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後編

 

 授業の始まりを告げるチャイムの音が、どこか遠く聞こえる。未だに不機嫌そうな羊を、兎紀は困惑気味に見上げることしかできない。当たり前だ。兎紀は羊が不機嫌だった時など今まで見たことがない。その上、不機嫌であるというのに兎紀の腕を引き続けている。不機嫌であるならば、そしてその理由が兎紀にあるというのならば、むしろ一緒にいたくないはずではないのか。


「羊…?」


 呼びかけても、何の反応も返してはくれない。いつもならば少し袖を引っ張れば、けだるげそうにしながらも目線だけは兎紀を見てくれたのに。


 やがて連れてこられたのは、いつもお昼を過ごしていたベンチだった。羊は兎紀をベンチに座らせると、自分は地面に膝をつき頭を兎紀の太ももに乗せた。兎紀は、羊の行動の意味がまるでつかめなかったが、すぐ近くにある羊の角の方が気になった。眼前に羊のくるりととぐろを巻いた立派な角がせまる。いつからか、触ってみたいと思うようになっていた角がすぐそばにある。手をほんの少し動かせば触れることができる距離に、兎紀は手を動かしては止め、動かしては止め、と忙しない。何故羊が不機嫌だったのかとか、この態勢は一体なんだとか、そんなものはあっという間に塵と消えていた。


 兎紀の葛藤を察してか、羊の頭がほんの少し動いた。びくっと耳を揺らした兎紀の手につるりとした質感の角が触れる。触ってしまったと身を固くする兎紀の手のひらに、羊は押し付けるように角を当てた。触っていいのだろうかと迷う兎紀と、ちらりと髪の合間からのぞいた黒目が合った。じっと兎紀を見つめる瞳に後押しされるように、兎紀は角の付け根を撫でた。ふ、と羊の口から吐息が漏れる。気持ちがよさそうに細められた羊の瞳に、兎紀の胸が締め付けられるような感覚を訴える。


「兎紀…もっと触って」


 初めて聞く、とろけるように甘い羊の声。まるで縋るように、兎紀の腰にまわされた腕。甘えるように太ももに擦り寄せられる頭。穏やかで、どこか甘やかな二人だけの空間。


 この時間が続けばいいと願ったのは、果たしてどちらが先だったのだろう。


***


 羊が兎紀に対して感じていた感情は、いつからかとても大きくなっていた。毎日毎日繰り返される二人だけの逢瀬。羊が嫌だと感じたことは一度たりともしたことがない兎紀のことを、羊はいつしか目で追うようになっていた。初めは、苛立つことがまるでない兎紀の傍が心地よくて、それがどうしてなのか知りたくなっただけだった。なぜなら、他の女子などは、良く自分を苛立たせることが多かったから。


 まず、苛立ちを覚える女子たちの言葉を思い出してみることにした。それを思い出せなければ、兎紀と他の女子の違いが分からない。思い出してみればなんてことはない。羊自身にも愛情を求めるような言動を、彼女らは必ずするのだ。羊は毎回彼女たちに最初に告げるのにもかかわらず。「僕は君を愛さないよ」と。

 だから、学習能力のない女子にはいら立ちを覚える。その点、兎紀は愛情を求めたことは決してない。兎紀にも最初に告げたが、兎紀はあっさりと問題ないと頷いていた。今その時の会話を思い出しても、羊はおかしくて笑ってしまいそうになる。


「僕のことが好き…?」


 最初であったのは偶然で、それからニ、三度会って会話をした。彼女に好きだと告げられたのは、会話も終割に近づいていた、そんな時だ。


「そう。羊のことが好きだ。だから愛させてほしい」

「いいけど…変な告白だね」

「そうか?」


 不思議そうな表情で首を傾げた兎紀に、思わず苦笑しながらでも、と続ける。


「僕は、君を愛さないけれど。それでもいいの?」


 そこから、名前の付け難い羊と兎紀の関係は始まった。


 けれど、と思考を切り替える。その一件だけではないはずだ、と羊は兎紀を見かけるたびにじっと観察し続けた。

 観察し続けて気づいたことは残念ながらそんなになかった。けれど、一つだけ。兎紀は、普段は笑わないことが分かった。羊といるときは、基本兎紀は笑っている。とても嬉しそうに、幸せそうに羊に向かって微笑んでいる。それが分かった時、羊の心がぎゅっと締め付けられたように苦しくなった。あまりの苦しさに呼吸が乱れたほどだ。その時から、兎紀の笑顔は羊の中で特別になった。自分だけに見せてもらえる宝物。その考えが既に、いつもと違っていたことに、終ぞ羊は気づかなかった。


