第一章 4
その日の夕食は、何を食べたかほとんど覚えていなかった。
茫然としつつも、湯あみだけは普段の倍以上時間をかけ、リジーと共に一番可愛く見えるナイトドレスを厳選した。
どうやらツィツィーの異常な気合の入り方に、リジーも何かを察してくれたようだ。
だが就寝の時間が近づいても、ガイゼルが帰ってきたという連絡はない。どうしたものかと迷ったツィツィーだったが、昼間の約束を信じて主寝室に向かうことにした。手にはカンテラと小さなバスケットが握られている。
主寝室はガイゼルの部屋の隣に位置しており、扉一枚を隔てて彼の私室がある。鍵がかかっているので確認は出来ないが、室内に誰かがいる気配はない。やはりまだ戻ってはいないのだろう。
(なんて大きなベッドなのかしら……)
ウタカの客室にあったものも相当立派だったが、こちらのベッドはヴェルシアの歴史を物語るような荘厳な装飾や天蓋があしらわれていた。何より普段ガイゼルが眠っている場所、と考えるだけでツィツィーは胸が高鳴るのが分かる。
完璧なベッドメイクを崩してしまうのはなんだか気が引けてしまい、脇に置かれていた三人掛けのソファにツィツィーは腰を下ろした。
時計を見る。
使用人たちも既に仕事を終えている時間だが、ガイゼルはいまだに王宮から戻って来ていない。
(やっぱり相当お忙しいのね……無理をしていないといいけれど……)
今日が終わるまであと二時間ほど。
ツィツィーは待ち時間を潰すべく、持って来ていた本を紐解いた。
「……ツィツィー、」
穏やかな呼び声に、ツィツィーははたと目を覚ました。
慌てて顔を上げると、さらりとした黒髪越しのガイゼルが、心配そうな様子で覗き込んでいる。膝には開いたままの本。どうやら読書しながら眠ってしまったらしい。
「す、すみません、ガイゼル様! 起きておくつもりだったのですが……」
「いや、俺の方こそ悪かった。まさかこんな時間になるとは」
一体何時だろう、とツィツィーは時計を確認した。すると分針は、まもなく日付が変わるという時刻を指している。たしかにこの時間まで仕事をしていたのであれば、本邸に戻るよりも王宮で寝泊まりする方が幾分か楽だろう。
「あんまり、ご無理をなさらなくても」
「約束しただろう。今日は必ず帰ると」
何とか間に合ったな、と微笑みながら、ガイゼルはツィツィーの頬に流れる髪をそっと耳にかけさせた。
どこか手慣れた仕草に、ツィツィーは照れを誤魔化しながら「そういえば」と両手を合わせる。
「ガイゼル様、お腹はすいていませんか?」
「腹?」
「その、毎日遅いので、あまりちゃんと食事をとられていないのではと……」
きょとんとするガイゼルの前に、ツィツィーはバスケットを取り出した。蓋を開くと、中には綺麗な断面のサンドイッチがぎっしりと詰まっている。
「良かったら、夜食にと思ったのですが……」
おずおずと差し出されたそれを、ガイゼルは最初不思議そうに見つめていた。だがすぐに真ん中の一つを手に取ると、ツィツィーの隣に腰かけてぱくりとかぶりつく。小さなパンはわずか二口でガイゼルの手中からなくなり、しばらく味を堪能したかと思うと、喜びを噛みしめるように呟いた。
「……うまい」
「本当ですか⁉ 良かった……実は少し自信がなくて」
「自信?」
思わず漏らしたツィツィーは、あっと声を上げると手で口を塞いだ。だがしっかりと聞こえていたらしく、ガイゼルは何事だとこちらをじっと注視してくる。このままいらぬ誤解をされるよりは、とツィツィーは白状した。
「そ、その、……ガイゼル様がせっかく帰って来てくださるのだから、私も何かしてあげられることはないかと、……料理長に習いながら、作りました……」
「……」
言いながら次第に赤面していくツィツィーに対し、ガイゼルはあっけにとられたような表情を浮かべていた。
やっぱりもっと他のことが良かった? と不安を募らせるツィツィーをよそに、ガイゼルはバスケットごと奪い取ると、サンドイッチを次々と口に運んでいく。
そのあまりの勢いに、ツィツィーの方から制止をかけた。
「ガ、ガイゼル様⁉ そんなに無理に食べなくても!」
「それを聞いて、食わない男がいると思うのか」
「で、でも」
料理長仕込みとは言え素人料理である。おまけに目の前で平らげられている様を見るのは、恥ずかしいやら申し訳ないやらで、ツィツィーとしてもいたたまれない。やがて最後の一切れを食べたガイゼルが、ひっそりと心の中だけで感動を露わにした。
『……思えば、俺のためだけに作られた手料理、というのは初めてかもしれないな……母上はそれどころではなかったし、今までも食事を気にしたことなどなかった……』
(ガイゼル様……)
ガイゼルの過去については、本人からも聞いたことがあった。早くに亡くなられたお母さまのこと。他家に預けられて幼少期を過ごしたこと。
特段話すべきこともないから、と詳細は教えてもらえなかったが、ガイゼルの不遇な環境を思えば、無理もないことだろう。
(ガイゼル様が過去に味わった悲しさは、きっと一生癒えることはない……でも、これから先は、変えることが出来る……)
思いつめたツィツィーは、ぐっと両手を握りしめると、ガイゼルに向けて尋ねた。
「あ、ありがとうございます……その、よければ、また作ってもいいですか?」
「俺はありがたいが……大変じゃないか、ここまで準備するのは」
「いえ全然! 私もガイゼル様に食べてもらいたいので!」
するとガイゼルはツィツィーの発言を聞いた後、しばらく一人で逡巡し、手で額を押さえたかと思うとはあーと深いため息をついた。
『分かってる……そういう意味じゃない。そういう意味はないんだ。他意はない。俺の心が濁っているだけだ……』
「ガイゼル様?」
「……いや、問題ない。その時はまた頼む」
「はい!」












