第一章 2
「今日は何をしていた」
夕食の席で、長い沈黙を破るようにガイゼルの冷たい声が響く。最近は少し、邸宅に戻る時間が早くなったため、こうして一緒に食事を取る機会にも恵まれるようになった。
「イシリスの言語と歴史、昼からはダンスを習っておりました」
「我が国は多くの属国を抱える国だ。お前もこの国の妃になるのであれば、そのくらいは出来て当然だ」
『まだ気持ちも落ち着かないだろうに、日々研鑽を重ねているだと……なんて良く出来た妻なんだ。健気すぎる。……しかし一度にやるには量が多すぎないか? ランディの奴に任せていては、ツィツィーが体を壊してしまうのでは……』
ふふ、と微笑むツィツィーを、ガイゼルは「ふん」と鼻で笑うように一瞥した。
傍から見れば、威圧的な皇帝と言いなりになる可哀そうな妻、という図式だが、その実態がまるで違うことに、周囲で震える使用人たちは気づいていないだろう。
やがてツィツィーが食事の手を止めると、ガイゼルも合わせてフォークを置いた。控えていた使用人が、すぐに皿を下げに歩み寄る――その時だった。
「――お前」
鋭く飛んだガイゼルの声は、ツィツィーの隣――リジーへと向けられていた。思わずツィツィーは目を丸くする。昼間の出来事が脳裏をかすめた。
(どうして? 彼女のことは私、誰にも言っていないのに)
びくりとリジーが肩を震わせるのを見て、ツィツィーは息を吞む。
「今すぐ下がれ」
「……」
「聞こえなかったのか、下がれ」
「ガ、ガイゼル様! 彼女は別に何も」
「黙れ。下がれと言ったんだ」
思わず割って入ったツィツィーだったが、ガイゼルの返事は冷たいものだった。言われたリジーの顔は可哀そうなほど青ざめており、ツィツィーが言葉を紡ぐ間もなく、奥の間へと下がっていく。
「ガイゼル様、どうしてあんな――」
さすがに酷い、とツィツィーが反論しようとした時、ぶわりとガイゼルの心の声が流れ込んできた。
『――先ほどのメイド、リジーといったか。顔色が悪すぎる。おそらく熱があるのだろう……最近街で悪い風邪が流行っているからな……重症にならなければいいが』
「なんだ。俺の言うことに逆らうのか」
「……いえ、何でも、ありません……」
上げた腰をそろそろと椅子に戻す。先ほどのリジーの様子を思い出して、ツィツィーはそうだったのね、と自身の情けなさをひしひしと感じていた。
(私、全然気づかなかったわ……あんなに近くに居たのに)
髪をひっかけてしまったのも、体調のせいかも知れない。彼女の手も握ったのに、気づいてあげることが出来なかった。
それなのに、ガイゼルは一目見ただけで彼女の様子がおかしいことに気づいたのだ。
(言い方は相変わらずだけれど……それでも私より、ずっと立派だわ……)
ツィツィーは一人、何かを決意したかのように両手を握りしめた。
その夜、部屋を抜け出したツィツィーは使用人たちの宿舎へと向かった。
突然の訪問に使用人たちは驚いた表情を見せたが、ツィツィーの必死な様子にすぐに中へと案内してくれる。
「リジー、具合はどう?」
「こ、皇妃様⁉ どうしてこのようなところに⁉」
ベッドから飛び起きそうな勢いのリジーをとどめさせ、脇にあった椅子にツィツィーは腰かけた。よく見るとリジーの顔は赤く、目も潤んでいる。まだ熱は下がっていないようだ。
「あなた、熱があるでしょう?」
「ど、どうしてそれを⁉」
「陛下が教えてくださったのよ」
正確には心の声を聞いただけなのだが、そこは黙っておくことにする。ツィツィーの言葉に、リジーは驚いたようにぽかんと口を開けていた。
「陛下が、……ですか?」
「ええ。これ、私が熱を出したらよく作ってもらった飲み物なの。蜜と薬草が入っているわ。体が温まるから、少しは違うかと思って」
水筒から注がれたコップを両手で握りしめたまま、リジーは言葉を失っているようだった。やがて艶々とした目から、大粒の涙が零れ始める。
「私、熱があるなんて、言えなくて……体調管理も仕事のうちだって、怒られるかもしれないから、だから何とか治そうと……」
それ以上は声にならなかった。
泣きじゃくるリジーの背中を、ツィツィーはよしよしと撫でる。
(良かった……陛下のおかげで、少しでも助けになれたかもしれないわ)
やがて泣きつかれたリジーは、ツィツィーお手製の薬湯を飲むと、ベッドに横になった。ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も呟く彼女が眠りに落ちるまで、ツィツィーは優しく手を握り続けていたのだった。
