のあまり言葉を失うツィツィーをよそに、ガイゼルは荷物を置くと早々に部屋の出入り口へと向かう。


「俺は視察に行く。何かあれば使用人に言え」

「あ、はい! いってらっしゃいませ……」

「……ああ」


 ツィツィーが微笑んで見送るのを、ガイゼルはじっと睨みつけていた。やがて彼が扉を閉める一瞬、いつもの心の声がちらと聞こえてくる。


『ランディの奴……何が旅行代わりだ……ついでだからと言ってこんなに仕事を入れる奴があるか。おかげで俺はツィツィー一人を残して出かけなきゃならんじゃないか……なんのための新婚旅行なんだ……』


 バタン、と扉が閉じられると同時に心の声は途切れた。ガイゼルのあまりに悲しそうな心の声色に、ツィツィーは思わず笑みが浮かんでしまう。


(それにしても、どうしていつもあんなに睨んでいるのかしら)


 あんな顔をしていても、本当に怒っていることは一度もなかったので、単に目つきが悪いのかもしれない。それでも周りの人からすれば、ガイゼルはいつも険しい顔をしていると映ることだろう。なんてもったいない。

 いつか聞いてみましょう、とツィツィーは嬉しそうに微笑んだ。





 ガイゼルの仕事は思ったよりも時間がかかったらしく、別邸に戻ってきたのは陽が落ちて随分と経ってからのことだった。

 遅めの夕食を終えて部屋に戻った二人は、そのままバルコニーへと足を運ぶ。昼間とは違う、湿度の高いひんやりとした風が頬を撫で、ツィツィーは気持ちよさそうに目を細めた。空には薄く雲がかかり、朧月がぼんやりと漂っている。


「お仕事お疲れさまでした」


 無言のままソファに座り込んだガイゼルの前に、ツィツィーはグラスを置いた。


「なんだそれは」

「ヤシカ、というこの地方のお酒だそうです。良ければどうぞといただいたので」


 とくとく、と琥珀色の液体が注がれる。小さな泡が浮かび上がるのを見て、ガイゼルはグラスを手に取った。軽く一口であおると、ふんと尊大な笑みを浮かべる。


「水だな」

「そ、それなりに度数が高いと聞いたのですが……」


 飲んでみろ、とグラスを渡され、ツィツィーも口をつける。だが舌に触れた瞬間、しゅわりとした炭酸の刺激と、濃度の高いアルコールの感覚があり、すぐに口を離した。


「私はあまり、飲めなさそうです……」

「軟弱だな」


 にやりと笑ったガイゼルは、ツィツィーの持つグラスを奪い返すと、彼女の持っていたボトルも奪い取った。そのまま手酌で注ぐと、二杯目も簡単に飲み干していく。だがグラスが空になったところで、はたと手が止まった。

 どうしたのだろう、とツィツィーが不安になっていると、いつもより小さな心の声が聞こえてくる。


『しまった……間接キスになってしまった……いや、ツィツィーが気づいていないから大丈夫か? いや別に狙ったわけじゃないんだが、もしわざとだと、……気持ち悪いと思われたらどうしよう……』


 そんなことを気にしていたのか、とツィツィーもつられて恥ずかしくなる。心の葛藤を聞かれているとも知らないガイゼルは、照れを隠すかのように続けて杯を重ねた。少しペースが速いのでは、と心配になったツィツィーはそっと席を立つと、部屋にあった水差しを取りに向かった。


(仕事でお疲れでしょうし、あまり無理をさせてはいけないですよね……)


 だが本邸では、こうした二人だけでいられる時間が少ないため、もう少しだけ一緒にいたい、とつい考えてしまう。だめだめ、と雑念を振り払いながらバルコニーに戻ってきたツィツィーは、頭上に広がる景色を見て、思わずわあと小さな感嘆の声をあげた。

 少し強い風が吹き、空を覆っていた雲がゆっくりと晴れる。すると水面が鏡のようになり、白銀の月が二つ姿を現した。

 上を見ると、零れ落ちそうな星空の中央に、真円に近い月が煌々と。下を見ると波紋を浮かべる湖面にくっきりと月影が見える。そのあまりに美しい光景に、ツィツィーはしばし心を奪われていた。



「――見事だろう」


 突然ガイゼルから話しかけられ、ようやくツィツィーは意識を取り戻した。


「は、はい! 本当に、すごく綺麗です……」

「今は秋だが、春のイシリスはもっと見事だ。数えきれないほどの花が、そこら中に咲く」


 ツィツィーは思わず、色とりどりの色彩で溢れたイシリスの地を想像した。一面の雪から、極彩色の絨毯に変貌する。その美しさを思い描き、思わず顔がほころぶ。


「きっと素敵でしょうね。もう一度来てみたいものです」

「そうだな。父上もその美しさに魅了され……それだけであれば、よかったのだがな」

「……それだけでは、なかったのですか?」

「父上はそれを我が物にしたくなり――イシリスを奪った」


 ガイゼルの口調が強張ったのが分かり、ツィツィーはすぐに言葉を止めた。家庭教師が紐解いた、イシリスの歴史はツィツィーの記憶にも新しい。


 ガイゼルの父親でもある先帝――故・ディルフ・ヴェルシア。

 彼の治世は侵略と簒奪の歴史で塗りつぶされている。巨額の投資をした軍隊と、自身の持つ武力をもって、ヴェルシアの周辺国を次々に支配下に置いた。その数は歴代の皇帝たちの中で最大だと言われ、ツィツィーの母国ラシーが恐れた理由でもある。

 イシリスもその一つと知ってはいたが、まさかそんな理由で他国を攻撃したとは誰も思わないだろう。


「……まあ俺も、あの男と同じ血が流れていることに変わりはないが」

「ガイゼル様もやはり……他国を支配したい、とお考えなのですか?」


 口にした後で、ツィツィーは行き過ぎた真似を、と恥じた。だがガイゼルは怒るでもなく、低く沈んだ声で訥々と呟く。


「さあな」


 その返事はまるで、迷子の子どもが親を探しているかのような、ごく頼りないものだった。そのままガイゼルは口を閉じたが、彼の心の声が静かにツィツィーの胸に流れ込んでくる。


『俺は……あの男と同じになりたくはない』


 ――誰かの故郷を奪うのも、明媚な風景を荒らすのも、望んでいない。


『だが、それで納得する奴ばかりじゃない。王宮内の派閥が荒れている今、公の場で口にするのは迂闊だ。……俺はどうしたらいいんだろうな』



 

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