第一章 新婚生活は波乱万丈です。
ツィツィーがヴェルシアに輿入れしてから一か月が経った。
「おい」
「はい、なんでしょうガイゼル様」
「余計なことはしていないだろうな」
ずらりと壁際に並んでいた使用人たちが、わずかに表情を陰らせた。
長いテーブルの端に座るツィツィーは、反対側に座すガイゼルの言葉に首をかしげる。彼の手にはコーヒーカップが握られており、伏し目がちにこちらを睨む視線は、相変わらず鋭く険しい。
だが少し遅れて聞こえてくる心の声はいつも通りだ。
『――何か至らない所はないだろうか。不便はさせないよう指示したつもりだったが、ラシーとは色々と勝手も違うことだろう。余計なことはさせず、しばらくはやりたいことだけをさせてやりたいんだが……』
「は、はい! 大丈夫です」
一瞬、国に対する反逆などを疑われているのかと焦ったツィツィーだったが、心の声を聞く限り、ただ言葉の選び方が極端すぎるだけのようだ。ツィツィーが笑顔で答えると、ガイゼルは短く「ならばいい」とだけ告げて再度カップを傾けていた。
朝食を終え、いつものようにガイゼルを見送りに玄関ホールへと向かう。
着丈の長い外套を羽織るガイゼルの姿は実に優美で、『氷の皇帝』としてふさわしい出で立ちをしていた。高い襟につけられた獣毛の装飾に、防寒を考慮した編み上げの革ブーツ。外套から伸びる両足は長く、その腰には銀の装飾が施された長剣を佩いている。
「なんだ」
「あ、その、よくお似合いだなあと」
「……くだらん」
『――やめろ、やめてくれ、出がけにそんなことをお前に言われたら、俺はどうしたらいい。可愛さで憤死するしかないだろ? もう今日はこのまま休みにしていいか? よく考えたら新婚旅行にも行けていないし、このまま行ってもいいんじゃないか? そうと決まればランディの奴に伝令を……』
「す、すみませんでした! お仕事頑張ってください!」
ツィツィーは慌てて心の声を遮った。
皇帝が突然休むなんてことになれば、そのランディという人にも迷惑をかけてしまうだろう。自分の一言のせいでそんなことになっては大変、とツィツィーは必死にガイゼルを送り出そうとする。
一方ガイゼルはと言えば、眉間に深い深い縦皺を刻んでいたかと思うと、苦虫をかみつぶしたような表情でようやく玄関の方を振り返った。
はたから見れば、ツィツィーの一言によって機嫌を損ねたガイゼル、としか見えなかったかもしれない。……実際は激しい心の葛藤によるものなのだが。
良かった、とツィツィーが安堵していると、何故かガイゼルは再びこちらを振り向いた。ツィツィーの顔をじっと凝視すると、わずかに口を開く。
「……ツ、……」
「はい?」
「……行ってくる」
何かを言いかけたと思えば、ガイゼルはすぐに身を翻して出て行ってしまった。だが玄関の扉が閉まる一瞬、しょんぼりとしたガイゼルの心の声がツィツィーのもとに残滓のように届く。
『だめだ、呼べない……もう一か月にもなるというのに……。どうしてツィツィー、と。たったそれだけなのに、どうして俺は呼べないんだ……情けない……』
その言葉に、ツィツィーはようやく合点がいったように目を見開いた。
(そういえば、まだ名前を呼ばれたことはなかったわ……)
先ほどの様子を思い出し、ガイゼルに自身の名を呼ばれる場面を想像してみる。笑って言うのか、それともいつものように少し怒った顔なのか。いずれにせよ、彼の口からツィツィー、と零れる様が何故か気恥ずかしく、ツィツィーは一人頬を赤くした。
ガイゼルを送り出した後は、いつものように勉強漬けだ。
ヴェルシアは多くの属国を有するため、各地の言語の習得が必須とされる。また皇妃ともなればこの国の歴史、文化、礼儀作法など学ぶべきことは枚挙にいとまがない。
午後のダンスレッスンを終えたツィツィーは、流れ出る汗を拭いながら結んでいた髪を解いた。
(……さすがに、ずっと同じ姿勢を続けていると大変ね)
ツィツィーも小国ながら王族ではあったので、一通りダンスの形は学んでいる。だが今後社交界に出る時は『第一皇妃』という立場がある。皇帝陛下とともに舞うのに、あまり無様な姿は見せられない。
ドレスの着替えを手伝われ、そのまま鏡台へと導かれる。下ろした髪をメイドが丁寧に櫛る様をツィツィーは何とはなしに見ていた――が、途中で髪にひっかかったのか、くいと引かれる感触がある。
「も、もうしわけございません!」
同時に、もの凄い勢いでメイドが頭を下げた。年の若い彼女はたしかリジーと名乗っていたはずだ、とその狼狽に少々驚きながら、ツィツィーは微笑んで首を振る。
「リジー、大丈夫です。痛くなかったですし、よく絡まるんです。ごめんなさい」
「皇妃様が謝られることなんてありません! どうしましょう、御髪に傷がついていたら、私……!」
「このくらい平気です。そ、そんなに怯えなくても……」
「いいえ! 絶対に陛下に……ああ、私、……どうしたら……」
尋常ではないリジーの様子に、ツィツィーはさらに困惑した。まるで大罪を犯したかのように蒼白になる彼女を見て、少しだけ逡巡する。しかし取り乱すリジーを落ち着ける方が重要だ、とそっと目を瞑った。
(……ごめんなさい、少しだけ)
ツィツィーはリジーの心の声を探るように、軽く左手を上げた。気づかれないくらいわずかに、指を曲げて微調整していく。するとある一点で、微かにだが彼女の心の声が聞こえて来た。『受心』成功だ。
『皇妃様には絶対失礼の無いよう、陛下からきつく言い渡されていたのに……! ごめんなさい、お父様、お母様、私家に帰れないかもしれません……一体どんな罰を与えられるか……』
その震えるような声色で、ツィツィーは納得した。すぐに手を下ろすと、振り返ってほとんど泣き顔になっているリジーの手を握りしめる。
「大丈夫。陛下には何も言いませんから」
「……! で、でも」
「こんなことくらいで怒ったりしないわ、きっと」
だが彼女の震えは収まらない。気のせいか、手もひどく熱くなっている。
「……そんなに、陛下のことが怖い?」
「……」
「ごめんなさい、そんなこと答えられないわよね……」
どうにかリジーの気持ちを楽にしてあげたい、と苦慮したツィツィーだったが、やはり癒すことは出来ないようだ。仕方なく「本当に大丈夫ですから」と慰め、他の使用人に彼女を任せた。
改めて髪を結い直してもらい、鏡に映る自身の姿を見つめる。
(ガイゼル様は、本邸でも恐れられているのね……)
氷の皇帝、と呼ばれるだけあって、ガイゼルにまつわる逸話は恐ろしいものが多い。
一晩で何千もの兵士を屠っただの、飛んでくる無数の矢を剣一本で叩き落しただの、ツィツィーも実際に会うまでは悪鬼羅刹のような存在かと思っていたものだ。
だが彼の心の声を聞く限り、どうしてもそのイメージと合致しない。確かに普段の表情も口調も厳しいことが多いが、ツィツィーは彼の本心も同時に聞こえるため、それほど恐怖を感じないのもあるだろう。
(ガイゼル様は、きっと噂ほど悪い方ではないと思うのだけど……)
しかしツィツィーがどれほど説明したところで、信じてもらえるはずがない。しかもその根拠が『心の声が優しいから』だなんて。
どうしたものか、とツィツィーは一人ため息を零した。