リジーの熱が下がった翌日、朝食の席で突然ガイゼルが告げた。
「今日は視察に出る。お前も来い」
「視察、……ですか?」
「ああ」
ツィツィーは思わず首をかしげた。というのも、今までガイゼルの仕事に同行したことはなかったからだ。
(まだ正式なお披露目式が終わっていないから、王宮にも行っていないし……仕事の場に出るなんて大丈夫かしら)
王妃が政治に口を出した結果、傾いた国は歴史上いくつも存在する。そのため、ガイゼルもツィツィーを中枢に近づけることはしないだろう、と勝手に思い込んでいたのだ。
「どちらに行かれるのですか?」
「イシリスだ」
イシリス。
ヴェルシアの北に位置し、風光明媚な景色が有名な国であると、先日家庭教師から教わった。本でしか知らなかった知識を、現実のものとして見ることが出来る、とツィツィーは気持ちを逸らせるが、「行きたいです」という言葉をぐっとこらえる。
「ですが、その……ガイゼル様のお仕事の邪魔になるのではありませんか?」
「お前ひとり増えたところで、何も変わらん」
なんだか複雑な表情を浮かべるガイゼルに、ツィツィーは疑問符を浮かべる。だがいつものように流れてきた心の声に、すべてを理解した。
『――い、一応、新婚旅行代わりなんだが、やはり言い方がまわりくどかったか……だが新婚旅行に行くと言って万一嫌がられたら、俺は三日ほど立ち直れんぞ……。ランディ、こういう時はどう言ったら良かったんだ……』
ツィツィーは思わず吹き出しそうになってしまった。それに気づいたガイゼルは、先ほどより一層険しい顔つきでこちらを睨みつけてくる。使用人たちが真っ青になる一方で、ツィツィーは嬉しそうに「では、ご一緒いたします」と応じた。
朝食を終え、ツィツィーは自室に戻ってすぐに着替えを始めた。
襟と袖に淡い色合いの毛皮をあしらった羊毛の白い外套を羽織り、ズボンは用意がなかったので、出来るだけ動きやすいドレスを探す。
というのも、ツィツィーは最初、馬車で行くと思っていたのだが、イシリスは馬車での移動が難しいらしく、陛下と護衛数人で単騎移動すると言われたためだ。
急いで外に出ると、そこには既に準備を終えたガイゼルが、立派な黒馬に乗って待機していた。見上げるようなその高さにツィツィーが圧倒されていると、慣れた様子でガイゼルが手を伸ばす。
ツィツィーが誘われるようにそれを掴むと、使用人が急いで小さな階段を運んできた。二、三段上り、ガイゼルに引き上げられるように馬上へと腰を据える。
体格のいいガイゼルの腕の中に、すぽりと包まれるように横座りすると、そんなツィツィーの姿にガイゼルが眼を眇めた。
「馬に乗ったことはあるか」
「先生と一緒になら何度か……でもこんなに大きな馬は初めてです」
「落ちないよう、せいぜい必死になっていろ」
ふん、と馬鹿にしたように笑うガイゼルだったが、心の声は相変わらずだ。
『――近くで見るとおそろしく可愛いな……おまけにいい匂いがする……それに軽い。本当に人間か? 天使か妖精じゃないのか? というか、つい俺の馬に乗せてしまったが、嫌じゃなかったか⁉ 落ちないというか、死んでも落とすわけがないが……』
「は、はい!」
心の声の洪水に恥ずかしくなったツィツィーは、半ば断ち切るように返事をした。
それで一旦落ち着いたのか、ガイゼルがゆっくりと馬の腹を蹴る。蹄が軽く音を立て、冷たい風を切って走り始めた。鞍があるとは言え、馬の背は不安定で揺れも大きい。
一瞬大きく左に揺れ、ツィツィーはたまらずガイゼルの胸元を掴んだ。あ、と声をあげた後、失礼ではなかったかと、恐る恐るガイゼルを見る。
すると彼は「軟弱だな」とでも言いたげに眉をあげていた。
普通の貴婦人であれば、勝手な人と怒るかもしれない。だがツィツィーは心の声を聞いて、思わず弛む口元を押さえるのに必死だった。
『ツィツィーが、俺に、抱きつい……⁉ ……いや違う、これは事故だ。うぬぼれるな俺。バランスを崩したから手を伸ばしただけで、そう、俺は壁と一緒だ。それか手すり。階段の。少し速度を出しすぎたか? ……いや、でも、……このままでも別段悪くない。むしろ良い。このままで行きたい』
「何を笑っている」
「な、何でもありません」
「余裕か。ではもう少し飛ばしても大丈夫だな」
そう言うとガイゼルは、踵にある拍車を馬の横腹に押し付け、さらに速度を上げた。