第四章 3
さらに二週間ほどが経ち、イシリスの冬は一層の厳しさを見せ始めた。
ガイゼルは元々、剣も弓も一流の腕だったということもあり、狩り手として非常に重宝されるようになっていた。年頃の近い若者たちとも上手くやっているらしく、とても『氷の皇帝』として恐れられていた面影はない。
一方のツィツィーも、最初の頃は不器用だとよく怒られていたが、今日ようやく、アンリから「すごく可愛い! ツィータ、一杯練習していたもんね」と作った細工を褒められるまでの成長を見せていた。
本当に少しずつではあるが、集落の人と馴染むことが出来ている。それを実感し始めたツィツィーは、今日も狩猟に出ているガイゼルの帰りを嬉しそうに待っていた。
「――ただいま」
「おかえりなさい!」
このやり取りも慣れたもので、ガイゼルは最近、少しずつ笑顔を見せるようになっていた。
相変わらず口数が多いわけではないが、今日はどこに行っただの、そろそろ何が採れるだのを、言葉少なにツィツィーに話してくれる。
最初はやむにやまれぬと思って始めた生活だったが、王宮で暮らしていた時よりも、本当のガイゼルと触れ合えている気がして、ツィツィーは幸せを感じるようになっていた。
それはガイゼルの方も同じだったらしく、夕飯を終えた後、二人並んでソファに座っていたところ、彼がぽつりと零した。
「なあ、ツィツィー」
「はい?」
「お前さえよければ、だが……このままここで暮らすのも、良いかもしれないな」
隣にいたツィツィーは編み物の手を止めて、ガイゼルを見つめた。照れているのか、暖炉の明かりが反射しているのか分からないが、顔が赤く見えるのは気のせいだろうか。
「実は私も、……そう思っていました」
ツィツィーの返事に、ガイゼルはわずかに目を見開くと、声なく微笑んだ。
このまま二人で。
皇帝と皇妃の座を捨てて、ただの男女として生きていく。
それは――とても幸せなことに思えた。
やがてガイゼルの手が、ツィツィーの指を握りしめる。
そのまま顔が近づいてきたかと思うと、そっと唇が押し付けられた。一瞬のことだったのか、とても長い間だったのか。
ツィツィーが息継ぎを求めて、はふ、と口を開くと、ガイゼルはさらに顔を傾けて、深く二度目の口づけをする。
(……!)
初めてのことに驚くツィツィーをよそに、ガイゼルは手をツィツィーの頬に添えた。触れられた指先が熱くて、ぞわりと体の芯に火がともる。
ガイゼルの右手はするするとツィツィーの首筋を滑り落ち、肩から胸、腰までの輪郭を確かめるように撫でる。
(ど、どうしよう、やっぱり、……⁉)
怯んだツィツィーが思わず身を引くと、逃がさないとばかりにガイゼルがのしかかってくる。
ようやく離れた唇から、欲を孕んだ吐息が零れ、ガイゼルのだだ漏れる色気にツィツィーはこくりと息を吞み込んだ。
ぱちり、と暖炉の薪が爆ぜる。
気づくとツィツィーはガイゼルに組み敷かれており、彼のさらさらとした黒髪が、ツィツィーの鎖骨をくすぐった。
三度目のキスは首筋に下りてくる。湿り気を帯びた、自分と明らかに違う体温が触れることに、ツィツィーは動揺を隠せない。
れろ、と名残惜しそうに舌で肌を舐めとると、ガイゼルはようやく顔をあげ、上体を起こした。わずらわしさを取り払うように、落ちてきた前髪を乱雑にかき上げる。
わずかな灯りを背で受けながら、逆光で佇む麗しの美貌。暗い海を思わせる青い瞳は、今はツィツィーだけを愛しそうに見つめていた。
「……ツィツィー」
(ひ、ひゃーー!)