 だから、ふと見つけた彼女が他の男子に向かって笑っていたことに、どうしようもなく苛立ったのだ。

 その時沸いた感情の名前を、羊は言葉にできなかった。分かったことといえば、兎紀も自分を苛立たせたにも関わらず、手放す気にはなれなかったということだけだ。


 ***


 それから羊と兎紀の関係性が変わったかといえば、特に変わっていない。あえて言うなら、お昼のルーティンに膝枕が加わったことくらいだ。膝枕というよりは、あれは獣的に言えば毛づくろいに等しい。兎紀の太ももに頭を寄せた羊の、角の付け根をいい具合に撫でるのが、新しく兎紀に許された項目だ。

 それ以外にも、羊は兎紀に甘えることが増えた。唐突に首筋に甘噛みしてきたり、腕や鎖骨辺りなどにすり寄ってきたり。そのたびに兎紀は正体不明の胸の締め付けに苦しむ羽目になった。


 今も、比較的敏感な角の付け根という場所をむしろ押し付けるようにして撫でさせる羊に、兎紀の表情は緩みっぱなしである。

 最初は、愛するという疑似的行為ができればそれでよかったのだと告白しよう。けれど、今は自然に羊に触れたいと思うし、学校のすれ違いざまに羊を見つけた時などは、焦点を固定されたかのように目が離せなくなる。兎紀はとても満足していた。自分の中にあるこれを、兎紀は愛情となずけて相違ないだろうと判断したのだ。当初の、愛してみたいという願いが成就したことは、大変喜ばしいことだ。


 だから。これ以上の気持ちに、兎紀は目を向けてはいけない。

 自分は最初から一方的な愛情が注げればよいだけだった。羊にも出会った当初、愛さないと言われている。これ以上は望んではいけない。そう思っている時点で沼にはまり切っていることに、兎紀は気づいていない。肉食的衝動が覚醒した羊に、じわじわと追い詰められていることにも、鈍い兎紀は気づいていない。


 ぐるぐるとした葛藤から抜け出せない兎紀を横目に、羊は心地よいまどろみの中でほくそ笑んだ。

 今朝、廊下で面白い話をオオカミの獣人が呟いていた。もっと求めてほしいという欲が止まらない、と。羊はその呟きを耳にして、ようやっとパズルの最後のピースが嵌ったように、自分の気持ちの名前が分かった。

 それは欲だ。オオカミの獣人と同じく、求めてほしいという欲。また、誰にも渡さないという欲。そして同じくらい、彼女からの欲が欲しいということにも気が付いた。兎紀の一方方向の愛情じゃ足りない。なぜならその愛は、ペットを愛でる物と同じだからだ。

 もっと明け透けに求めてほしい。羊がいないと寂しいと思ってほしい。もっと羊に触れたいと願ってほしい。羊の口付けが欲しいと強請ってほしい。今のままの、清廉潔白な愛じゃ足りない。


 羊が欲しいのは、兎紀の『欲』だ。羊は膝枕された態勢のまま、兎紀の腹にすり寄る。こうして度々擦り寄るこれが、マーキングだということに兎紀はいつ気が付くのだろう?

 そして兎紀が好きな黒目をのぞかせて愛しい彼女に微笑んで見せる。彼女の口から羊が欲しいと聞きたい。そうしたら、骨の髄まで捧げるから。

 ひつじが舌なめずりしながらうさぎを狙う。そんな一風不思議な光景が、今日もまた人気の少ない大木の下で、繰り広げられている。


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