第一章 10
(くるし、……)
むさぼるようなキスをようやく止めたガイゼルは、はあと熱い呼気を零しながら、体を起こすと手の甲で口元をぐいと拭った。
そのあまりの妖艶な姿に、ツィツィーはいよいよ自らの終焉を覚悟する。
「――いいか?」
ガイゼルに問われ、ツィツィーは少しだけ返事に迷った。
今日のガイゼルはどこか様子がおかしい。
ツィツィーに対して鍾愛を露わにするし、性急にことに及ぼうとする。だが今までが十分我慢していただけで、男性からするとこれが普通なのかもしれない。
すると口ごもるツィツィーを訝しんだのか、ガイゼルがわずかに眉を寄せた。
「どうした? 不満か」
「ち、違うんです陛下、でもあの、何と言いますか……」
―ーその瞬間だった。
『やめろ!』
(陛下⁉)
突然割り入った大声量に、ツィツィーは目を見開いた。慌てて正面にいるガイゼルを見上げるが、どうしたと見下してくるばかりで、まるで他人事のようだ。
(でも今の声は、間違いなく陛下の心の声……)
すると続けざまにガイゼルの怒号がツィツィーの耳を襲った。
『貴様、ツィツィーに何をしている⁉ すぐに離れろ!』
(ど、どういうことなの……?)
ガイゼルが発している胸の内のはずだが、目の前の彼は素知らぬ顔でツィツィーに熱い視線を送っている。
離れろも何も、当のガイゼルが組み敷いているのだから、ツィツィーが逃げられるはずもない。
だがツィツィーは、ずっと感じていた違和感の正体に気づき、警戒を露わにした。
(そういえば、私が何度『陛下』と呼んでも諫められることがなかった……)
いつものガイゼルであればすぐに訂正されそうなものだが、一度として指摘されなかった。何より前回、ツィツィーの体を気遣って自制してくれたガイゼルが、今更になって無体を働くとは思えない。
(じゃあここにいる陛下は……誰?)
するとツィツィーの変化に気づいたのか、偽ガイゼルがふ、と笑った。ガイゼルではないと分かっていながらも、その表情は大好きな彼の微笑みそのままで、ツィツィーはなんだか無性に悲しくなる。
「大丈夫だ。すべてわたしに任せておけ――」
「――ッ!」
ツィツィーは懸命に体を捩って起こそうとするが、力強い腕に押し付けられ、身動きがとれない。やがて偽ガイゼルは、ツィツィーの首元に噛みつこうと薄く唇を開く。
すると突然――偽ガイゼルの右手が不自然にツィツィーの肩から離れた。そして次の瞬間、ガイゼルは自らの右頬目がけて力強く拳を叩きつけたのだ。
「へ、陛下ー⁉」
とてつもない打撃音に、ツィツィーもまた目を見張った。案の定、ガイゼルはその衝撃のままベッドに倒れ込み、そのまま気を失ってしまった。
自由になったツィツィーが慌てて覗き込むと、しばらくしてぱちとガイゼルの睫毛が押し上げられる。
「だ、大丈夫ですか⁉」
「……ああ」
開かれたガイゼルの瞳は、以前と同じ澄んだ色合いで、ツィツィーはひとまず安堵する。綺麗な頬に立派な拳跡を残したまま、ガイゼルも緩慢な動作で体を起こした。
おろおろするツィツィーを見て、はああと深いため息を零す。
「良かった……」
「陛下?」
「……ガイゼルだ。いや、今はそれどころじゃないな」
その反応に、本来のガイゼルが戻ったことを確信したツィツィーは破顔した。一方でガイゼルは、自らの身に起きた出来事を整理しているようだ。
一体何があったのか、とツィツィーが尋ねると、記憶を手繰るように説明し始めた。
「お前を見た瞬間に――何というのか、他人から体を乗っとられた感じがした。俺の意思はどこかに消え、奴の思い通りに動かされる。……感情もすべて、そいつに従ってしまうかのようだった」
「ガイゼル様、もしかしてそれって……」
「ああ。ヴァンが陥った状況と同じだろう」
その言葉にツィツィーは思わず身震いする。ヴァンだけでなく、ついに陛下まで。
(一体誰が? ……でも悪意だとすれば、何が狙いなのかしら)
今日のガイゼルの移動範囲は王宮と本邸だけ。ヴァンの時と同じで、内部犯の可能性が高い。
だが計画の目的が謎すぎる――とでもいうのだろうか。本当に策略があって動いているにしては、タイミングもかける相手も随分と適当だ。目論見があるにしては、意図がはっきりしない。
(ヴェルシア内部を揺るがしたいのであれば、ヴァンや陛下ではなく、もっと他にやり方はあるはず……であれば、他の……原因がある?)
そこでツィツィーは改めて近況を思い返した。ヴァンに異変が起きた日と、ガイゼルが乗っ取られていた今日、二日のうちで共通する出来事はなかっただろうか。
もちろん互いの仕事内容もあるだろうから一概には言えない……と考えていたツィツィーは突如「あ!」と声を上げた。
「どうした?」
「いえその、確信があるわけではないのですが……」
「構わん。言ってみろ」
「……ガイゼル様は今日『レヴァナイト』をご覧になりましたよね」
「ああ」
「以前ヴァンの様子がおかしかった日も、同じように宝石を眺めたんです」
「たしかにそう言っていたな。だが儀典長やお前も見ただろう」
「そ、そうなんですよね……」
ガイゼルの言葉通り、同じくレヴァナイトを鑑賞したはずのツィツィーと儀典長には、おかしくなったという自覚や報告はない。
性別や年齢によって変わるのかという疑惑もあるが、そもそも宝石を見ただけでおかしくなる、などあまり聞いたことがない。
だがツィツィーの言い分にも一理あると思ったのか、ガイゼルはしばらく口元に手を添えて考えていた。やがてぼそりと口にする。
「明日、もう一度あの宝石を見に行くか」
「え⁉ で、でも、大丈夫なのですか? 万一また体を乗っ取られでもしたら……」
「その時はまたこうするだけだ」
ちらりと自身の頬に視線を落とすガイゼルを見て、ツィツィーは思わず笑ってしまった。
少しだけむすりとした顔を見せるガイゼルに謝りながら、おずおずと腫れた部分に指を伸ばす。
本当に加減なく殴ったようで、まだじくじくとした熱を孕んでいた。












