第三章 3
中央に飾られた獅子の像を見ながら、ツィツィーは大きく息を吐きだした。
浸かっているのはほどよく温められた湯水で、水面には数種類のバラの花がぷかぷかと浮かんでいる。
湯船は、ちょっとした大家族が三組くらいは入れそうなほど広々としていたが、時間が早いせいかツィツィー以外の人影はない。ぱしゃん、と水音を立てながら、ツィツィーは両手で赤くなった顔を覆った。
(うっかり勘違いするとこだったわ……)
ツィツィーの必死の抵抗も虚しく、ガイゼルに連れてこられたのは、宿泊者用の湯あみ所だった。
男女に別れた入り口の前で「先に部屋に戻る」と宣言したのち、ガイゼルがどこか嬉しそうに男湯へ向かっていったのを思い出す。
(もしかして、意外とお風呂が好きなのかしら……)
母国ラシーでは一年中熱帯夜なため、わざわざ熱いお湯に浸かるということがない。せいぜい冷たい水風呂や流水を浴びる程度だ。
逆にガイゼルの国であるヴェルシアは、寒冷な気候ということもあり、水を温めると言うだけでも相当の資源を使う。
そのため暖炉や調理以外に火を用いるという機会が乏しく、これだけのお湯をふんだんに使える、というのはとても貴重なことなのだろう。
(でも正直……すごくありがたいかも……)
一人でヴェルシアを発った後、ガイゼルがラシーに迎えに来てくれるまで、休む間もなく移動し続けていた。
これからヴェルシアに戻るまでの行程もなかなかにハードと聞いている。ガイゼルには言い出せないにしろ、ツィツィーは知らず疲れが蓄積していたようだった。
潤沢に注がれるお湯のせせらぎに耳を傾けながら、湯船の縁にもたれかかる。ふわふわとした穏やかな心地に微睡んでいたツィツィーだったが、はっと目を見開いた。
(どうしよう、……もっとちゃんと体を磨いた方がいいのかしら⁉)
湯船に入る前、専門のスタッフが丁寧に磨き上げてくれたのだが、連日の無茶が災いしてか肌は少し焼けていたし、指先だって、以前王宮で手入れされていた時のような輝きはない。
(でもまだ、……すると決まったわけではないし、陛下だって長旅でお疲れでしょうし、あ、明日もあるし……でも万一……⁉)
鼻をくすぐるバラの芳香の中、ツィツィーは一人うんうんと唸っていた。
結局ツィツィーは、もう一度自分で丹念に身綺麗にした後、髪も丁寧に磨き上げてもらった。湿気の残る髪をリボンで軽くまとめ、前で止めるだけの簡単な部屋着を纏って風呂場を後にする。
気づくと相当時間が経っており、間違いなくガイゼルは部屋に戻っているだろうと、ツィツィーは躊躇うような足取りで廊下を歩いた。
窓の外には、いつの間にか夕暮れが迫っており、外壁の向こうに沈む陽光が洩れ出している。空は藍色に色づき始めていた。
(だ、大丈夫……ちゃんと綺麗にしたし、変な匂いもしないはず……)
こっそりくんくんと鼻を動かす。仕上げにつけてもらった薔薇水の香りに、ツィツィーはよしと気合を入れなおした。
ノックをして部屋に入る。
ソファで本を読んでいたガイゼルの姿を見つけた瞬間、ツィツィーは心臓が飛び跳ねるのが分かった。
「遅い」
「す、すみません……」
言葉こそ短いが、どこかからかうような口調で、ガイゼルはツィツィーを迎え入れた。恐る恐る部屋に入ったものの、所在なく立ち尽くすツィツィーに気づいたのか、ガイゼルは顎で自身の隣を指し示す。
「失礼します……」
ぴったりとくっつくのはさすがに恥ずかしく、少しだけ距離をとってツィツィーはソファに腰かけた。膝の上で拳を握りしめていたが、沈黙に耐え切れずちらりと隣に座るガイゼルを覗き見る。
