第一章 3
「本当はもっと本邸に帰りたいんだが、……」
「今が大切な時期なのは分かっています。私のことはどうか気になさらないでください」
「……」
ツィツィーとしては満点の答えを返したつもりだったのだが、どことなくガイゼルの表情が陰った気がして、あれと首を傾げた。すると心情の吐露が、普段より気持ち控えめな音量で響いてくる。
『俺の仕事を理解してくれているのは嬉しいが……寂しいと感じているのは俺だけか……。時には「会いたい」とか「帰って来て」とわがままを言われてみたいものだが、まあこれもツィツィーの優しさなのだから、そんな贅沢を言うわけにはいかないが……』
それを聞いたツィツィーは思わず息を吞んだ。
(そ、それは、……出来ることなら、私だって……)
ガイゼルが多忙を極めており、帰って寝る暇もないことは承知している。だからこそ貴重な時間には休んでいただくのが皇妃の務めだと、ツィツィーも寂しさを我慢してきたのだ。
しかし当のガイゼルも、同じように寂しいと思ってくれているのだとわかり、押し殺していた感情にじわりと灯が点る。
(でもさっき言ったばかりのことを、いまさら訂正なんて出来ないし……)
やがてガイゼルの手が、するりとツィツィーの顎から離れた。待って、とツィツィーは反射的に彼の手を握る。突然のことに目を丸くするガイゼルを前に、ツィツィーは顔から火が出そうなほど赤くなりながら口を開いた。
「ガ、ガイゼル様!」
「な、なんだ」
「目、目を閉じてください!」
「あ、ああ……」
何度か目をしばたたかせていたガイゼルだったが、ツィツィーの鬼気迫る様子に、大人しく指示に従った。
長い睫毛が伏せられ、凍てつく青い瞳が隠される。
ツィツィーは大きく息を吐きだすと、よしと気合を入れた。
(こ、今度こそ、……)
そろそろと体を前に倒す。ガイゼルの整った相貌が近づき、ツィツィーは今すぐ逃げ出したい衝動に駆られていた。だが自分の気持ちをガイゼルに伝えるにはこれしかない、と恥ずかしさを堪えて懸命に顔を寄せる。
やがてガイゼルの薄い唇に狙いを定める。
体重をかけないよう注意しながら、そうっと彼の顎に両手を伸ばした。ガイゼルの睫毛がわずかに揺れたが、目を開く様子はない。
(か、顔を傾けて、それから……)
どくどくという心臓の音がうるさい。男性とは思えない肌の滑らかさに驚きながら、ツィツィーは覚悟を決めたように顔を接近させる。
だが直前で目を瞑ってしまったせいか、目測が誤っていたのか。ツィツィーの口づけは唇ではなく、ガイゼルの頬――目の下あたりに、かすかに跡を残しただけで終わった。
さすがに二度目に挑戦する度胸はなく、ツィツィーが弾かれるように体を離したのと同時に、ガイゼルがしっかりと目を見開いていた。
「……ツィツィー? 今のは一体……」
(ああっ、私また失敗を⁉ ど、どう言ったら……)
熱で暴走しそうな脳を必死に回転させながら、ツィツィーは心に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「こ、これで、許してあげます!」
発言した後で、ツィツィーは慌てて口を塞いだ。
どうしよう。
夫とはいえ皇帝陛下に向かって、まるで友人に対するような言葉を使ってしまった。小動物のように縮こまってしまったツィツィーに対し、ガイゼルはやがてぽつりと言葉を落とす。
「――決めた」
「……はい?」
「今日は帰る。絶対に帰る」
「ガ、ガイゼル様……?」
「誰が何と言おうと帰る。だから――寝ずに待っていろ」
そう言うとガイゼルは、震えるツィツィーを抱きしめると、腕を自らの首の後ろに回させた。あっという間に攻守逆転され、困惑するツィツィーをよそに、後頭部を押さえつけ深く口づけを落としてくる。
『一体どれだけ俺を翻弄したら気が済むんだこいつは……。まさか無自覚なのか? 素でしているとしたら、よく今まで他の男が落ちなかったものだ。ラシーの王族たちは気に入らんが、その点だけは感謝しても良いかもしれん』
(ガ、……ガイゼル、さま……)
気づけばツィツィーの体は大分後方に傾いており、今にも組み敷かれそうな状態だ。腹筋を使って必死に抵抗するが、ガイゼルの力には敵いようもない。やがて彼の体重がのしかかり、ツィツィーはいよいよ顔を真っ赤にする。
そこで、こんこんと扉を叩く音が響いた。
「――ガイゼル様。ランディ様から、火急の案件がありますので、王宮にお戻りいただきたいとの伝言が」
「……」
ツィツィーが恐る恐る視線を上げると、顔を伏せたまま硬直するガイゼルの姿があった。心の声が聞こえずとも、激しい葛藤と苦悶で戦っているのだと分かる。
だがこのままでは、仕事に差し支えてしまうと、ツィツィーはたまらず声をかけた。
「へ、陛下……」
「……分かっている」
鉛を呑み込んだような声色で答えたガイゼルは、やがてゆっくりと体を起こして立ち上がった。ツィツィーもすぐに乱れを整え、ソファから立ち上がる。するとツィツィーの頭上に、大きなガイゼルの手が下りてきた。
「約束は覚えているな?」
「は、はい」
「食事は先にとっておけ。……夜は主寝室に来い」
ガイゼルはくしゃ、とツィツィーの前髪を乱した後、すぐにいつもの威風を纏った表情に戻り応接室を後にした。残されたツィツィーは一人、ばらばらになった髪を撫でつけながら、徐々に首から額へと赤面していく。
(しゅ、主寝室……って、つまり、そういう……)
久しぶりにガイゼルに会えただけでも十分だったのに、この急展開。
ツィツィーは恥ずかしさのあまり、その場にしゃがみ込んだ。












