幕間:アズリム
ヴァイオレットがいる国とは違うどこかの古城では、一人の少年が椅子に腰かけ頬杖をついて至極つまらなさそうな表情で窓から外を眺めていた。
青白い肌に、伏し目がちな赤い瞳は、闇のように黒い睫に縁取られている。
サラサラと顔にかかる漆黒の髪の毛は絹のように細く柔らかく、時折吐き出される少年のため息につられ揺れていた。
腕にも足にも薄く筋肉がついているものの、どこか弱々しい印象を持たせている。
彼の名前はアイザック・ウォルフィドル=アズリム。
「……つまらん。何か面白いことはないものか」
そうぼやきながら、彼は目を閉じた。
彼が本当に心待ちにしているものは、未だ彼の元に届かない。
彼も心の奥底では分かっているのだが、それでもこの退屈な日々に終止符を打ってくれる何かが起きることを望んでしまっているのだ。
アイザックはふっと自分の左腕へ視線を落とす。
そこには忌々しいあの女によって刻み込まれた、この世界で最も忌まわしき印がある。
赤黒い痣のようなそれは、まるで茨のように巻き付いており、決して消えることのない印だった。
アイザックの左腕から全身へ伸びようとしているその痣は、徐々に彼の力を奪い続けているのだ。
古より生きる長寿の種族、アズリム族の長として、これ以上力を失うわけにはいかない。
「一族にかけられた呪いを解くことも出来ず、こうして古城に身を潜めているしかないとは、なんとも滑稽だな」
ふっと自嘲気味に笑うアイザック。すぐに彼の脳裏に一人の人物が思い出される。
遥か昔、この地に存在したとされる、とある少女のこと。
その少女はここ数百年でも類を見ない魔力量の持ち主で、強い力を持っていたことが祖父の手記に書かれていた。
――……もっとも彼女は、それほど長くはない生をすでに終えてしまっているだろうが。
長きに渡り生きてきたアイザックとて、彼女を見たことはない。他種族の歴史からも葬り去られた、古の少女。
彼女がどんな瞳の色をしていたのか、彼女がどういった声だったのか……アイザックが知りえることは全て遠い昔の祖父が遺した手記から知ったものばかりだ。
祖父が彼女と出会っていたことが幸いだったのかどうか、今でも判断はつかない。
ただ一つ言えるのは、もし出会っていなかったのなら、自分は……
いや、この種族はとっくにこの呪いによって朽ち果てていただろうということだ。
アズリムの長として、一種族の当主として、アイザックは生まれながらにしてこの運命を背負わされた。
彼に課せられた運命はあまりにも重すぎる。
一族の血を絶やさぬように一族を率いていくという使命感と、その力が枯渇していく焦りと恐怖心。
二つの相反する感情を抱えながらも、彼は自らの生きる道を選択せざるを得なかった。
幸運にも彼にはそれを成す力があったし、同じくその力を持つ同胞も少なからずいた。
しかし、年々その数が減っていくのもまた事実。
今は自分とあと百数人の同胞しか残ってはいない。
このままいけば、いずれは自分も含め皆死んでしまうだろう。
アイザックはぼんやりと窓の外を眺めながら思考を巡らせていた。
そんな時だった。ふわりと微かな風が彼の頬を撫でたのは。
何かを感じた彼が静かに瞳を閉じながら意識を研ぎ澄ませると、どうにも不思議な感覚に陥った。
今まで感じたことのないような魔力の波動だ。
この古城にいながらにして感知できるとは、一体どういうことだ?
