第四章 2
「ツィータとゼルは、どっちが先に好きになったのー?」
無邪気なアンリの発言に、ツィツィーは動かしていた手をぴたりと止めた。するとその反応が面白かったのか、周りで作業していた女たちも会話に参加してくる。
「それちょっと気になってた! ゼルさんくらい良い男ってそうそういないよね? 一体どこで知り合ったの?」
「やっぱりヴェルシアの王都? こんな村じゃ、みんな小さい頃からの顔なじみだから、今更ーって感じなんだよねえ」
「ええと、それは……」
どうやらイシリスでも端の方となると、王都の情報はあまり入ってこないようだ。ガイゼルが即位して一年程度という理由もあるだろう。
皇帝だとばれていないのは助かったが、この質問にどう返せばいいのか、とツィツィーは思い悩む。
「ねー、どっちー?」
「わ、私から……でしょうか……」
最初はただの怖い皇帝だと思っていた。だが表情と本音が違うことを知り、先代からの重責に屈しまいと、一人で頑張っている姿を見た。
争いを行わずとも、国を治めていけるのだと。その姿にツィツィーは惹かれたのだ。
(あれ、でも確か陛下は小さい頃の私に会って、それからと……)
となると、ツィツィーよりもガイゼルの方が先に好きになったということになる。だが二人がラシーで出会ったのは十年も前のことだ。……まさかその間もずっと、好意を持ち続けてくれていたのだろうか。
ツィツィーの顔が徐々にのぼせていくのを、女たちはどこか温かい目で見守っていた。その一方で既婚者たちは「あたしにもあんな時代があったねえ」と豪快に笑っている。
すると女性の一人が、あーあと肩を落とした。
「いーなあ。わたしもゼルさんみたいな旦那ほしい!」
「あんたじゃ無理でしょ。ツィータくらいおしとやかじゃないと」
「そんなことない! 女だって強気にいかなきゃ!」
そう言うと女性は、強く拳を握りしめてツィツィーに向き合った。
「ツィータも、受け身ばかりじゃだめだよ!」
「う、受け身、ですか?」
「そう! じゃないと飽きられちゃうんだから!」
「そういうとこが無理なのよ!」
ごめんなさいね、気にしないでともう一人の女性が微笑みながら制する。ツィツィーも最初はあっけに取られていたが、手が止まっているよ、というリーダーの声に皆せっせと作業を再開するのであった。
自宅に戻り、夕食の準備をしながらツィツィーはぼんやりと考える。
(積極的に……)
確かに、今までのあれそれはすべてガイゼルがリードしてくれた。互いの思いが通じ合ってからも、基本的にベッドは別にしてくれている。それはおそらく、ツィツィーの気持ちが落ち着くまでと待ってくれているのだろう。
しかし言われてみれば、キスですらガイゼルに任せっぱなしで、ツィツィーからしたことなどない。あの女性の言う通り、少しはツィツィーからもするべきなのだろうか。
(飽きられる、……のは、嫌かも……)
「――ただいま」
するとタイミングを見計らったかのように、ガイゼルが入口の扉をがらりと開いた。物思いに耽っていたツィツィーは、ひゃーと一気に現実に引き戻され、慌ててガイゼルの元へと向かう。
黒い外套の肩には雪花が積もっており、ガイゼルの纏う外気の冷たさに、ツィツィーは改めて外の寒さを知った。
「おかえりなさい、今日もお疲れさまでした」
「ああ」
ガイゼルが素っ気なく答えると、その口から白い呼気がはあと生まれた。脱いだ外套を受け取りながら、ツィツィーはそっとガイゼルの唇を覗き見る。
いつもは皮肉や意地悪を言い、時には情熱的な愛を告げる。そして自身の唇に触れ合う――と気づいたあたりで、ツィツィーは思わず目をそらした。気のせいか耳や頬が熱い気がする。
(わ、私、何を、見て……)
外套を壁にかけながら、ぶんぶんとツィツィーは首を振る。するとそんなツィツィーの奇行にガイゼルは訝しむように眉を寄せた。
「俺の顔に何かついているか?」
「い、いえ! なんでもありません! すぐにご飯にしますね」
夕飯を終え、ツィツィーが片づけを済ませて暖炉の元へと近づくと、珍しいことにソファで横になったガイゼルが眠っていた。
