第三章 今日から住所不定です。
ラシーに戻ったツィツィーを出迎えてくれたのは、親書に対するおざなりな賛辞と、その倍はある嘲りの言葉だった。
「だから言ったじゃない、ヴェルシアの第一皇妃なんて、アンタに務まるわけないの」
「そもそも、先代の慰み者になるはずだったんでしょう? 本当に陛下に見初められたなんて、まさか思っていないわよねぇ」
「相変わらず気持ち悪い髪と目。早くどっか行ってちょうだい」
親書が王へと渡る間、ひそひそと囁かれる姉たちの声。
だがツィツィーは毅然とした態度で礼をして、御前を後にした。
当然のように用意されていた塔の一角。ツィツィーが不在の間、管理されていなかったらしく、敷物やカーテンには埃が溜まっていた。窓を開けると、南国ならではの湿気を含む風が吹き込んでくる。
(……短かったけれど、とても素敵な時間だったわ)
ツィツィーはそっと左手を眺めた。その薬指には鮮やかな緑色の石が輝いている。
本当は置いて来るべきか迷ったのだが、ガイゼルとの思い出まで失われてしまう気がして、どうしても手放すことが出来なかった。
(陛下に愛されて、私、幸せだった……)
キラキラと光を反射する宝石を、指先でそっと撫でる。「勝手に外すな」と不機嫌そうに告げたガイゼルの顔が、まるで昨日のことのようにツィツィーの脳裏をかすめた。
一度破婚された女性を好んで娶る男性は少ない。
その相手が大国ヴェルシアの皇帝ともなれば、皆無と言っていいだろう。おまけにラシーではツィツィーの容姿を褒めてくれる人はおらず、きっとツィツィーは生涯、この暗い部屋で過ごすことになる。
だがツィツィーは自らの選択を、一つも後悔していなかった。これでイエンツィエの姫は晴れて第一皇妃になり、きっとガイゼルを支えてくれることだろう。そう思うだけで、ツィツィーはこれから先に訪れる、全ての悲しみを乗り越えられる気がした。
だが翌日、事態は急転した。
早朝、ツィツィーの部屋のドアがけたたましく叩かれた。慌てて開くと、血相を変えた王宮の近衛兵が「すぐに来てください!」とツィツィーの手を掴む。
何が何だか分からぬうちに王宮へと走らされたツィツィーは、玉座にいる人物を見て驚愕した。そこにいたのは現王である父と第一妃、側妃、姉たち――そしてガイゼルだった。
いつもの黒い外套を翻し、手には愛用の長剣が握られている。
「やっと来たか」
ガイゼルはツィツィーの姿に気づくと、さっさと歩み寄り、掴み上げて肩に担いだ。突然のことにきょとんとするツィツィーを抱えたまま、ガイゼルは玉座に向かって叫ぶ。
「こいつは俺がもらう」
「へ、陛下……⁉」
そう言うなり、ガイゼルはもう用はないとばかりに赤い絨毯を歩いていく。途中近衛兵たちが行く手を阻もうと槍を構えるが、ガイゼルの一払いで、玩具のような音を立てながら弾き飛んでいった。
他の臣下たちは、彼の発する異常なまでの威圧感を前に、身動き一つとれない。
やがて玄関ホールを堂々と後にし、そのまま王宮の外へと向かう。町の入り口には陛下の愛馬である黒馬が繋がれており、ガイゼルはツィツィーをその鞍の上に乗せると、自身もすぐに跨った。
「陛下、あの」
ツィツィーが反論する間もなく、ガイゼルは黒馬を走らせる。思わず振り返ると、後ろからラシーの面々が追いかけて来ていたが、その距離はどんどん離れていき、やがて見えなくなってしまった。疾走する馬上でツィツィーが叫ぶ。
「ガイゼル様! どうしてこんなことを」
「それは俺の台詞だ」
冷たく呟いたガイゼルの言葉に、ツィツィーはこくりと息を飲んだ。それは、と反論を口にしようとするツィツィーのもとに、ガイゼルの心の声が流れ込んでくる。
『――やっと会えた……会いたかった……! 無事でよかった……少しやつれたか? どうして、俺の傍からいなくなったんだ? やはり俺が……嫌いになったのか?』
「……私、は……」
ガイゼルはツィツィーを抱きしめたまま、片手で器用に馬を駆っていく。その勢いはすさまじく、ツィツィーは振り落とされないよう、必死に縋りつくことしか出来なかった。
黒馬はラシー周辺に取り巻く砂漠地帯を、力強く駆けていく。ヴェルシアからラシーまではかなりの距離があり、とても一日で辿り着けるものではない。ガイゼルは陽が落ちるのを見越して、小さな町へと行先を定めた。
旅行者や冒険者の宿場町として栄えているその場所は、ヴェルシアの王都とは異なり、雑多な雰囲気のお店が多く並んでいた。露出の多い格好の女性を横目に、二人は黙々と裏通りを歩いていく。
ガイゼルは砂除けの外套を上に羽織っており、ツィツィーも似たような上着を街に入る前に着せられていた。そのままの格好では、さすがに素性がばれてしまうからだろう。
