第六章 陛下、本音がだだ漏れです。
ヴェルシアに、ようやく春が訪れた。
凍てつくような雪は次第に溶けだし、澄んだ清流となって森に流れ込む。息を潜めていた動物たちは目を覚まし、植物たちも緑の小さな新芽を芽吹かせていた。
そんな瑞々しさにあふれた草原を、一頭の黒い馬がゆっくりと歩いている。
乗っているのはツィツィーとガイゼルだ。
「疲れていないか?」
「はい、大丈夫です」
頬を撫でる暖かい風と、規則的な馬上の動きに少し微睡んでいたツィツィーは、ガイゼルの声に慌てて顔を上げた。背後からくす、と堪えるような笑いが続く。
「急ぐ旅じゃないからな。少し休むか」
そう言うとガイゼルは、手綱を引いて黒馬の脚を止めた。手近な木に括りつけると、鞍の上にいるツィツィーを、抱きとめるようにして地面へと下ろす。
長い時間揺られていたためか、体がふらついてしまうツィツィーを、ガイゼルはさりげなくフォローした。
「あと、どのくらいかかるでしょうか?」
「夜には集落に着くと思うが……またあの家を、使わせてもらえるかは分からんな」
「出来たらちょっと、ゆっくりしたいですね」
ガイゼルも同意見だったらしく、そうだな、と穏やかな笑みと共に答える。二人が向かっているのは、イシリスの北にある小さな集落。
かつての騎士団長、ディータ・セルバンテスに会いに行くところだ。
イエンツィエ侵略事件の後、王佐ルクセンは外患誘致の罪で捕らえられた。
ヴェルシアの軍備、城壁内の構造、騎士団の内情などを横流ししていたらしく、この戦乱によってヴェルシアが滅びた場合、イエンツィエの高等市民として受け入れてもらう契約を交わしていたらしい。
ヴェルシアには隣国へ攻撃を仕掛ける口実を、イエンツィエには味方のふりをと、どちらの国が勝っても、ルクセンにとってはありがたい状態だったという訳だ。
そして先代派の中心となっていたルクセンを失ったことで、王宮内における勢力図は一変した。
特に地方の公爵家や伯爵家、また騎士団に属する貴族たちが、一斉にガイゼル派へと様変わりしたのである。
一方当のガイゼルも、今までの非礼な行動を詫び、臣下たちから広く意見を集めるようになった。また彼の望む内政や外交、将来像などを文書や図などで明確にし、派閥を問わず根気よく説明して歩いているのだという。
そこには、かつて一人で戦っていた孤独なガイゼルの姿はなかった。もちろん、先代のディルフ王と比較して『弱腰な外交』と揶揄する貴族もいたが、ガイゼルは一切気にしていないようだ。
あまりの変わり身に、どうしたのかとツィツィーが尋ねたところ、イシリスでの集落生活が堪えた、とガイゼルは苦笑していた。
「冬の山は、一人では何も出来ない。足跡を探して、回り込んで、罠を張って……俺は今までずっと、一人でした方が何でも上手く出来ると思い込んでいた。だが絶対に一人では出来ないこともあると、あの時に思い知らされたんだ」
ガイゼルの様変わりもあり、ヴェルシアはまた少しずつ、新しい国としての形を模索しているようだった。
そんな中、かの戦いで頼もしい力を発揮してくれたディータ・セルバンテスに、何とかもう一度ヴェルシアに戻って来てもらえないか、という話になった。
だが騎士団の面々は、辞める時も散々頭を下げたが、彼の意思を変えることは出来なかった、と話しており、全員が頭を抱えていたところで、ガイゼルが「ならば自分が」と手を上げたのだという。
どこかで休憩を取ろうと歩いていた二人は、美しい湖畔へとたどり着いた。かつて新婚旅行の一環で訪れたナガマ湖だ。
「懐かしいですね」
「ああ」
遠くに見えていた雪山は深緑に変化し、湖も深い青色で満たされている。足元には色鮮やかな花々が一面に咲き誇り、まるで二人の再訪を祝福しているかのようだった。
ツィツィーはそっと左手を持ち上げると、薬指に輝く宝石を眺める。キラキラと薄緑に輝くそれを見て、ツィツィーは半年前の自分を思い出していた。
(短い間なのに、いろいろなことがあったわ……)
別荘のバルコニーで指輪をもらったこと、お披露目式の帰り道、自分のふがいなさに落ち込んだこと。一度はガイゼルと別れ、逃げたツィツィーをラシーまで取り戻しに来てくれたこともある。
そのどれもが、今となっては大切な思い出だ。
「ガイゼル様、……ありがとうございます」
「突然何の話だ」
「その、いろいろです!」
えへへと笑うツィツィーに、ガイゼルは不思議そうに首を傾げた。その様子を見ながら、ツィツィーはやっぱり、と胸の奥で呟く。
(心の声が少しずつ、聞こえなくなっている気がする……)
出会った当初、煩いほど聞こえていたガイゼルの心の声が、――少しずつ響かなくなっている、とツィツィーは感じていた。
もちろん能力自体が衰えていることもあるが、何よりガイゼル自身が、心で思ったことをきちんと言葉にするようになったからではないか、とツィツィーは推測している。
結婚直後はガイゼルもツィツィーも、素直な気持ちをぶつけることが出来なかった。だが二人の心が通い合い、溜め込んでいる思いがなくなった今、前ほど発露する必要がなくなったのだろう。
このままいつの日か――完全に心の声は聞こえなくなってしまうのかもしれない。
(でも私はもう、大丈夫……)
柔らかい花の香りを楽しみながら、ツィツィーはふと、ヴァンが教えてくれた昔話を思い出していた。
――ガイゼル様には秘密ですよ、と何度も念を押しながら、嬉しそうにヴァンは語る。
「実はガイゼル様は、元々皇帝の座には興味がなかったんです」
「そうなんですか?」
「上には二人の兄君がいらしたので。ただこの二人の仲がとても悪くて、いよいよ戦争がという状況にまでなったそうです。そこで急にガイゼル陛下が参戦したかと思うと、単騎で双方の陣営を叩き潰してしまったんだそうです」
「ひ、一人でですか⁉」
「まあ、大した兵数ではなかったんですが。ですが陛下の鬼気迫る迫力に、兄君たちはすっかり参ってしまったらしくて、そのまま二人とも継承権を辞退してしまったんですよ」
すごすぎる、とツィツィーは絶句した。
「だ、だから、お兄様たちを殺して皇帝になった、なんて噂が流れていたのですね……」
「僻地に隠居なされただけなので、亡くなってはいませんけどね。……でも、俺もどうして陛下が急にやる気になったのか、ずっと疑問だったんです」
「お兄様たちにこの国を任せておけない、とかでしょうか?」
「陛下がそんな優しいことを思うはずがありませんよ。――ただ、ですね。最近ようやく思い出したんです。あの頃陛下の心を動かす、何があったかを」
あの『氷の皇帝』ガイゼルの心を動かす何か。
一体どんな重大な秘密が、とツィツィーははやる気持ちを押さえながら、ヴァンの言葉を待つ。












