第四章 人命のためには仕方ないんです。
パチリ、と薪の爆ぜる音に、ツィツィーは目を覚ました。ゆっくりと体を起こす。暖炉の明かりだけが室内を照らしており、壁の傍にいくつか木箱がある以外、目立つものはない。
どうやら古い山小屋のようだ。しばらく状況がつかめずぼんやりとしていたツィツィーだったが、少し離れた位置にガイゼルが横たわっているのを見つけ、慌てて近づいた。
「ガイゼル様……!」
そっと体に触れる。
ひどく冷たくなってはいるが、呼気も安定しており、間違いなく生きている。ツィツィーは心の底から安堵すると、急に自身の力が抜け落ちていくような感覚がした。
「――まだ寝てろ」
すると突然、低い声が割り入った。ツィツィーが弾かれたようにそちらを向くと、そこには立派な髭を蓄えた、屈強な男が立っていた。右手には小さい手斧が握られており、ツィツィーは警戒心を露わにする。
「こいつも無事だ。安心しな」
「……あなたは」
「命の恩人になんて目を向けやがる」
はあ、と男はため息をつき、反対の手に持っていた薪を火の中にくべた。新しい木を舐めるように炎は燃え上がり、薄暗い部屋を揺らぎながら照らす。どうやらヴェルシアからの追手というわけではなさそうだ。
「す、すみません……少し、事情がありまして」
「まあ、そんな格好で山に入るくらいだ。普通とは思わんが……」
言われて、ツィツィーは自分たちの格好を見直した。旅装のままだったから、身分が特定されるようなものはない。傷だらけになった服を見て、ツィツィーはようやく自分たちの状況を思い出した。
(たしか兵士に追われて、崖を飛び降りたんだわ……)
落下の衝撃でツィツィーは気を失ってしまったらしい。ガイゼルはそれからしばらく馬を走らせたのだろうが、……一体どこまで来てしまったのだろう。
「助けてくださり、ありがとうございます。それで、……ここはどのあたりか、教えていただけないでしょうか」
「……イシリスだ。と言っても、北のはずれで、いくつか小さい集落があるだけだがな」
イシリス。
懐かしい地名に、ツィツィーの心が少しだけ弛む。
もちろん、ヴェルシアの属国である以上油断は出来ない。だがイシリスの北方はこの季節、移動が非常に困難で物資や食料がなかなか届かなくなると聞いたことがある。であれば、王都からの伝令もまだ届いていないかもしれない。
(良かった……すぐに捕らえられるということはなさそうだわ……)
しかし今ガイゼルが目覚めたところで、二人には行くべき場所がなかった。
(王都には戻れない……でも私の国にも帰れない……)
ツィツィーは穏やかに眠るガイゼルを見つめ、何かを決心したかのように一人息を吐く。
「あの……無理を承知でお願いしたいのですが」
「……なんだ」
「この冬の間だけで構いません、……集落に置いていただけないでしょうか」
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どさり、と重たい何かが玄関の前に落ちた。音を聞きつけたツィツィーが駆け寄ると、外から扉を開けたガイゼルが、大きな鹿の足を土間に引っ張り込んでいるところだった。
「おかえりなさい! すごい、立派ですね」
「ああ。偶然見つけて、運よく仕留められた」
「助かります。すぐにご飯にしますね」
最初の頃、鹿の生肉など見たことがないツィツィーは、血の量とグロテスクな質感に震えあがっていた。
しかしこの厳しい環境下で生易しいことは言っていられない、と奮闘を見せた結果、最近ではすっかり慣れたものになってしまった。ガイゼルが防寒具を置く間、ツィツィーはふと数週間前のことを思い出す。
――屈強な男はディータと名乗り、イシリスの集落に娘と二人で暮らしていると言った。
「村では助け合いが基本だ。それを忘れるな」
ディータはそれだけ念を押すと、使われていないという小屋の一つを貸してくれた。そこでガイゼルは「ゼル」、ツィツィーは「ツィータ」と名を偽り、若夫婦として暮らし始めることとなった。
「狩りは男の仕事だ。取れた獲物は分け合う」
集落には年寄りから若者までおり、若く体格のいいガイゼルは特に歓迎された。ディータは皆のリーダー的な存在らしく、ガイゼルは新参者に対する好奇の目を受けながらも、黙々と狩猟の方法や道具について習っていた。
一方ツィツィーを案内してくれたのは、ディータの娘だというアンリだった。歳は七、八歳くらいだろうか。癖のある黒髪が可愛い女の子だ。
「お父さんたちが狩りをしている間、女の人は保存食や、街で売る商品を作るんだよ!」
そう言って連れてこられた集会所では、取れた作物を乾燥させたり、寄木細工を作ったりといった作業が行われていた。最初は、ツィツィーの珍しい髪色に関心が寄せられていたが、女性側のリーダーらしき人物が現れると、皆一斉に口を閉じた。
慣れない作業ばかりで、ツィツィーは何度も怒られたが、それでも必死に仕事を覚えていく。
こうしてガイゼルとツィツィーは、イシリスの小さな集落に隠れ住むこととなった。
「ツィツィー」
夕飯を終え、片づけを済ませたツィツィーをガイゼルが呼び止めた。彼は暖炉の前に置かれたソファに座っており、ツィツィーはどうしたのだろう、と傍らにしゃがみ込む。
「その……前にも言ったが、お前だけラシーに帰ってもいいんだぞ」
視線を伏せたままそう告げるガイゼルを見て、ツィツィーは微笑んだ。ゆっくりと首を振る。
「前も言いましたが、帰りません」
「無理に俺に付き合う必要はない。俺はもう……皇帝でもない、何の力もないんだ」
その言葉に、ツィツィーは胸が締め付けられるようだった。
「ガイゼル様、私は皇帝だから、あなたと一緒に居たかったのではありません」
「……」
「ここに来てから、ガイゼル様は色々話して下さるようになりました。それに王宮にいた時よりも長い時間、一緒に居られます。私はそれがすごく嬉しいんです」
ツィツィーは最近、ガイゼルの心の声が少しずつ聞こえなくなっている、と感じていた。
もちろん、他の人より鮮明に聞こえることに変わりはないのだが、おそらくガイゼル自身が、心で思ったことをそのまま口にしている時間が増えたからでは、とツィツィーは考えている。
王宮にいる間は、先代皇帝よりも認められなければならない、隙を見せてはならないという気持ちが強く、あの傲慢な態度や言葉は、そうした強がりの裏返しだったのだろう。
だがガイゼルの正体を知らぬこの集落では、虚勢を張る必要はない。ただの一人の青年としてのガイゼルが必要とされている。そのことが良い影響をもたらしているのかもしれない。
「そうか……」
穏やかに笑うツィツィーを、ガイゼルは静かに見つめていた。やがて少しだけ口角を上げると「先に休む」と言って寝室へと入っていった。