第一章 9
そんなことがあった日の夜、ツィツィーは一人で悩んでいた。
(どうしましょう……今日も主寝室に行って良いかしら……?)
夕食時、まだガイゼルは本邸に戻っていなかった。執事に確認したところ、王宮で食事を済ませた後、こちらに戻る予定だという。
(差し入れ作戦は使えなくなってしまったし、それに今日は特に約束をしているわけでもないですし……)
だがせっかくガイゼルが帰ってくるのなら、少しでも良いから一緒に過ごしたい。
しかし呼ばれているわけでもないのに、自ら主寝室にいたとなれば――その、なんだかとても、色々期待をしているように思われそうな気もする。
ツィツィーは浮かんでくる雑念を払うように、ぶんぶんと首を振った。
(期待していないわけではないのですが、……いえ、そういう問題ではなく!)
ガイゼルに会いたい理由はもう一つあった。
他でもない、昼間の様子。ガイゼルがツィツィーを睨みつけるのはいつものことだが、あの時ガイゼルの意識が一瞬途切れていたように感じたのだ。
恥を忍んで主寝室に行くか、おとなしく朝を待つか。ツィツィーがうんうんと唸っていると、夜の支度を手伝いにリジーが部屋を訪れた。
頭を抱えながら、うろうろと室内を徘徊するツィツィーの姿を目撃したリジーは、まるで珍獣でも発見したかのように目を見開いている。
「皇妃様⁉ どうされましたか⁉」
「ご、ごめんなさいリジー! ちょっと考えごとをしていただけなの……」
そこではたと気づいたツィツィーは、リジーに悩みごとを打ち明けることにした。唯一ともいえる女性の知り合いに意見を聞いてみよう、と考えたのだ。
だがリジーは、最初こそ緊張した面持ちで話を聞いていたものの、次第に遠い目をし始めた。
その様子にツィツィーは「あれ?」と徐々に不安になってくる。
「――というわけで、やはり陛下のお部屋に行くのは不躾でしょうか……」
すべてを語り終えたツィツィーは、裁判官の判決を待つような心境でリジーをまじまじと見つめた。
リジーは瞼を閉じたまま何度か頷いたかと思うと、両の拳を力強く握りしめる。
「――行きましょう」
「え?」
「行きましょう! 今すぐ! 主寝室に! さあ!」
「え? え?」
言うが早いかリジーはクローゼットを開け放つと、ああでもないこうでもないと、以前よりも熱心に衣装選びを開始させた。
ツィツィーはあれよあれよという間に、繊細なレースの縁取りのナイトドレスを着せられ、鏡台の前に着座させられる。ツィツィーの銀の髪に手際よく櫛を入れながら、リジーは穏やかな声で語りかけた。
「皇妃様がそのようなことでお悩みになる必要、どこにもありませんわ。きっと陛下は、すごくお喜びになりますよ」
「そ、そうでしょうか……?」
「お二人は夫婦ですよ? 自信を持って下さい!」
「は、はい……」
ツィツィーの肌に薔薇水をたっぷり塗り込んだ後、リジーは主寝室まで送りますと願い出た。
だがまもなくリジーたちの仕事が終わる時間になることもあり、ツィツィーは一人で大丈夫ですからと辞退する。もちろん、恥ずかしかったのもあるのだが。
背中にリジーの声援をうけながら、ツィツィーはよしと気合を入れると、主寝室へと足を向けた。いつかぶりのその部屋は、相変わらず静かな空気に満たされており、国の主の部屋たる誇りすら感じられる。
前回と同じソファに腰を下ろすと、ツィツィーは精神を落ち着けるように、深く息を吐きだした。
(少しだけ待ってみて、あまり遅くなるようでしたら、帰ることにしましょう……)
ガイゼルの迷惑になるのは本意ではない。
長居するつもりはなかったため、本も持って来ていなかったツィツィーは、仕方なくゆっくりと室内を見回した。
すると突然がちゃりという開錠の音が響き、ツィツィーは床から飛び上がりそうなほど驚いた。
すぐに主寝室の扉が開き、ガイゼルが入って来たが――中にいたツィツィーの姿に気づくと、こちらも幻を見たかのように目を見開いている。
「ツィツィー?」
「す、すみません! あの、呼ばれてはいないのですが、その……どうしても、陛下にお会い、したくて……」
ガイゼルはしばらく唖然としていたが、たどたどしく紡ぐツィツィーの言葉を聞いているうちに、ふ、と表情を緩めた。
ツィツィーの元に歩み寄ると、膝裏と背中に手を差し込み、いとも簡単に横向きに抱き上げてしまう。取り乱すツィツィーに対し、ガイゼルは嬉しそうに口角を上げた。
「珍しいな、お前から来てくれるとは」
「ご、ご迷惑かもしれないと思ったのですが、その」
「妻が二人の寝室を訪れることの、どこに問題が?」
まっさらなシーツの上に優しくツィツィーを寝かせると、ガイゼルは下から覗き込むように口づけた。ゆっくりと離れていく唇とともに、二人の視線が間近でぶつかる。
するとその一瞬、ガイゼルの目が妖しくきらめいた。
気のせいかしら、とツィツィーが確かめようとする間もなく、ガイゼルは静かに目を細める。同時にツィツィーの肩に手をかけた。
「……なんて美しい……」
「へ、陛下?」
「銀細工の髪、青の瞳……」
熱っぽく語られる言葉に、ツィツィーは最初耳を疑った。
これは心の声ではない。ガイゼルの口から、直接発されているものだ。
(ど、どうして陛下が、こんな言葉を、突然⁉)
たしかに以前数回だけ、ガイゼルが自らの気持ちを口にしてくれたことはあった。
だがいずれも鬼気迫る状況だったり、その後しばらく口をきいてくれなくなったりと、非常に希少な体験であったことも覚えている。
しかし目の前のガイゼルは、ツィツィーに向けて何のてらいもなく、甘い言葉を囁いている。
一体どういうこと、と混乱するツィツィーをよそに、ガイゼルはなおも愛しさを堪えきれないとばかりに迫ってきた。
「好きだ……」
(えええー!)
気づけばツィツィーはベッドの上に押しつけられており、ガイゼルの上背にすっぽりと覆い隠されてしまった。
室内灯のわずかな逆光の中、端正なガイゼルの顔と濃艶な瞳が、もはや暴力的な色気をツィツィーに訴えかけてくる。
(こ、こうなる覚悟はありましたが、でも、こんな……)
そこでツィツィーは、はたと先日の夜のことを思い出した。あの時も今と同じような状態になったものの、ランディからの進言があったとかで、ガイゼルは自ら身を引いてくれたはずだ。
であれば今回も無理じいはしないのではないだろうか。
だがツィツィーの所思をよそに、ガイゼルは上体をかがめるとツィツィーの唇に噛みついた。
普段の優しい触れ方ではなく、飢えた獣のような口づけに、ツィツィーは頭の中がぐしゃぐしゃになってしまう。












