第三章 5
「……何をそんなに怒っている」
「怒ってなんていません」
『熱を出したからか? それとも勝手にベッドに運んだことか、それとも……』
「――っ」
ウタカを後にした二人は、再びヴェルシアに向けて黒馬を駆っていた。馬の疲労を考慮しつつ、昼間の時間帯を中心に走っていく。日没を迎える前に、近くにある村や町に入り、適度に体を休めた。
さすがにウタカほどの立派な宿泊施設はなかったが、それなりに綺麗な宿が多く、ベッドも常に二つある部屋を手配してくれた。
ツィツィーはそのたびに緊張していたが、長旅の疲れや一度倒れたという負い目もあってか、今はヴェルシアに戻るのが最優先というガイゼルの意思が感じられ、結局一度として同衾することはなかった。
そうして数日を費やしていると、地表にうっすらとした雪が見え始めた。あと少しだと馬を走らせ、陽がだいぶ傾きかけた頃、ようやくヴェルシアの市門が姿を現す。ガイゼルは少しずつ駆足の速度を落としていき、番人たちが見張る門の前に辿り着いた。
だが黒馬から降り、手綱を引きながら入る二人の前に、一人の兵士が立ちふさがる。
「――失礼ですが、ガイゼル皇帝陛下であられますか」
その時、ツィツィーはぞわりとした恐怖を感じた。
はっきりとした心の声が聞こえたわけではない。だが兵士が抱えている不穏な感情に、体が無意識に反応してしまったのだろう。
「……貴様、何を言っている」
「――失礼ですが、」
その瞬間、ツィツィーは隣にいたガイゼルの腕をぐいと強く引いた。突然のツィツィーの行動に、ガイゼルは踏み出そうとした一歩を押しとどめる。するとガイゼルの眼前に、先ほどの兵士が槍先を向けていた。
「謀反人ガイゼル・ヴェルシア――貴方を捕らえるよう、令が出ています」
その言葉を皮切りに、他の兵士たちも一斉に槍を構えた。ガイゼルはすぐさまツィツィーの腕を取ると、市街地の方へ走り出す。
「陛下、これはいったい」
「……」
ガイゼルの表情は険しく、ツィツィーはそれ以上の言葉を飲み込んだ。裏路地を抜け、兵士たちが行き過ぎるのを待つ。だが兵士たちの数は徐々に増え始め、あちらからもこちらからも、二人を探す声が近づいて来る。
(どうしましょう、このままでは……)
こくりとツィツィーは息を吞む。すると裏路地の角から、身を隠す二人に向かって一人の女性が声をかけた。
「皇妃様、お怪我はありませんか」
「……リジー⁉」
ツィツィーの声に反応して、ガイゼルが咄嗟に庇う体勢を取る。だがリジーと呼ばれた女性は大丈夫です、と武器がないことを示すように、両手の平をこちらに向けた。
「ご無事でよかった……」
「リジー、一体何があったの?」
「……王宮内の先代派が、暴動を起こしました」
その言葉を、ガイゼルは静かに聞いていた。
「ガイゼル陛下を糾弾し、排斥する……と。本邸の使用人は、皆お暇を出されました」
「陛下を、排斥する……⁉」
もしかして、とツィツィーは青ざめた。
「陛下が私を迎えに来たことが、原因に……?」
「――違う。元々、限界だっただけだ」
兵士たちの足音がさらに増した。リジーは自身の外套をツィツィーに被せると、そっと奥から抜ける道へと導く。
「ここを抜けると、市門の脇に出ます。そこから逃げてください」
行くぞ、とガイゼルがツィツィーの手を引く。離れていくリジーにありがとう、と小さく口を動かしながら、ツィツィーは必死になって裏道を走った。リジーの言葉通り、門の傍に出た二人は、繋がれていた黒馬の縄を解くと、急いでその背に跨る。
だが運悪く、残っていた兵士の一人に見つかってしまった。
「いたぞ!」
背中に刺さる兵士の叫びを聞きながら、ガイゼルは馬の腹に強く拍車を押し当てた。黒馬は驚いたように駆けだし、みるみる市門から離れていく。
その光景にツィツィーは少しだけ安堵したが、すぐに二三頭の馬列が、二人を追って来るのが分かった。
「――ッ」
ガイゼルも懸命に馬を走らせるが、次第に彼我の距離が縮まっていく。やがてガイゼルが急に手綱を引いたかと思うと、馬は高い声で嘶きながら踏みとどまった。
積雪で気づかなかったが、二人の眼前には高い崖が広がっており、これ以上進むことが出来ない。その間にも、兵士たちは背後からじりじりと迫ってくる。先頭の一人が、ガイゼルに向けて叫んだ。
「ガイゼル様、我々と――」
だがガイゼルは、再び強く馬の腹を蹴ると、そのまま崖に向かって走り始めた。驚くツィツィーの体を強く抱き寄せると、低い声で囁く。
「――絶対に、俺を離すな」
兵士たちの動揺する声が遠くで聞こえたかと思うと、次の瞬間ツィツィーは、ひゅ、と体が浮いたのが分かった。続けざまに襲うのは、猛烈な揺れと衝撃。
「――ッ!」
ガイゼルは、崖の急斜面を馬で駆け下りていた。ほぼ落下にも近い角度だったため、勢いが止まらず、操縦は不可能な状態に陥っている。どちらが上か下かもわからぬほど体が傾ぎ、ツィツィーは言われた通り、ただ必死にガイゼルの体にしがみついた。
――さく、と蹄が積もった雪を踏みしめる。
ひどく疲れた様子の馬が、一歩、二歩とぎこちない足取りで冷たい北の大地を歩いていた。
周囲は針葉樹が林立し、完全に日の落ちたその場所は、白と黒だけの世界になっている。家の明かりはおろか、動物の気配すらない。
ガイゼルは朦朧とした意識で、馬の背に揺られていた。腕の中では気絶したツィツィーが冷たくなっている。抱きしめたい、と思っても寒さにやられた指先には、そのわずかな力すら残っていなかった。
(……ツィツィー……)
やがて、ガイゼルはどさり、とツィツィーを抱いたまま地面に落ちた。真っ白な雪面に、黒い髪と外套が広がる。
その頬には、今なお大粒の雪花が降り積もっていた。