第二章 5
「……ツィツィー?」
気づけばツィツィーは、ガイゼルを押しのけるように両手を伸ばしていた。ガイゼルが掠れた声を零すと、はっと何かを思い出したかのようにツィツィーは顔を上げる。
「す、すみません! ガイゼル様、その……」
口づけを拒否するような真似をしてしまった、とツィツィーは慌ててガイゼルの胸から手を離した。今度こそ、と思っていたはずだったのに。
(考えてはダメだと、分かっているのに……)
黙り込んでしまったツィツィーを前に、ガイゼルはしばらく何かを考えていたが、やがていつもの嫌味な笑いを浮かべると、ツィツィーの額を軽く指ではじいた。
「いたっ」
「怖気づいたか」
「そ、そういう訳では」
「安心しろ、抱く気はない。……いいから今日は寝ろ」
ツィツィーが反論しようとする前に、ガイゼルはツィツィーを押しのけると、さっさとベッドの半分を占拠し背を向けて横になった。この様子では本当にただ一緒に寝る、という意味だろう。
申し訳なさと少しだけの安堵を胸に、ツィツィーはそうっとドレスを緩めていく。その間も先ほどの男の言葉が、じわじわとツィツィーの心を侵食していた。
(でも、そんなの、聞けないわ……)
勇気を出して尋ねたとして、一体何の意味があるというのか。どんな姫が来るのか、自分は第一皇妃を降りるのか、ガイゼルとはどうなるのか、……そんなもの、聞いたところで何一つツィツィーには口を出せないことだ。
やがてツィツィーの中に、ガイゼルの小さな心の声が響いた。
『また、怖がらせてしまった……俺は、本当にだめだ……』
傷つけてしまった、とツィツィーは後悔する。本当ならガイゼルを慰めるのが皇妃の務め……と、頭では分かっていても、ツィツィーの気持ちは未だ遠くに取り残されたままだ。
それでも、ガイゼルのせいではないと伝えたくて、ツィツィーはそっと彼の背中に指を伸ばした。広くしっかりとした上背は、静かな呼吸を繰り返している。
「……おやすみなさい、ガイゼル様」
その声に、ガイゼルの返事はなかった。
その夜。真白に輝く月が、二人の寝室の窓枠を照らし出す。すうすうと穏やかな寝息を立てるツィツィーの隣で、ガイゼルはゆっくりと体を起こした。
「……」
美しい白銀の髪はベッドに散り、輝くばかりの白い肌を見せながら、ツィツィーは幸せそうに眠っている。紺碧の瞳が見られないのは残念だが、怯えさせずに済む、とガイゼルは一人で小さく笑った。
(どうしてお前はいつも、俺の欲しい言葉をくれるんだろうな)
ガイゼルが式典を早々に切り上げ、本邸に急ぎ戻ろうとしていた途中、中庭で誰かの話し声がした。いつもの誹謗かと聞き流そうとしていたが、そこにツィツィーが現れ、彼らに説教をし始めたのだ。
傍で見ていたガイゼルは一瞬呆気にとられたが、あまりに必死なツィツィーの様子を見て、顔が緩むのを抑えきれなかった。つい助け舟を出してしまった、と男たちの驚くさまを思い出して「くく、」と唇を噛み締める。
(俺のために、たった一人で……)
舞踏会でもそうだ。自らの容姿や境遇についてどれだけ言われても、決して笑顔を絶やすことがなかった。皇妃として、ガイゼルの妻として、完璧な立ち振る舞いをしてみせた。
かと思えば、あんな男たちの噂話一つに感情的になって――
(もしかして、『俺』を侮辱されたから……か?)