賭博場や色街を横目に、ガイゼルは酒場へ向かった。二階が簡易の宿泊所になっているらしく、禿頭でがっしりとした体格のオーナーが部屋の鍵をガイゼルに手渡す。
「あんたら、ヴェルシアに行くのかい? あの国は今、皇帝の代替わりで荒れているらしいぞ」
「そうらしいな」
そのやり取りを、ツィツィーははらはらした気持ちで見つめていたが、ガイゼルはそれ以上何も言わず、二階に続く階段を目指す。
用意された部屋は簡素なベッドと机、椅子が一つあるだけだった。ガイゼルはベッドに腰かけ、ツィツィーに適当に座るよう告げる。だがツィツィーはためらい、立ったままガイゼルと向き合った。
室内に緊張した沈黙が流れる。
ようやく口を開いたのはツィツィーだった。
「……どうして、こんなことをしたんですか」
「どうして、とは?」
「だって、私はもうガイゼル様とは、何の関係もないですし」
「お前が勝手に出て行っただけだろう。俺は別れた覚えはない」
ガイゼルの怜悧な視線に、ツィツィーは臆しそうになる心を必死に奮い立たせる。
「それは、……そうすることが、陛下のためだからです!」
「誰がそんなことを決めた」
「誰だってわかります! こんな、利用価値のない、私より……もっと大切にするべき方がいるじゃないですか!」
ツィツィーは、ぽろり、と自分の目から涙が零れたのが分かった。だが拭うこともせず、ひたすらに思いの丈を吐き出していく。
「私は、先代に送られるはずだった……ただの人質で……それを陛下は……可哀そうに思って、引き取ってくださった、だけなんでしょう?」
乾いた木の床に、ぽつぽつと水滴が染み入る。
(こんなことを、言いたい訳ではないのに……)
本当は、すごく――すごく嬉しかった。
会いたい、と願っていたガイゼルが突然目の前に現れて、驚き目を剥く姉たちを横目に、ツィツィーを迎えに来てくれたのだから。
でも彼はヴェルシアの皇帝。
ラシーの姫などに、情けをかけていてはならない。
「私は、第一皇妃なんてふさわしくないんです。陛下にはもっと、素敵で、素晴らしい方が隣に立つ、べきで……」
最後の方は、声にならなかった。再び静寂が部屋を満たす。やがてガイゼルがはあ、とため息をついた。
「言いたいことはそれだけか」
「それだけ、だなん、……て⁉」
気づけば、ツィツィーはガイゼルに抱きしめられていた。逞しい胸板を前に、ツィツィーはどうすればと困惑する。だがガイゼルは、回していた腕にさらに力を込めた。
「悪いが、俺は憐憫のためにお前を娶ったわけじゃない。俺は――お前だから第一皇妃にと望んだんだ」
今度はツィツィーが混乱する番だった。
「私、だから……?」
「そうだ。お前は覚えていないだろうが、俺は以前ラシーで、お前と会ったことがある」
その言葉に、ツィツィーは先日見た夢を思い出した。あの時出会った黒髪の少年は、幼い頃のガイゼルだったのだ。
「俺は母を亡くし、ヴァンの伝手でラシーに身を寄せていた。あの頃の俺にとって、母親は絶対的な存在だった……」
感情表現が得意でなかったガイゼルは、母の葬儀でも一度として涙を流さなかった。その姿を見て『恐ろしい子どもだ』と囁く大人たちは多かっただろう。
しかし幼い子どもが母を失って、悲しくないはずがなかった。ガイゼルはただそれを表に出すすべを知らなかっただけだったのだ。
「どうしたらいいか分からなくて、一人で彷徨っていた。そんな時、お前に会った」
雪のような白い肌に、氷のような艶やかな髪。ラシーでは赤い髪と目の人ばかりだったので、ガイゼルは一目見た瞬間、あまりの美しさに心を奪われてしまった。
だが彼女はそんなガイゼルを前に、急に髪を隠す素振りを見せたので、ガイゼルは咄嗟に「綺麗だ」と口走ってしまったそうだ。
「その時の俺は、つらいとも、悲しいとも言えずに、ただ一人で涙をこらえているような……弱い、子どもだった」
誰もガイゼルの気持ちに気づくことはなかった。彼自身も、人に気取られぬようにふるまっていた。だがツィツィーだけが、ガイゼルの崩れかけた心を拾い上げてくれた。
「あの時、俺はお前に救われた。あれからずっと――もう一度会いたいと、それだけを願っていた」
ガイゼルの声が掠れ、抱きしめる力が再び強まる。同時に彼の飾らない心が、ツィツィーの胸になだれ込んで来た。
『あの時、俺がどれだけ嬉しかったか……心の支えになっていたかなんて、お前は知らないんだろうな……でも俺はあの日からずっと、お前と再会できることだけを希望に、生きて来たんだ。本当に……ずっとずっと、好きだったんだ……』
「ガイゼル、様……」
ツィツィーの小さな呼び声が聞こえたのか、ガイゼルはようやくその力を緩めた。だが腕の中から解放するつもりはないらしく、ツィツィーを見つめたまま、はっきりと告げる。
「俺は、お前が好きだ。お前以外を妻に迎えるつもりはない」