第三章 2
ガイゼルの鉄紺色の瞳に、ツィツィーの姿が映り込む。奥に秘められた真剣な思いを感じ取ったのか、ツィツィーはそっと睫毛を伏せた。
「……イエンツィエは、どうするんですか」
「断る。姻戚以外にも、国の繋がりを強める方法はある」
「他の国からも申し出があったら? 有力な貴族の令嬢だって……」
「断る。俺は、お前以外はいらん」
その言葉を聞いて、ツィツィーはそっとガイゼルの胸に手を置いた。とくん、とくん、と確かな拍動が伝わってきて、ツィツィーはそのまま額を押し付ける。ガイゼルの体に腕を回し、力強く抱きしめた。
「……ツィツィー? ……泣いているのか」
顔を上げないまま、ツィツィーはふるふると首を振る。その様子にガイゼルはくすりと笑うと、ツィツィーの頬に両手を添えて上向かせた。
「嘘をつくな」
「……だって、……だって……」
真っ赤になっているツィツィーの目元に、ガイゼルは口づけを落とした。頬を伝い涙が零れるのに合わせて、反対側にも、額にも。嬉しさと恥ずかしさとでいっぱいいっぱいのツィツィーは、ガイゼルが降らせるキスの雨を、ただ甘んじて受け入れていた。
『まいった……泣かせたくないと思っていたのに、……ああでも……もういいか。可愛くて、仕方がない……』
「――一緒に帰るぞ、ツィツィー」
「……はい」
ようやく泣き止んたツィツィーを見て、ガイゼルは優しく微笑んだ。最後に、とばかりにツィツィーを引き寄せると頬に手をかけ、顔を斜めに傾ける。その仕草をツィツィーもまた自然に受け止め、静かに目を閉じた。
柔らかい感触が、唇に触れる。
熱い呼気がわずかに触れ、すぐに離れた。
「……」
二人はどちらともなく、視線をずらした。ツィツィーは遅れて高まって来た緊張感に、今更ながらドキドキする。
と、そこでようやく一つしかないベッドの存在を思い出した。
(……ど、どうしよう、やっぱり、その、この先も……)
だが、ガイゼルの方を見ようとしても、恥ずかしさのあまり直視することが出来ない。どうしましょう、と悩むツィツィーをよそに、ガイゼルは抱きしめていた腕に力を込めた。思わずびくりと身を固めたツィツィーは、恐る恐るガイゼルの方を見上げる。
「ガ、ガイゼル、様……?」
「……」
押し黙ったままのガイゼルに不安になり、ツィツィーはたまらず声をかける。だが彼の悩ましい心の内が届くのに時間はかからなかった。
『あー……いや、……だめだ。今はダメだ。止まらなくなる。だって見てみろ、こんなに緊張してる。ここまでの行程もかなり無理をさせているし、この先も長い。大体初めてがこんなとこなんて、ツィツィーに悪い。いや、しかし……』
「へ、陛下!」
二度目の呼びかけに、ガイゼルはようやくはっと意識を取り戻した。目をぱちくりとさせているツィツィーに気づくと、何事もなかったかのように体を離す。
「……明日も早い、今日は休め」
何かを堪えるようにそう告げると、ガイゼルは何故か部屋の外に出ようとしていた。慌ててツィツィーが呼び止める。
「休めって、陛下はどちらに」
「少し頭を冷やしてくる。ベッドはお前が使え」
そう言うとガイゼルは、足早に廊下に消えて行った。その背中を見送っていたツィツィーだったが、やがてへたりこむようにしてベッドへ座り込む。両手で顔を押さえたかと思うと、声にならない悲鳴をあげた。
(ど、どうしたら良かったのー!)