嬉しさを隠しきれないガイゼルは、眠るツィツィーの髪を一筋すくいとった。手の平に流れるそれは、絹糸のような滑らかさだ。起きている時がだめなら、せめてこれくらいは、とガイゼルは髪の先に口づける。
「――俺が代わりに、あなたを愛する」
ぽつり、とガイゼルは呟くとツィツィーを見つめ、祈るように目を閉じた。
――あれはツィツィーがまだ、幼い時のことだった。
その頃のツィツィーは心を読む力がとても強く、周りの感情や思考が勝手に飛び込んで来ていた。
ある日ツィツィーは、母の心の声に間違って反応してしまい、驚いた母はそれ以降、ツィツィーを「悪魔の子」と蔑んだ。
以来ツィツィーは姉たちのいるお城ではなく、遠く離れた位置に建てられた塔の一角で生活するようになった。
出歩くことが許されるのは、部屋の中と塔の周りの小さな庭園だけ。あまり人の通らない場所らしく、護衛の兵士と世話役が何人か訪れる以外は、変わり映えのしない日々をツィツィーは過ごしていた。
そんなある日、見知らぬ少年が庭園に迷い込んできたのだ。綺麗な黒色の髪と青い瞳をした少年は、ツィツィーを見ると、驚いたように目を見開いていた。その様子にツィツィーは隠さないと、と咄嗟に自身の髪を両手で掴む。
(どうしよう、嫌がられるかも)
だが少年はツィツィーをじっと観察したかと思うと、不思議そうに首をかしげた。
「なんで髪、隠してるの」
「だ、だって、私の髪、お姉さまたちと違って醜いし……」
「そんなことない。綺麗な髪だ」
今度はツィツィーが目を丸くする番だった。少年はぶっきらぼうにそう言うと、そのまま庭園の隅に座り込んでしまった。どうしたのだろう、とツィツィーが近づくと「うるさい」と睨んでくる始末。
「すぐに出て行く。放っておいてくれ」
冷たく言い捨てると、少年はそのまま一言も発さず地面を見つめていた。その表情は険しく、怒っているかのようで、ツィツィーも一度は離れようした。だがその時、彼の心の声がツィツィーのもとに静かに舞い下りたのだ。
『お母様……どうして死んでしまったの……』
それはあまりにも悲痛な、泣き声だった。
『僕、一人になっちゃったよ……もう誰も、僕を愛していると言ってくれない』
切羽詰まった様子に、ツィツィーは思わず少年の様子を窺った。だが物言わぬ彼は、仮面を張り付けたような無表情になっており、とても嘆いている風には見えない。しかし本当の絶望に見舞われた時、人は涙すら零せなくなるとツィツィーは知っていた。
ツィツィーもまた母から疎まれ、姉たちから蔑まれ……でも泣けば一層相手を怒らせてしまうと知った時、同じように一人心の中だけで泣いたものだ。
でもそれは、結局悲しみを倍増させる行為でしかない。人によって与えられた悲しみは、人によってしか癒されない。
経験でそれを得ていたツィツィーは、自分のような思いを少年にさせたくなかった。だからツィツィーは――
「……?」
ツィツィーが寝室で目覚めた時、既にガイゼルの姿はなかった。そのことに幾ばくかの寂しさを覚えると同時に、ツィツィーは先ほどまで見ていた夢の最後を思い返す。だがどうしても、何をしたのか不明瞭なままだ。
(昨日は陛下に、失礼なことをしてしまったわ……)
昨晩、ガイゼルが眠っていた辺りにそっと手を伸ばす。とうにぬくもりは失われており、ツィツィーはそれを見て、一人静かに誓った。
(私は、私だけは、――陛下の味方でいよう)
あの恐ろしい王宮の中、一人きりで戦っているガイゼルの力になれるのなら。
だがそんなツィツィーの祈りは届かなかった。
お披露目会から数日後、ルクセンが本邸を訪れた。応接室に入った彼は「人払いを」と指示し、ツィツィーと二人きりになったところで、静かに切り出す。
「――陛下と、離縁していただきたい」
少し前から、イエンツィエから第二王女の輿入れを希望する話がある。だがあれだけの大国の姫を招いて、第二皇妃とするわけにはいかない。しかしガイゼル陛下にどれだけ進言しても、絶対に首を縦に振らないのです、とルクセンはため息をついた。
「陛下が、あなたの身上を憐れんでいることは、わたくしどもも理解しています。ですがこのままでは、イエンツィエとの外交問題となりかねません」
ルクセンの言葉には、長い間ヴェルシアの内政に携わっていた、賢者としての重さがあった。ツィツィーにも彼の言うことが間違っていないと理解できる。
「……今、陛下を取り巻く状況は非常に悪いのです。先代の崩御から間もない上、臣下から上奏される意見をことごとく切り捨てている。寡黙な人柄も、理解されなければ人心は掴めない」
「……」
「先代のディルフ様は恐ろしい方ではありましたが、我々臣下の心を掌握することにとても長けておられた。今なお彼を支持する者は多い。そんな中、ガイゼル陛下の勝手でイエンツィエとの関係が悪化するようなことがあれば……」
それより先は、聞かずとも明らかだった。押し黙るツィツィーの前に、一枚の羊皮紙が置かれる。
「暫定的ではありますが、これは我が国からラシーに対して、和平を保障する親書です。少なくともガイゼル陛下の御代では、ヴェルシアがラシー相手に戦いを持ち掛けることはないでしょう。どうかこれをもって、ツィツィー様には二国の安寧をお祈りいただきたい」
ルクセンの口調は柔らかかったが、はっきりとした意志を含んでいた。彼の指に嵌められた指輪の赤い石をぼんやりと見つめながら、ツィツィーはそっと親書を手に取る。
(私の目的は、ラシーに争いを招かないこと――)
手の中に、その結果がある。
きっと半年前のツィツィーであれば、素直に喜び、この提案を聞き入れていたことだろう。だが――
(私は、ガイゼル様を守りたいと……)
イシリスの湖で『父のようになりたくない』と伏せていたガイゼルの横顔を思い出す。ツィツィー、と何度も呼ばれたこと。皮肉めいたことを言うくせに、心の中ではツィツィーのことばかり心配していること。ツィツィーの気持ちが追い付くのを、ずっと待ってくれていること。
表情には出せない。
けれどツィツィーの心の中だけで、涙は溢れる。
(私は、……わたし、は……)
本当は、離れたくない。
だが、本当に陛下のことを思うのであれば――ツィツィーが取るべき行動は、たった一つしかなかった。