今までとは違った意味で、ツィツィーはガイゼルが怖く見える。再び乞われた四度目の口づけに必死になって応じながら、これからどうすれはいいのか、と混乱していると――突如玄関の扉を叩く音が荒々しく響いた。
途端にぴたり、とガイゼルの手が止まる。
しずしずと離れた顔をツィツィーが覗き見ると、ひどく不機嫌そうだった。
「……客だな」
『……なんで今なんだ……』
「は、はい!」
久々に聞こえてきたガイゼルの心の声から逃れるように、ツィツィーは服を整えると、急いで土間へと下りた。
扉を開けるとそこにはディータがおり、肩で息をしながら早口で尋ねてくる。
「――アンリは来てないか」
「アンリちゃんですか? いえ、特には……」
「……そうか」
「何があった?」
ディータの尋常ではない様子に、ガイゼルもツィツィーの背後から会話に加わる。
「……家に戻っていない。後は山に入ったとしか……」
「俺も手伝おう」
素早く防寒具を纏うガイゼルに続き、ツィツィーも慌てて外套を着込んだ。二人が外に出ると、集落の広場には既に村の男たちが集まっており、地図を片手にあちこちを仰ぎ見ている。
「手分けをして探した方がいい。三手に分かれて行動しよう」
普段なら指揮を執るはずのディータが焦燥しきっているため、代わりにガイゼルが提案した。
地図を指さしながら、ここの谷と、崖に気を付けるように、と的確に指示を飛ばしていく。その手際の良さに、ガイゼルがかつて『戦の天才』と言われていたことを、ツィツィーは思い出した。
(このあたりの地形が、全て頭に入っているんだわ……)
ガイゼルの指示を聞いた男たちも、似たような印象を抱いたらしく、皆彼の言葉を真剣に受け止めていた。やがて二つの隊が旅立った後、ガイゼルは残りの一隊を従えたまま、ツィツィーに告げる。
「お前は戻っていろ。危険だ」
「はい。分かりまし――」
た、と言いかけたツィツィーだったが、その瞬間目を見開いた。慌てて手を耳に当てる姿に、ガイゼルが驚いたように声をかける。
「どうした?」
「いま、……声が……」
ツィツィーはさらに意識を集中させた。同じようにガイゼルや他の男たちも耳をそばだてるが、吹雪にも近い風の音が響くばかりで、人の声かどうかすら判別できない。
「気のせいじゃないのか」
「……いえ、……でも、たしかに……」
そこでツィツィーはようやく、それが心の声だと気づいた。アンリの声であるかは自信がないが、確かに助けを求めている。
(どうしよう、事情を言ってみようかしら……でも、もし違ったら……)
だがツィツィーは、浮かんできた迷いを断ち切るように、自分の頬を両手で叩いた。悩んでいる時間はない。
「――お願いです。私の行くところに付いてきてください」
「何を……」
「お願いします! 時間が無いんです!」
珍しく取り乱すツィツィーの様子に、ガイゼルも普段とは違うものを感じ取ったようだった。他の男たちには予定通りルート捜索に行くよう指示を出し、ツィツィーが指し示す方角へと二人だけで向かっていく。
膝下まで積もった雪を踏みしめながら、ツィツィーは必死に聴力を集中させた。
(……また聞こえなくなった。一体どこなの……)
吹きすさぶ強風の合間から、ツィツィーは懸命にアンリの心の声を聞き取ろうとする。だが天候のせいもあるのか、聞こえたと思ってもすぐに豪雪の音でかき消されてしまう。
何とか受心出来ないか、とツィツィーがしきりに腕を伸ばしたり、足を延ばしたりしていると、その珍妙な恰好を見たガイゼルが、不思議そうに眉を寄せていた。
「ツィツィー?」
「す、すみません! 見なかったことにしてください!」
人命がかかっている。
恥ずかしがっている暇はない。
ツィツィーが再度大きく手を振り上げると、突風に煽られて、大きく後ろによろめいてしまった。するとその一瞬だけ、アンリの声が鮮明になった気がするではないか。
距離が近づいてきた⁉ とツィツィーが勢いよく振り返るも、背後にいるのは奇妙な行動を取るツィツィーを訝しんでいるガイゼルだけで、あとは一面の雪景色だ。
だがすぐに、アンリの心の声が波のように押し寄せてくる。
『さむ……い……』
(やっぱり、このあたりに何かある!)
ツィツィーはわずかな音も聞き漏らさないよう、さらに神経を集中した。頭の芯がぐらぐらするような痺れと吐き気を覚えたが、今はその不調を気にしている時間すら惜しい。
もっと近くに、とツィツィーがガイゼルのいる方向に足を進めると、進路を空けるようにガイゼルが道を譲った。
すると不思議なことに、先ほどまで流れていた心の声がぴたりと聞こえなくなるではないか。
「あっだめです! 陛下はそこに立っていてください!」
突然のツィツィーからの命令に、ガイゼルはびくりと肩を震わせた。言われた通りガイゼルが元の位置に戻ると、再び心の声がツィツィーの元に届き始める。
『たす……け……』
どうやらガイゼルの存在が、ツィツィーの受心に影響を及ぼしているようだ。しかし反応はあれども、はっきりとした方角と距離が分からない。
ツィツィーはガイゼルの目の前で、何とか心の声をキャッチしようと、繰り返し何度も腕を伸ばす。一方のガイゼルは、何が何だか分からないまま、極寒の雪原で踊るツィツィーを、吹雪から守ることしか出来ない。
はたから見れば、なんと奇妙な光景だろうか。
(もう少しなのに……どうしたら……!)