第一章 7
午後の勉強とお茶の時間を終えたツィツィーは、傾き始めた太陽を窓越しに見つめていた。遠く山の端が赤金色に色づいており、室内に差し込む光もどこか暖かい。
(そろそろ陛下がお戻りになられる頃かしら……)
ツィツィーは手にしていた本に視線を戻したが、すぐにまた窓の方を眺める。慌ててページに目を落とすが、小さな物音ひとつに顔を上げてしまう。やがてツィツィーは諦めたようにため息をついた。
(だめだわ……集中出来そうにない)
仕方ない、とツィツィーは書物を閉じて脇に置くと、すっくと立ちあがった。自室を出て、ガイゼルが最初に顔を出すであろう一階の玄関ホールへと向かう。
すると二階の廊下の向かいから、ヴァンがこちらへ歩いて来るのを発見した。律義にツィツィーの様子を見に訪れたのだろう。
「ヴァン、陛下はまだお戻りになっていませんか?」
「……はい」
どこか暗いヴァンの返事に、ツィツィーは首を傾げた。どことなく歩みも不安定な気がして、ツィツィーはそっと駆け寄る。
「大丈夫ですか、どこか体調が悪いのでは……」
「ツィツィー、……」
「……ヴァン?」
顔を上げたヴァンは灰青の目で、ツィツィーをじっと注視した。普段の軽い態度は一切なく、まるで最愛の恋人を前にしたかのような真剣さだ。
ヴァンの瞳の奥でくすぶる熱を感じ取ったツィツィーは、ぞわりとした恐怖に襲われる。
(ヴァン――では、ない? この感じ……)
心の声が聞こえるわけではないが、明らかに乱れた――騒音のような幻聴に、ツィツィーはたまらず一歩後ずさる。
するとヴァンもまた、ツィツィーを追い求めるように距離を詰めた。
「すみま、せん……でも、俺……」
「え?」
ツィツィーが問い返したと同時に、ヴァンは強く頭を振った。再び顔を上げると、涙をこらえているような切ない表情に変わっている。
ヴァンは何度も「違う、違うんです」と否定しつつも、ツィツィーの両肩を掴んだ。そのまま人通りの少ない廊下の壁際に追いやられ、ツィツィーは身動きが取れなくなってしまう。
「ダメなんです……俺は、陛下を裏切りたくない……だけど……」
「ヴァン、しっかりしてください! 一体どうしたというのですか?」
「――ツィツィー、俺は、君のことが……」
だがその言葉の先は、脇から伸びてきた刃物によって遮られた。
「――ッ⁉」
二人して目を剥く中、ナイフの刃先が静かにヴァンの喉元に添えられる。
ツィツィーが顔を上げると、地獄からの使者も裸足で逃げ出しそうなくらい、恐ろしい顔をしたガイゼルが、ヴァンの背後に立っていた。
ヴァンも硬直したまま視線だけを後ろに向ける。
彼の頸動脈には、今なお鋭利な刃が突きつけられており、一瞬たりとも気を抜くことは許されない。その状態のまま、ガイゼルは静かに口を開いた。
「ツィツィー。こちらに」
指示通りヴァンの脇をすり抜けるようにして、ツィツィーはガイゼルの背中に隠れる。ヴァンは降伏を表すように、両腕を半端にあげたままだ。
ガイゼルはナイフをしまうと、ヴァンに向けて「こちらをゆっくりと向け。不審な行動をしたら叩き切る」と告げた。
命の危機がまだ去っていないと察したのか、ヴァンは小さく震えながら向き直る。
するとガイゼルはヴァンの動きを封じるように長い足を伸ばすと、後ろの壁にドンと靴裏をつけた。
その体勢は恋愛小説によくある、男性が好きな女性を囲うシーンに似ていたが、今は一歩間違えば壁ドンどころか壁ごと壊されそうな緊迫感がある。
「――ヴァン・アルトランゼ」
「……」
「申し開きがあるならば、聞くが?」
うん? と首を傾けるガイゼルの声は冷たく、無い罪ですら自白してしまいそうな威圧感があった。
ツィツィーが止めようと口を開く間もなく、ヴァンがガイゼルを睨みつけたまま激白する。
「俺は、……彼女を愛しています!」
「……」
「絶対に幸せにします! だから……」
ドゴォ、という聞き慣れない音にツィツィーは最初、イエンツィエが再び侵攻して来たのかと飛び上がった。
だが破壊音は目の前――ヴァンの顔のすぐ隣で起きたものであり、発生の原因は他でもない、ガイゼルの拳だった。
壁材の欠片をぱらりと零しながら、ガイゼルはヴァンを覗き込むようにしてにやりと笑う。
なまじ顔が整っている分、怒り狂った時の彼は本当に恐ろしいとツィツィーは改めて痛感した。
「分かった。決闘なら受けて立とう」
「あ、わ、わ……」
崩れゆく石の音を耳元で聞いていたヴァンだったが、やがてあまりの恐怖に気を失ったのか、その場にくずおれるように座り込んでしまった。
ガイゼルが壁に突き刺さった拳を引き抜くのに合わせて、ツィツィーが慌ててフォローする。
「へ、陛下、違うんです、その」
「分かっている。あれはヴァンではないというんだろう?」
「わ、分かっておられたんですか?」
「あいつは要領こそいいが、公私のけじめはしっかりつける。ツィツィー、などと呼び捨てするなどありえんからな」
「そ、そういえば……」
たしかにヴァンは初めて出会った時から、ツィツィーのことを『様付け』か『皇妃殿下』と呼んでいた。
そんなわずかな違いから気づくなんて、とツィツィーは改めてガイゼルの洞察力に感心する。
「でしたら、先ほどのもわざと……?」
「……まあな。まじないの類かと思ったが、意外とあっさり解けたようだ」
解けなかったらヴァンはどうなっていたのだろう、とツィツィーは少しだけ不安になる。
やがてガイゼルは跪くと、気絶したヴァンの肩に手をかけ揺り起こした。何度か頭を前後させたヴァンは、ようやく瞼を開くと焦点が定まったかのように目を見開く。
「す、すみません‼ 俺、なんて、ことを……!」
「目が覚めたか」
「本当に申し訳ございません……! この罪は、俺の命をもって、あがなう覚悟で……」
「いらん。それより何があったのか話せ」
ヴァンはガイゼルの言葉にしばしきょとんとしていたが、やがて安堵したように俯いた。