ひとしきり悶えた後、ツィツィーは思い出したように自身の唇に手を添えると、顔を真っ赤に染め上げた。
翌日、二人は再びヴェルシアに向かって駆けていた。昨日のこともあってか、最初は少しぎくしゃくしていたが、お互いの心が通じ合ったという解放感もあってか、ツィツィーは昨日よりも少しだけ安心して、ガイゼルに体を預ける。
今日滞在する街は、砂漠帯と緑地帯の境にあるオアシスを拠点として出来た場所だった。鮮やかな自然と水に囲まれた絢爛な光景が有名で、各国の交易拠点にもなっているらしい。
市門をくぐってすぐの大通りでは、どこまでが店で、どこまでが客か分からないほど、多くの商人と観光客であふれかえっていた。
「すごい街ですね……」
「ウタカだ。東と西の合流点で、商隊や巡礼者たちの拠り所になっている」
人が集まるということは、それだけお金も集まるということで、ウタカは非常に裕福な街のようだった。大道芸人や吟遊詩人などもおり、人々も活気にあふれている。大通りの市場を抜けると、整備された石畳の街路になり、道幅が倍ほどに広がった。
中央には幅広の水路が流れており、それを彩るように煌びやかな花々が飾られている。ラシーの生態系と近いのか、目もくらむような赤色や橙色だ。
どうやら観光客の目を楽しませるために作られた場所らしく、植物だけではなく、さまざまな動物たちも飼育されている。
その一角でツィツィーは思わず足を止めた。
「ガイゼル様、あれは何という動物ですか?」
「……ハシビロコウだな」
淡紅色のフラミンゴや極彩色のオニオオハシには目もくれず、ツィツィーが一心に見つめていたのは、地味な羽色の巨大な鳥だった。
青みがかった灰色の羽で、足は太くて長い。蹴られたらひとたまりもなさそうだ。下手をするとツィツィーとあまり変わらないのでは、と思えるほど背が高く、何より特徴的なのがその顔だった。
立派な嘴と鋭い目つき。特に目はきりりとした金色で、今はじっと二人の方を睨みつけている。先ほどから全く身じろぎしていないが、生きているのだろうか。
「なんだか、ガイゼル様に似ていますね」
「……」
嬉しそうなツィツィーに言われ、ガイゼルは伏し目がちにハシビロコウに目を向けた。すると向こうも気づいたのか、ガイゼルを注視している。
『似ている……俺がこの、何を考えているか全く分からない無愛想な鳥と……? どういうことだ……?』
「あ、す、すみません! 行きましょう!」
うっかり本音が出てしまい、ツィツィーは真っ赤になりながらガイゼルの背を押した。まだ少し疑問符を浮かべているガイゼルと向かったのは、街で最大と言われている宿泊施設だ。
正面玄関には朱塗りの門が立てられ、金や銀の植物の装飾があしらわれている。邸内には南方のシダ植物をモチーフとした噴水や、人工の滝のようなものまで作られており、ヴェルシアやラシーとはまた違った雰囲気の建物である。豪商や貴族といった富裕層向けの宿らしい。
「ガイゼル様、良いんですか、こんな立派なところ……」
「ウタカは中立国だ。危険はない」
金銭的な意味で聞いたのだが、よく考えてみればガイゼルは一国の――それも相当力を有する国の皇帝なのだ。本来であればこうした宿に泊まるのが普通で、昨日のベッド一つしかない部屋の方が異常だっただけだ。
(またベッド一つだったらどうしようかと思っていたけど……ここなら大丈夫そう)
ツィツィーはほっと胸を撫で下ろしたが、同時に少しだけ『寂しい』という気持ちも抱えていた。すぐに首を振り雑念を追い払う。だが受付を済ませ、指定された部屋に入った瞬間、ツィツィーは言葉を失った。
(……一つしかない……)
通されたそこは、昨日とは正反対の豪華な客室だった。二部屋を繋いだ造りになっており、一方はソファとテーブル、もう一方には天蓋付きの立派なベッドが鎮座している――大人二人が寝てもまだ余るような、キングサイズのベッドが。
「すみません、どうしてもこちらのお部屋しか空いておらず……ですがご夫婦様であれば、不便にはならないかと」
「あ、は、はい……」
ごゆっくりどうぞ、との言葉を残してベルマンは立ち去った。ガイゼルが旅装を脱ぐ間も、ツィツィーはどこにいたらいいか迷い、仕方なく入口の扉の傍で立っていた。すると怪訝そうな顔でガイゼルが首を傾げる。
「何をしている?」
「え、ええと、どこにいたらいいか迷いまして……」
「好きなところに座れ。それよりも準備をしろ」
「準備、ですか?」
そういうとガイゼルは、砂が入らないよう、一番上まで止めていたシャツのボタンをはずしながら答えた。
「一緒に風呂に行くぞ」












