第六章 2
「それは、――貴女です。ツィツィー様」
「……私?」
「貴女がこちらに輿入れをしたのは、元々はディルフ様の側室にという話でした。ですが婚礼がなされる前に、先代皇帝は亡くなられてしまった。その時王宮内では、貴女の処遇をどうするかで、少々論議があったそうです」
そのことはツィツィーも少し耳にしたことがあった。
本来であれば母国に戻されそうなものだが、何故かラシー側から拒否をされたそうだ。――それはおそらく、人質として差し出した娘には、本来の意義を達成してもらわねば、という父王の意図が多分に絡んでいたのだろう。
だが相手となるはずであったディルフ陛下はとうにおられない。つまりツィツィーはどちらにも行くことが出来ない、ヴェルシアにもラシーにも居場所がない状態であった、という話だ。
「とりあえず一時的に貴女の身分を預かり、次期皇帝にお伺いを立てるという案にまとまりました。新しい陛下が貴女を望めば、側室として受け入れると。……ガイゼル陛下が継承権争いに参加されたのは、その翌日のことでした」
次第に話の終着点が見えてきたツィツィーは、少しだけ顔を赤らめた。それを横目にヴァンは、にやにやと口元を綻ばせている。
「ですが、次期皇帝になったガイゼル様が、貴女を『第一皇妃』に据えると言い出したときは、さすがに王宮内に激震が走りましたね」
「や、やっぱり」
「第一皇妃と言えば、……まあその、政治的な絡みもあって、ヴェルシアに比肩する相手であることが理想です。ですがガイゼル様はその慣例を無視して、望み通り貴女を皇妃に娶りました」
す、すみません……と何故かツィツィーは謝ってしまった。だが縮こまるツィツィーに対し、ヴァンは何かを思い出しているかのように目を眇めると、いえいえと首を振る。
「思えばあの陛下が、自分から何かを強く望んだのは、あれが初めてでした。――だから俺としては、とても嬉しかったんです」
まあ、一体どれだけ貴女を自分の妻にしたかったんだって話ですけどね、とヴァンは締めくくると、最後に「内緒ですよ」とウインクして見せた。
「陛下は、素直に自分の気持ちを口にする人ではありませんが、本当はすごく優しくていい方なんです。だからこれからも――よろしくお願いしますね」
「――どうした?」
ガイゼルに呼ばれ、ツィツィーは追憶から意識を取り戻した。
「い、いえ、何でもありません」
ツィツィーはごまかすように笑うと、改めて湖の前に足を進めた。
よく晴れた、春の穏やかな日差し。
ざあ、と漣を生む風が、ツィツィーの銀の髪と共に、足元に広がる花々を揺らす。赤に橙、黄色に紫――それらを包む、眩しいほどの新緑。ざわりと波立つその景色は、あらゆる色彩を集めた広大な海原のようだった。
――一度来てみたい、と願った春のイシリス。
その光景が今、目の前に広がっている。
感極まったツィツィーが、ゆっくりとガイゼルを振り返った。すると彼もまたツィツィーの方を見つめており、視線の合った二人は自然と微笑みを浮かべる。
その直後、ガイゼルは何かを思い出したかのように口を開いた。
「――そうだ」
「……?」
ガイゼルはツィツィーの隣に歩み寄ると、彼女の腰に手を添え強く抱き寄せた。突然の抱擁に驚くツィツィーをよそに、ガイゼルは至極真面目な顔つきで呟く。
「お前に言いたいことがある」
「な、なんでしょうか⁉」
「…… その、」
途端にガイゼルは、ゼンマイの切れた玩具のように動きを止めた。ツィツィーが困惑していると、久方ぶりの心の声がはっきりと流れ込んで来る。
『くっ……いざ構えると言葉に詰まる……。以前に言ったこともあるが、あれは場の勢いというか、ああ言わねばツィツィーに伝わらないと思ったわけで……』
(な、何⁉ 私は何を言われようとしているの⁉)
何だろう。まさか離婚でも宣告されるのか。
次第にガイゼルの眉間には縦皺が寄り始め、険しい顔つきになっていく様を、ツィツィーははらはらと見守る。
やがて意を決したのか、ガイゼルははあーと長く息を吐きだすと、妙に凄みのある低い声で、短く区切るようにして告げた。
「俺は」
「は、はい」
「お前を」
「……」
「――愛している」
静かに、だがはっきりと言い切ったガイゼルは、しばらくして目を伏せたかと思うと、ゆっくりと自身の口元を手で覆い隠した。
見る間にガイゼルの首から額までが赤く染まっていき、わずかに見える外耳まで茹で上げられている。
その一連の流れを特等席で眺めていたツィツィーは、しばらくぽかんと口を開けていたものの、一拍遅れてこちらもぶわわと頬に朱を走らせた。
(心の声じゃ、ない。陛下が、わたしに……)
どうしたら、と戸惑っていたツィツィーだったが、ひとりでに走り出しそうな心臓を必死に落ち着けると、ガイゼルを見上げて真っ直ぐに答えた。
「私も、です」
「……」
「ガイゼル様を、愛し――」
だがその先の言葉は、再びガイゼルに抱きしめられることで行き場を失った。照れている顔を見せたくないのか、先ほどよりも強く腕の中に閉じ込める。
「返事はいい。二度は言わん」
「で、でも」
何とか声にしようとツィツィーも必死になるが、やがて聞こえてきた流暢な心の声に、思わず口をつぐんだ。
『だ、だめだ! 無理だ! ツィツィーから、あ、愛して、なんて言われるなんて、……悪いが心臓が持たん。も、もう少し、落ち着いてからにしてほしい……!』
(そ、そんなのって……⁉)
やり場のない気持ちをどうすればいいのか、とツィツィーは心の中で小さく悲鳴をあげた。言葉がだめなら態度で、といわんばかりに、彼の広い背中に腕を回す。
ガイゼルもツィツィーの意図に気づいたのか、隙間一つ残したくない、と体現するかのように彼女の体を引き寄せた。擦れ合う布越しに互いの体温を確認した後、ガイゼルはツィツィーの顎に手で持ち上げると、覆いかぶさるように口づけを落とす。
何度か角度を変え、二人は惜しむように呼気を漏らす。永遠にも思える時間が過ぎた後――ようやくガイゼルはツィツィーの唇を解放した。
恥ずかしさと酸素不足で耳まで真っ赤になっているツィツィーを見て、ガイゼルはふは、と吹き出す。そんなガイゼルに対し、頬を膨らませていたツィツィーだったが、やがて彼女もまたつられたように笑い始めた。
凍てつくような白い雪に閉ざされていた世界に、
――やっと、春が訪れた。












