第一章 2
やがて終始眉間に皺を寄せている皇帝陛下の様子に、儀典長の方が冷や汗をかき始めた。まずい。王宮で働く者の中には依然として、ガイゼルを恐ろしい皇帝だと思い込んでいる者も多い。
場の空気を変えなければ、とツィツィーは努めて明るくガイゼルに問いかけた。
「へ、陛下はどの宝石が良いと思われますか?」
「…… 身に着けるのはお前だ。好きなものを選べばいいだろう」
はあ、とついた重たいため息に、儀典長はさらにびくりと体を強張らせた。確かに傍からガイゼルを見れば、興味のない宝石選びに時間を取られて煩わしい、という言外の威圧感を漂わせている。
しかしその実態は『何なら全部の宝石をつけたティアラでも構わない』と言いたいのを、たっぷり二秒近く躊躇った結果である。
(陛下にお任せしていたら、大変なことになってしまいそうだわ……)
アドバイスは諦めて、ツィツィーは改めて宝石の書面を一枚ずつめくっていく。そのうちの一つを見て、ツィツィーは思わず手を留めた。
「あの、この石も良いんでしょうか?」
「! ええ、ええ、もちろんでございます。こちらは『レヴァナイト』と呼ばれる宝石ですね」
レヴァナイト、と初めて聞く名前にツィツィーは胸を躍らせた。鑑別書には深い青紫の石が描かれており、他と比べてキラキラと光を弾くような印象はない。他の煌びやかな宝石と比べると、比較的地味な色合いともいえる。
だがその重厚で神秘的な雰囲気に、ツィツィーはたまらなく心を惹かれた。それに何よりも――
「東の都市レヴァリアでしか取れない鉱石で、意味は『レヴァリアの夜』というそうです」
「レヴァリアの夜……」
なるほど『夜』と呼ばれる名の通り、その色合いは太陽が沈み切った後の星空の色だ。ツィツィーがどれを選んだのか、とガイゼルも同じ資料に目を通す。するとわずかに眉を寄せながら尋ねてきた。
「……いいのか? もっと華やかな色味のものもあるだろう」
「いえ、これが良いです」
するとツィツィーはまだ見ぬ本物のレヴァナイトを思い描くと、嬉しそうに微笑んだ。
「だってこの色が、大好きな陛下の瞳の色に一番近いので……」
するとそれを聞いた儀典長が、ほうと驚いたような感嘆を漏らしたかと思うと、にこにこと笑みを零していた。
その様子にツィツィーははっと意識を取り戻すと、慌ててガイゼルの方を振り向く。
問題のガイゼルは睨むでも拒むでもなく、ただ自らの顔を片手で覆って伏せていた。しかし決壊した心の声が矢継ぎ早に流れ込む。
『待て。落ち着け。修飾節のミスだ。大好きなのは俺ではなく、俺の瞳の色だ。いやそれでも十分嬉しいんだが。しかし俺の目だと……そんな可愛い基準で宝石を選ぶ奴があるか? いやここにいるんだが。……いっそ一番高価な鉱石とか、ここにある全部とか言ってもらった方がまだ傷が浅い気がする……。まさかこんな斜め上から突然殴られるとは思わなかった……』
(な、殴られたとは……どういうことかしら……)
あまりの速さに、最初の方は聞き取ることすら出来なかった。もしや体調が悪いのだろうか、とツィツィーは恐る恐るガイゼルに尋ねる。
「へ、陛下? いかがでしょうか……」
「――お前が好きなものでいいと言ったはずだ」
ようやく手を離し、隠していた顔を露わにしたガイゼルは、普段と変わらない冷静な雰囲気だった。だが心なしか頬が赤くなっており、それを気取られないようにか儀典長に素早く指示を出す。
「ではこの石で手配を頼む」
「かしこまりました。二週間ほどで届く手はずとなっておりますので、着きましたらまたこちらにお持ちいたします。その際に改めて現物を確認していただければと」
儀典長は手際よく話を進めると、机上に広げていた鑑別書を取りまとめた。レヴァナイトの書類を一番上に載せると、それではと機嫌よく応接室を後にする。
二人だけが残された部屋で、ツィツィーははあーと息を吐きだした。
「な、なんだか実感が湧きませんね……結婚式だなんて」
「お前には何かと苦労をかけたからな」
ほんの一か月前まで、イシリスの山小屋前で雪かきをしていたツィツィーにとっては、考えられないほどの様変わりぶりだ。だが中止されていた式を挙げられるのは、素直に楽しみでもある。
おまけに最近、なかなか二人きりで会うことが出来なかったガイゼルと、こうして隣り合う時間までもらっている。これも結婚式に向けてのささやかな特典というやつだろう。
「陛下、最近お忙しいようですが、お体は大丈夫ですか?」
「問題ない。お前こそ、無理はしていないか?」
「はい。皆さんとてもよくしてくださるので」
ガイゼルが排斥された時、この本邸の使用人も一度全員解雇された。だがガイゼルが凱旋を果たしてから、再度呼び寄せることに成功し、ツィツィーもほっと胸を撫で下ろしたものだ。
もちろん二人を追手から逃がしてくれたリジーもおり、以前よりも張り切ってツィツィーの世話を焼いてくれている。
「ならばいい。――それより、だ」
するとガイゼルはツィツィーの手首を掴むと、手のひらを自らの方に向けさせた。そのままぐいと引き寄せたかと思うと、顔をうずめるようにして中央に口づける。突然手のひらにガイゼルの熱い呼気を浴びたツィツィーは、思わず肩を震わせた。
そんな姿を見て、ガイゼルはにやりと口角を上げる。
「二人きりの時は、ガイゼルと呼べと言っただろう」
「す、すみません、ガイゼル様……」
ガイゼルの纏う空気が急に変わったのを察し、ツィツィーの顔は熱くなる。さらに抱き寄せられたかと思うと、ガイゼルの指先が優しく顎に触れた。
「ずっと、会いたかった」
「わ、私も、です……」
「――そうか」
続く言葉を呑み込むように、ガイゼルはツィツィーの唇をふさいだ。ガイゼルの胸に手を置きながら、ツィツィーは必死になって口づけに応じる。やがてはあ、と色を帯びた息を零しながら、ガイゼルは顔を離した。