ここに来てしばらくは、緊張と警戒で安眠出来なかったようだが、極寒の中で働く日々のせいか、疲れが限界に来ていたのだろう。
静かな寝息を立てるガイゼルに、ツィツィーはそっと毛布を掛ける。だが重さが増えてもガイゼルが起きる様子はない。
(よほどお疲れなのね……)
ぱちぱちと音を立てる暖炉の熱を背中に感じながら、ツィツィーはガイゼルの前にしゃがみ込んだ。ガイゼルの伏せられた睫毛が、頬に長い影を落とす。
普段は縦皺が刻まれていることが多い眉間も、今は穏やかに開いていた。通った鼻筋は美しく、下に続く口許に視線を向けたあたりで、ツィツィーは再び赤面した。
(今なら、大丈夫かしら……)
一文字に結ばれた薄い唇を前に、ツィツィーはこくりと息を吞んだ。ソファの縁に指先をかけると、そっと上体をガイゼルの元に近づける。
唇が触れる――その寸でのところで、先に鼻の頭がガイゼルの顔にぶつかってしまった。
(――⁉)
ツィツィーは急いでガイゼルから離れ、距離を取る。だが熟睡しているのか、起きる気配はない。
胸を撫で下ろしたツィツィーは、再びそろそろとガイゼルの傍へと座った。
(い、意外と難しいんだわ……)
普段される時は考えてもいなかったが、上手くやらないとかなり恥ずかしい思いをするようだ。ツィツィーは一つ呼吸を置くと、勇気を振り絞ってガイゼルの口元へと接近する。
わずかに開かれた唇を前に、そっと自身の顔を寄せる――が、
(――ッ)
最後の最後で怖気づいたツィツィーは、唇ではなく、ガイゼルの頬に口づけを落とした。
それも一瞬のことで、ツィツィーは触れたか触れないかという速度で、すぐに体を起こす。直接口には出来なかったが、それでもツィツィーの心臓ははち切れそうなほど音を立てていた。
(も、もう、これ以上は無理!)
手の甲で口を覆うと、ツィツィーは急いで立ち上がった。眩暈がしそうなほど、顔が赤く火照っているのが分かり、ツィツィーは逃げ隠れるように寝室へと移動した。
――ソファに寝ていたガイゼルは、ぱちりと瞼を押し上げた。その顔が一瞬で赤くなり、二三瞬きしながら、今の自分の状況を思い出す。
(……待て。どういうことだ)
たしかに今日は心地よい疲労感があり、ここで微睡んでいたのは覚えている。そこにツィツィーがやってきて、しばらくじっとガイゼルを見ていたはず。眠気に抗えなかったガイゼルがそのままにしていると、突然ツィツィーがガイゼルに接近して来たのだ。
(急に起きたら、驚かしてしまうかと思って……)
だが一度目は鼻が触れただけで、ツィツィーは驚いて離れてしまった。どうすべきか、と悩んだガイゼルだったが、祈るような気持ちでそのまま寝入ったふりをする。
すると願いが通じたのか、ツィツィーは恐る恐るといった様子で、再びガイゼルの元へと戻って来てくれた。ごくりと飲み込む息の音が聞こえはしまいかと、ガイゼルは心を凪の状態にするのに必死だった。
やがてガイゼルの頭上に、ゆらりと影が落ちたのが分かった。我ながら女々しい、と思いつつも、ツィツィーから口づけしてくれることなど二度とないかも知れない、と言い訳をしながらその時を待つ。
唇ではなく、頬に触れる柔らかい感触。
ふっくらとした弾性のそれがガイゼルの頬に落ち、すぐに離れた。固く目を瞑るガイゼルの横で、ばたばたと慌ただしい足音が離れていく。やがて完全にツィツィーの気配が消えたところで、――冒頭に戻る。
(……いや、別に口じゃなかったから残念だったとか、そういうわけでは……)
誰にしているのか分からない弁明を、ガイゼルは脳内で延々と繰り返す。先ほどより熱が上がったような気がして、そっと自身の頬へ指を伸ばした。
ツィツィーの唇が触れた。しかも彼女から。
(……だめだ。今はそんな時じゃないだろう。冬が明けたらどうするかを考えなければならないし、ツィツィーの将来のことも考えなければならないわけで、……)
ガイゼルは懸命に心に制止をかける。だが表情筋は実に素直なもので、油断すると緩んでしまう口元に、ガイゼルは何度も自らを叱責するのであった。