序章
木曜日。日が沈んで闇夜の世界が広がったあと。賑わう街とは正反対の静かで不気味な雰囲気が漂う路地裏に、真に悩める人間にしかたどり着けない、小さな店が現れる。悩み苦しんだ人は彼の地に向かい、人知れずに消えていく。そうして消えて行った人の行方は、誰にも掴むことは出来ない。
じわじわと確実に広がっていく。ネットを媒介として好奇心旺盛な若者を中心に広がり続ける、嘘か真かも分からない噂、都市伝説の類。
ある程度の目星をつけて、今日も一人で探しに行く。
どうせ今日も空振りであることは間違いない。行く前から確信が持てていた。
それでも行くのはきっと、もうどうしようもないほどに現実が苦しいからだ。
人とは少しだけ違っていた。そう、ほんの少しだけ。自分では少しどころかごく僅かな差であると思っている。
それなのに、他人は自分を避けていく。いつでも孤独で、いつでも一人きり。親にも気味が悪いと距離を置かれて、楽しいことなんて何一つない。
ただひたすらに、歩く。周囲が友達や大切な誰かと歩む中で、俺はただ一人で歩いていた。
もちろん今日は木曜日。時刻は十八時を過ぎた頃。日は沈んで、辺りは暗い。季節は十二月。夜になって一層冷たさを増した風が吹き付ける。
ザワザワと賑わう通りを歩いて、やましいことなんてしていないはずなのに、人目を気にしてそそくさと誰も見向きもしないような路地裏へ足を踏み入れる。
この時期が一番嫌いだ。街を歩けば家族連れや恋人同士ばかりで、闇夜を照らすイルミネーションを見ながら幸せそうに過ごしている。自分との違いを見せつけられているようで、どうにも気分が悪くなる。
これが大都会なら路地裏でさえも賑わっているのだろうか。地方の都市と呼べるかどうかも怪しい路地裏は、野良猫すら寄り付かないひどく寂れきった世界だ。
「此処も違う……」
学生鞄をゴソゴソと、くしゃくしゃになったメモを取り出す。いくつもの場所が記されている。
鞄の中で転がっていたボールペンを持ち出して、ばつ印を描く。メモ用紙はそれ以外にも、夢に満ちたたくさんの文字と落胆のばつ印で埋め尽くされていた。
「馬鹿らしいな、本当にあるわけないのに」
今日来た場所が、自分の力で導き出した最後の希望であった。
正直、此処が外れていたなんてという気持ちもある。濃い疲労が身体を包み込もうとしているが、それでも闇雲に探し続けていた。しかしどれだけ探そうにも、それらしき店はない。
やはり、ネットで噂される路地裏とは東京のような大都会のものを指すのかもしれない。こんな田舎の都市と呼べるかも疑問が浮かぶような場所では、ダメなのだ。
本当に存在しているのかも分からないものを追い求めるということは、想像していたよりも至難の業であることに今更ながら気付かされた。
「東京、か……。一人で行く勇気もないしなあ」
そんなことをブツブツと呟いている時だった。
キイ、と音が聞こえた。それほど大きくない音だというのに、やけに鮮明に脳裏にこびりつく。
視線を向けるとそこには施錠されているはずの、地上から屋上へ向かう階段の扉が開いていた。
何故だろう。とてつもなく、惹かれる。
何かに導かれたようにして、ふらりとそちらへ足を向ける。
寂れた路地裏にある、扉も壊れたような管理の行き届いていない屋上には誰もいるはずがない。それなのに、不思議と誰かに呼ばれている気がしてならない。ついに頭がおかしくなったのだろうか。
そうこうしているうちに、あっという間に屋上の端っこにたどり着く。眼下には、明るい街の風景が広がっている。こんなに高い場所に階段だけを使って上ってきたというのに、疲れを感じない。
「行ける」
自信に満ちていた。きっと大丈夫、今ならば。
「たどり着ける……!」
決心も何もないまま、ただ漠然とした自信だけを持って宙に身を投げた。
その瞬間を見届けようと思うのに、風圧で目も開けられない。これでは自分がどうなってしまうのかが分からないーーそこまで考えた時、ぶつりと意識が途絶えた。
普通の人間ならば、きちんとした考えを持つ正常な人間ならばたどり着かない答えがある。
普通でないモノと、己が異常だと自覚したモノだけがたどり着くことが出来る場所がある。
悩み、彷徨い続けた俺はついに扉を開くことが出来たのだ。
しかしながら、それを幸運と呼べるかどうかは俺自身の問題であり、赤の他人には決して分からないであろう。
* * *
「兄さん、見つけたよ?そうそう、さっきの警報のヤツ。まだ若いんだよねー、私と同じくらいだと思う。連れて行くから、必要な物は用意しておいてね」
誰かの話し声が聞こえてくる。テンポ良く話す声は若い。しかし、不思議なことを言っているーーそこまで考えて、意識がはっきりとしてきた。
「目、覚めた?君、いくつ?あ、言っておくけれど死んでもないし、残念ながら此処は君のいた日本で間違いないからね?」
早口言葉のような説明は、現実離れしていて理解する前に抜けていく。
視線の先にいるのは制服を着た女の子。ただし、学生が着るようなものではない。しかし近くには女子高生に人気の鞄が置いてある。
でもおかしなことを聞いた気がする。此処が、自分のいた国と変わらないだって……?
