第六章 4(完)
(母上と、同じだ……)
しばらく呆けていたガイゼルに対し、少女はいきなり自身の髪を両手で握り隠した。その行動が理解できなかったガイゼルは、ゆっくりと首を傾げる。
「なんで髪、隠してるの」
「だ、だって、私の髪、お姉さまたちと違って醜いし……」
醜い、という意味が分からなかった。
しなやかな絹糸のような髪。今だって太陽の光を浴びて、艶々とした輝きを放っている。
ましてや母上と同じ銀の色なのに、とガイゼルは少し苛立ったように返してしまった。
「そんなことない。綺麗な髪だ」
言った後でガイゼルは、自分が不機嫌を滲ませてしまったことを後悔した。
だが少女はきょとんと瞬いたまま、ガイゼルの方を見るばかり。ショックを受けている様子はない。その様子に少しばかり安堵したガイゼルは、茂みの一角にへたりこんだ。
迷子になったと気づいてからずっと走り通しだ。
足の裏や膝が痛く、動く気力がなくなっていくのが分かる。疲労困憊していることに気づいたのか、少女はそうっとガイゼルの顔を覗き込んできた。
闖入者を不審がっているのだろう。
「すぐに出て行く。放っておいてくれ」
彼女はこの庭園の主なのだろうか。
ということは王族――そう言えば姉がどうのと言っていた。ラシーの王族は姫ばかりだったはずだから、その誰かかもしれない、とガイゼルはぼんやりと思考を巡らせる。
(姉、か……)
ガイゼルにも兄はいるが、異母兄弟だし、ガイゼルのことを嫌っているのがあからさまだった。
きっと彼女は両親や姉たちにたくさん愛されているのだろうな、と思った瞬間、ガイゼルの心に再び寂寥感が舞い戻る。
(お母様……どうして死んでしまったの……)
それはようやく理解した、ガイゼルの本心だった。
(僕、一人になっちゃったよ……もう誰も、僕を愛していると言ってくれない……)
母がいた時は、『愛している』と抱きしめてくれた。
だが母はもういない。この世界のどこにも。
ガイゼルが強くある理由も、自信も、――すべてなくなってしまった。
心臓の中心に大きな風穴が空いたような、絶望的な気持ち。だがそんな感情に押しつぶされそうになってもなお、ガイゼルの目から涙が零れることはなかった。
その時ようやくガイゼルは、自分が泣かないのではなく――泣けないのだと気づいた。
(僕は、……人らしさすら、捨ててしまったのか……)
そんなガイゼルの隣に、先ほどの少女がしゃがみ込んだ。
泣きもせず、わめきもせず、ただ地面を見つめ続けているガイゼルの姿が、不思議に映ったのだろうか。
ガイゼルが顔を背けようとすると、彼女はぽつりと言葉を零した。
「あ、あの」
「……?」
「私じゃダメかしら」
「……何が」
すると少女は恥ずかしそうに、だが慈愛に満ちた優しい顔つきで答えた。
「私が代わりに、あなたを愛するわ」
「……」
だから泣かないで、と少女はガイゼルを抱きしめた。
あまりのことにガイゼルは、心の中で累積していた言葉すべてが、真っ白になったのが分かる。どうして、と口にしようとして、ガイゼルは声にならないのを悟った。
(――どうして、分かったんだろうか)
涙なんて流していないのに。
僕が悲しんでいることに、どうしてこの子は気づいたんだろうか。
だが力強く抱きしめてくれる少女の体が温かくて、柔らかくて、……あまりに心地よいその腕の中で、ガイゼルは初めて涙を零した。一つ溢れると、堰を切ったようにまた一つ、二つと次々に感情が込み上げてくる。
その日ガイゼルは、初めて人前で泣いた。
情けないことに、自分より年下の女の子の腕の中で、恥ずかしさも忘れて泣き叫んだ。時折呼吸が苦しくなり、しゃくりあげていると、彼女が懸命に背を撫でてくれた。
――どのくらいそうしていただろうか。
涙が枯れ果てるまで泣いたガイゼルは、どうやらその場で眠ってしまったようだった。
目覚めたガイゼルがゆっくりと体を起こすと、抱きしめてくれた少女も疲れてしまったのか、ガイゼルにもたれるようにして、すうすうと静かな寝息を立てている。
(……ずっと、傍にいてくれたのか)
少女を座らせ、自分の着ていた上着をかける。幸せそうに眠り込んでいる少女を見て、ガイゼルはある一つの決意をした。彼女の銀の髪を一房手に取り、祈るように口づける。
(――今度は、僕がこの子を守ろう)
見も知らぬ自分に、温かさをくれた少女。
この恩をいつか返したい。
誰かにいじめられていたら庇おう。
いじめっ子なんて追い返してやろう。
困っていたら助けよう。
何があってもこの子のために戦おう。
泣いていたら抱きしめてあげよう。
今日僕にしてくれたように。
(……だとしたら、きっと今のままじゃだめ、なんだろうな)
ガイゼルの父、ディルフは大陸中の国々と争っている。ラシーは遠く離れた国ではあるけれども、いつ彼の魔の手が伸びるとも分からない。
だが戦争になれば、この子もまたガイゼルのように、母親を亡くしてしまうかも知れない。この子自身も傷ついてしまうかもしれないし、この美しい故郷を奪ってしまうのも嫌だった。
(戦いのない、世界……)
その時のガイゼルはまだ、どうすればそれが出来るのか、すぐに答えは思いつかなかった。
やがて訪れた見張りの兵士によって、ガイゼルは無事に邸に戻ることが出来た。
その後、辺境の公爵邸に移動したガイゼルは、すぐにラシーの王族について調べた。あの時名前を聞かなかったが、噂に聞く容姿によると、どうやら上の姉姫たちではないようだ。
(となるとやはり、ツィツィー……、ツィツィー・ラシーか)
残されたのは末姫と呼ばれる彼女だった。だがどうしたことか、彼女はほとんど社交の場にも出てきたことが無いらしく、幻の姫のような扱いになっていた。
何とかしてもう一度会いたい、と願ったが、ガイゼルも相手も王族である以上、そう簡単に面談の約束など取り付けられるものではない。
仕方なくガイゼルはその時が来るまで、必死に鍛錬を積み続けた。戦術を学び、武芸を極め、立派な青年となるまで地方での暮らしを続けていた。
やがて父王崩御の知らせを受けた数日後、ガイゼルは運命の知らせを耳にする。
(ツィツィー・ラシー……君が、ヴェルシアにいる……!)
そしてガイゼルは剣を持ち、馬を駆って、二人の兄たちがいる戦地へと駆けた。
強くありたいと願った少年は、不器用なまま成長した。
だがいつしかその約束を果たす。
きっと彼女も、忘れているだろう遠い未来で。
(了)