ガイゼルの黒い髪は適度な湿り気を含み、いっそう艶々と輝いていた。今は文章を追っているのか、鉄紺色の瞳は長い睫毛と共に伏せっている。
白い肌はわずかに上気しており、男性だというのに抑えきれない独特の色香を漂わせていた。
「――なんだ?」
気づけば、ツィツィーの視線に気づいたのか、ガイゼルがこちらを見つめ返していた。暗い青色の目はどこか熱を帯びており、ツィツィーはこくりと息を吞む。
するとそれを合図と悟ったのか、ガイゼルは手にしていた書物をテーブルに伏せると、ツィツィーの頬に左手を伸ばした。
ツィツィーは思わず目を瞑る。
だがガイゼルの指は頬を通り過ぎ、ツィツィーの結んでいた髪へと伸びた。するり、と纏めていたリボンが解かれ、濡れたツィツィーの髪が肩に落ちる。
その冷たさを肩に感じた瞬間、ガイゼルは一気に距離を詰め、かぶさるように唇を奪ってきた。
「――ん、」
左手は首に添えられ、もう一方の手はツィツィーを抱き寄せるように腰に回される。同じお風呂に入って来たはずなのに、発される呼吸の温度が違うことに、ツィツィーはぼんやりと疑問を感じていた。
そんなツィツィーを煽るように、ガイゼルは角度を変えて再び口づける。ちゅ、と水を含んだ音にツィツィーは耳が熱くなるのが分かった。
やがてガイゼルは、はあと大きく息を吐きだすと、そのままツィツィーを横向きに抱き上げる。
「へ、陛下!」
「ガイゼルだと言っているだろう」
冷たく笑いながらも、どこか悦楽した様子のガイゼルに抱きかかえられたまま、二人は寝室へと移動した。ぼすん、とふかふかのベッドに投げ出され、ツィツィーは沈みこまないよう、必死に起き上がろうとする。
するとガイゼルが、それを阻止するように覆いかぶさって来た。部屋には暖かいオレンジ色の照明が満ちていたが、ガイゼルの黒い髪がそれを覆い隠す。
ツィツィーの手首を寝台に縫い留めるように握り込むと、再び唇を寄せてきた。
(ちょ、ちょっと待って、心の準備が……!)
『ツィツィー……』
心の中で甘く名前を呼ばれ、ツィツィーはさらに混乱する。ガイゼルは全身熱を帯びており、苦し気に吐き出す息は発露を求めていた。
初めて見る雄々しさにツィツィーは少しだけ身を強張らせたが、やがて覚悟を決めたように目を瞑る。
ガイゼルの顔が少しずつ近づき、――そのままツィツィーの首筋へと下りてきた。ん、と短い声を漏らしたツィツィーだったが、はてと奇妙なことに気づく。
(陛下の体が熱い……熱すぎない⁉)
慌てて体を起こそうとするが、ガイゼルは微動だにしない。正確には、ツィツィーの肩に額を寄せたまま、起き上がることが出来なくなっていたのだ。
ええーっと心の中で悲鳴を上げながら、ツィツィーは何とか逃げ出そうと身を捩る。すると何を勘違いしたのか、ガイゼルが熱っぽい瞳をツィツィーに向けた。
「どこに……行く……」
「陛下、ダメです、ひどい熱が!」
朦朧とした意識のまま、ガイゼルが懸命にツィツィーを抱き寄せようとするが、その手も恐ろしく熱い。
よく見れば顔も首も真っ赤になっており、やがてツィツィーを抱きしめたまま、ガイゼルは意識を失った。
(ど、どうしましょう⁉ 風邪⁉ 熱中症⁉)
よくよく思い出してみれば、この部屋に入ってから、ガイゼルの心の声はほとんど聞こえなかった。おそらく熱で思考回路がとっくに死滅していたのだろう。
「陛下、陛下⁉ だ、誰か、誰か助けてくださいー!」
最後の気力を振り絞ったのか、ツィツィーの腰に回されたガイゼルの腕はがっちりと固められていた。逃げ出すことが出来ない、とツィツィーは柔らかいベッドにもつれ込みながら、必死に外部に助けを求めた。