「あれ。さっきまで夜で、屋上にいたのに……」
どう見ても夕暮れ。まだ夜の気配はしてなくて、日が沈むにはあと少しばかり時間がかかると思われる。十二月だというのに、肌寒くもない。おかしい。明らかに日本ではないような気がする。
屋上から飛び降りたーーそうだ、確かに飛び降りたというのにどこも痛くない。擦り傷一つないのは、さすがに奇妙な話だ。
本当に日本だというのか、此処が。でも確かに、目の前の少女はどう見ても日本人だ。真っ黒で艶のある髪に、ちょっと気の強そうな顔立ち。みんなから頼られそうな雰囲気を持つ彼女は、確かに日本語を話している。
「詳しい説明は移動してから。さ、行くよ!」
倒れ込んでいた僕の腕を掴んで、引っ張り上げる。同年代の女子にしては、力がある。一瞬で起こされたと思うが早いか、気付いたら宙にいた。
「は、……えっ!?」
知らない街の風景が眼下に広がっている。今までに見たこともない建物もある。あれは何だろう、と思う前に景色がどんどん変わっていく。此処が、日本?疑問はどんどん湧いてくる。
腕を掴んだまま平気で宙を渡る彼女の長い髪が、夕日に照らされてきらきらと光り輝いているように見える。幻想的な光景である。こんな光景が見られるというのに、本当に日本だというのだろうか。
「神田!またお前は、無茶なやり方で連れて来て……!」
地面に足が着いた、と同時に怒鳴られる。怒りの声は、すぐ近くで聞こえる。いや、どうやら降り立った場所に誰かが走り寄ってきたようだ。
「だってこっちの方が速いんだもん。そんなことより、先生?まだ若いのに怒ってばっかだと、近い将来、魔の人達みたいになるんじゃない?」
「不敬だぞ!……お前は、人の始祖の候補者だと言うのに何故いつもそうなんだ!」
「あーもう!こっちは仕事なの、急いでるの!!兄さんと響さんが待ってるんだから、先生のお説教は後でね!」
腕を引かれるまま、進んでいく。突然始まった口喧嘩に目を奪われていたが、よくよく周りを見渡せば、校庭のような場所にいた。学校だろうか。それにしても、広い。
「あの喧しいのは教師……あ、此処はこの都市の中心部ね!学校も兼ねてるんだけれど、年齢は関係ないから上から下までかなり幅広いんだ。まあ、学校って言うよりは研究施設って意味合いが強いんだけれど」
こう言っては何だが、外見に似合わず随分と男勝りというか、損な話し方だ。黙っていれば大和撫子のような可憐さがあるというのに、何故こんな話し方なんだろうか。
案内をしてくれているようだが、頭が混乱していて何がなんだか全く分からない。見たところ、普通の学校と変わりはないように見えるが、とてつもなく広そうでもある。
「響さん、連れて来ました!」
ノックもせずに、扉を開く。
室内はまるで、保健室のようだ。薬やベッドが置かれている。
かなり広く、パソコンに向かって作業をする人達が多くいた。どちらかというと実験室のように見えるが、正確なことは何一つ分からなかった。
「お疲れ様、澪。その子が今回の迷子、だね」
進んで行った先には物腰の柔らかそうな青年が一人いた。全体的に色素が薄いせいか、儚げな印象だ。
そして彼の隣には明らかに異質な人が立っている。この世界には存在しないような色の髪とぼんやりと光る瞳を持つ、とても美しい人であった。
その女性を見た瞬間、ああこれは現実のことなんだと理解出来た。混乱していた頭がすっきりと落ち着いてきて、部屋を出る頃には新たな生活への期待と不安でそわそわしていた。