第六章 3
――ガイゼルの母は優しい人だった。
先帝・ディルフによって滅ぼされた国の姫君で、美しい銀の髪と整った容姿は百合の花を思わせた。
しかし王族として生きるには、身分も心根もあまりに弱く、ガイゼルを産み落とした後は常に寝台に臥せっているような状態だった。
幼いガイゼルもそれを理解しており、普通の子どものように何かを望んだり、願ったりということはしなかった。
「泣かなかったのね。偉いわ、ガイゼル」
喧嘩で傷だらけになって帰って来た日も、剣の練習でこてんぱんにやられた日も、母は笑顔でこう言った。
それを聞くだけでガイゼルは、自らがとても強い心の持ち主のように思えて、誇らしく感じたものだった。
――俺は強い。泣いたりなどしない。何でも自分で出来る。
そうしてガイゼルは末弟という立場ながらも、兄たちを超える勢いで努力を続けた。
特に戦いに関しては元々の才もあったのか、面白いように能力を伸ばしていった。従騎士として入って来たヴァンと知り合ったのもこの頃だ。
だがそんなガイゼルを、兄たちはよく思わなかったのだろう。事あるごとに嫌がらせをされた。
兄たちを支持する貴族やその子弟からもからかわれ、ガイゼルは日に日に王宮内での息苦しさを感じるようになった。
それでも母の元には毎日通った。
ガイゼルが来ると、母はいつも「愛してるわ」と言って抱きしめてくれた。その言葉だけを心のよりどころにして、ガイゼルは一日一日を過ごしていた。
だが冬のある日、母は突然亡くなった。
寒い日が続いていたからだろう、と主治医が言っていたのを、ぼんやりと覚えている。
側室という立場だった母の葬儀は、非常に慎ましいものだった。子がもっと上位の世継ぎであれば、まだ少しは違っただろうに、という心ない言葉もあったが、ガイゼルの耳には何一つ入ってこなかった。
棺桶に入った母を送る間も、送りの言葉を読み上げる時も、ガイゼルは一粒も涙を零さなかった。
それどころか、葬儀の手配や礼節に関することをすべて把握しており、とてもこの年端の少年とは思えないほど、完璧な所作をしてみせたのだ。
(――見たか、第三皇子の顔)
(――冷たい目をしていたわ。悲しくないのかしら)
そんなガイゼルの態度は、大人たちにとって奇怪に映ったのだろう。直接言いはしないものの、彼らはガイゼルのことを「恐ろしい子どもだ」と心の中で揶揄した。
ガイゼルもまた、彼らがどう思っているのかなど、手に取るように理解出来た。
しかし、ガイゼル自身が俯く自分を許さなかった。
(俺は強い。誰に頼らずとも、生きていける)
母が残してくれた言葉だけを胸に、ガイゼルは必死に前を向いた。葬儀が終わり、母の墓標の前で一人になったときでさえ、……ガイゼルは泣かなかった。泣く自分を認められなかったのだ。
母を失ったことで、王宮におけるガイゼルの立場はさらに転落した。
ある時突然、王宮を出て地方の公爵家で暮らせという命令が、ガイゼルの元に下された。おそらく兄たちが、裏で何か手を回していたのだろう。
拒否など出来ない、と理解していたガイゼルは二つ返事で引き受けた。
だが困ったことに、当の公爵家もあまりに急なことで、準備が間に合わないという話になり、ガイゼルは一時期行き場を無くしてしまったのだ。
そこでガイゼルは、公爵家の用意が出来るのを待つ間、幼馴染であるヴァンの伝手をたどって、南国のラシーという国に身を寄せることになった。
長い行程を終えてようやくたどり着いたラシーは、常に寒さと戦っているヴェルシアとは真逆で、年中真夏のような湿気と温かさのある国だった。
人々は皆、燃えるような赤い髪をしており、様々な髪色の人がいるヴェルシアと比べると、とても不思議な光景であったのを覚えている。
ガイゼルはヴァンの親戚邸に世話になっていたが、一応は皇子という身分があるガイゼルの扱いを、どうしたものかと惑っているのがあからさまだった。
またガイゼルが年相応でない――驚くほど冷静で、落ち着いた子どもだったこともあって、周囲に住む子どもたちや使用人たちからも距離を置かれるようになった。
もちろん置いてもらっている、という自覚はあったので、ガイゼルもそれを不快だと顔に表したりはしなかった。
だが居心地の悪さは積もっていき、ある時たまりかねたガイゼルは、こっそりと邸を抜け出したのだ。
(夕方までに戻れば、大丈夫だろう……)
そうして一人で街に下りたガイゼルは、珍しい異国の地を見て回った。
鮮烈な色合いの果実や、見たこともない魚が並ぶ市場。活気にあふれた港。通りの遥か向こうにはラシーの王宮があるらしく、二対の巨大な塔も見える。
複雑な刺繍の衣装や、交わされるラシーの言葉が珍しく、ガイゼルは時間を忘れて散策していた。ようやく得られた自由と開放感を前に、少しばかり油断をしていたのは間違いない。
はた、と気づいた時には、ガイゼルは自分が来た道を完全に見失っていた。
きょろきょろと辺りを見回すが、人が多すぎて上手く方角を特定出来ない。ガイゼルはぞくりとした不安に襲われた。
(どうしよう……)
恐怖を誤魔化すように走り出したものの、どの道も同じように見えて、戻るべき順路が分からない。かといってここでじっとしてしても、誰も助けに来てはくれない。
何かないか、とガイゼルは必死に頭を巡らせる。
そこで一つの塔壁に目を奪われた。王宮の左右にあった塔。あの根本まで行って、そこから続く通りをまっすぐ帰れば……。
(――行こう、ここにいてもダメだ)
ガイゼルはすぐに行動を開始した。
度々空を仰ぎながら、堂々とそびえたつ塔の下を目指す。意外に距離はなかったのか、ガイゼルが少し走ったあたりで、塔に繋がる細い道に出ることが出来た。
「通りは……見えないな。もっと真ん中に行かないとダメか……」
王宮が近いというのに、塔の近くにはほとんど人がいなかった。鬱蒼とした雑木林を、木の枝に引っかかれながら前に進む。邸を抜け出してからどのくらい経っただろうか。
ガイゼルはからからの喉で嚥下しながら、必死に自身の恐怖心を抑えていた。
(もしも、戻れなかったら……)
異国の地で、たった一人。
このまま、誰にも見つけて貰えなかったら――僕はどうなってしまうのだろう。
(そうか、僕は……ひとりなんだ)
ひゅー、ひゅー、と乾いた息が漏れる。視界が汗で滲む。強い心を持つと誓ったガイゼルは――今ようやく、自分が一人きりであることを知った。
母はもういない。父は自分のことなど見てもいない。
兄たちはガイゼルを邪魔ものとしか見ない。
誰も、いない。僕は、たったの――。
やがて暗がりの道が終わり、どこかの庭園へとガイゼルは迷い込んだ。王宮の周囲にあるわりにはいささか貧相で、護衛らしき兵士の姿も見当たらない。
本当にこのまま、誰にも見つけられず死んでしまうのか、と戦慄していたガイゼルの前に、がさり、と葉の揺れる影が見えた。
「……?」
奥から現れたのは、一人の女の子だった。
年はガイゼルより少し下だろう。大きな青い目がくりくりと可愛らしく、今は突然現れたガイゼルに驚いているのか、真ん丸に見開かれている。
何より印象的だったのはその髪――ラシーでは見たことのない、楚々とした銀色だったことだ。