古城には幻覚や索敵妨害の結解が貼られているはず。
だからこそ彼はここから動こうとは思わなかったのだ。
他に比べて膨大な魔力を持つ彼は、ここから一歩でも出てしまえば女神リーベに察知される。
察知されてしまえば、大戦から生き永らえた一族は皆殺しになるだろう。
だから、生まれてからずっと、彼はこの古城の敷地外に出たことがない。
境界線で、外からも内からも魔力は遮断される。そのはずだった。
不思議に思いながらもアイザックがゆっくりと目を開くと、信じられない光景が眼前に広がっていた。
彼の瞳には、淡い光に包まれ中庭で悠然と佇む一人の少女の姿が映し出されていた。
アイザックは酷く驚いた。
この古城に突如として少女が現れたからではない。
少女が酷く見覚えのある衣服を着ていて、見たこともないくらいに美しい金の髪の毛と緑の瞳を持っていたからだ。
そのすべてに見覚えがある。彼女は祖父の手記にあった、あの少女だ。
彼女は、しっかりとアイザックの方を見据えて微笑んでいる。
あの少女が死んだとは一言も書いておらず、遺体を見たという記述もなかったが、彼女はヒュームだ。
大戦後行方不明となったはずの彼女。アズリムのように長く生きていられるはずもない。アイザックはてっきり彼女は死んでしまったのだろうと思っていた。
「そんな……まさか、生きていたというのか?」
今まで彼女について記された書物を必死で読み漁ってきたというのに、こうして目の前に彼女がいるという事実に酷く胸が躍る自分がいた。
彼女が生きているのであれば、もしかすると一族の呪いをどうにかできるかもしれない。
少しで良い、アイザックの中に希望が見えた気がした。
アイザックは少女に誘われるように椅子から立ち上がり、窓から中庭へと飛び降りた。
花壇には見慣れた美しい花々が咲き乱れている。
けれど、今この瞬間だけはアイザックがそれに関心を示すことはない。
彼の視線は中庭の中央に佇み、微笑む少女へと注がれている。
いつか見た手記を思い出す。女神の使徒という存在のことを。
リーベのことではない、女神カトレアの使徒だ。
彼女は女神カトレアの手足となり、世界の調和を目的としていた。
そんな彼女がなぜアズリムの城に現れたのか。
彼女に近づくにつれ、ピリッとした微かな痛みを感じたような気がしたが、そんなこと彼にはどうでもよかった。
ついに、少女が口を開く。少女の唇から紡がれる言葉は上手く聞き取ることができず、アイザックの耳には呪文のように聞こえた。
刹那、ぶわりとアイザックの魔力が膨れ上がった。それと同時に魔力だけではない、不思議な力が渦巻いているような感覚を覚えた。
感じたことのない魔力が全身を駆け巡っていくのを感じる。
ただ、それと同時に強い眠気がアイザックを襲う。
しまった、もしかすると、あの女神の罠だったか?
アイザックは頭を押さえながらも臨戦態勢を取る。
何も考えられないほどに頭がぼうっとしてきて、少女の言葉が一層上手く聞き取れない。
アイザックはそんなことを思いながら、ぐらりと体が揺れるのを感じた。
力が入らない……というより、気を抜けばすぐにでも眠ってしまいそうだ。
それほどまでに彼は魔力を消耗し、精神を疲弊させていた。
このままではまずい。彼は必死になって気を保っていたが、その努力も空しく少女の囁くような声に導かれるまま瞼を落としてしまった。
段々と意識が遠のく中、不思議と少女の声が頭の中に木霊した。
「あなたの魂はレティと共にある。
あなたが、トゥリエーフ国で、待ってる」
その言葉を最後に、アイザックは意識を手放した。
眠りから目覚めるとそこはベッドの上だった。
見慣れた天井を眺めながら、アイザックは上体を起こし辺りを見回す。
いつの間に自室へ戻って来たのだろうか。あれは本当に現実だったのだろうか。
それに、あの言い回し。あなた”が”トゥリエーフ国で待っているとは一体……?
疑問で頭がいっぱいになるアイザックの耳へ、扉の開く音が聞こえる。
音の方へ顔を向けると、そこには心配そうに眉を下げたアイザックの側近、クローヴィスがいた。
アイザックの顔を見るや否や、彼は笑顔を漏らし早足にアイザックへ近寄る。
そして、アイザックの無事を確かめるようにその体を抱きしめた。
それに抵抗することもなくアイザックは彼にされるがまま、事の顛末を尋ねた。
クローヴィスが言うには、夜部屋を訪れたところアイザックが見当たらず、開きっぱなしの窓から外を覗くと主人が倒れていたため慌てて連れ戻しベッドに寝かせたらしい。
今までそんなこと一度もなかったというのに、一体何があったんだと同胞達は心配していたようだ。
そんな話を耳にしながらアイザックは思案する。
自分はあの少女に害されたのか?しかし、殺すのなら寝ている間にいつでもできたはず。
狙いは一体、なんなのか。それに、先ほどから今まで感じたことのない魔力の波動を感じている。
まるで、自分が別人になってしまったような感覚だ。
アイザックは言い知れぬ不安感を覚えながらも、クローヴィスに自分が眠りにつくまでの顛末を話す。
「なるほど、庭先に少女が現れ、それが先々代の手記に記された少女と酷似していたがために特に警戒もせず外に出て会いに行ってしまったと……」
「……言い方が少し気に入らないが概ねその通りだな」
「はあ……まあ、無事でよかった。
それにしてもその話、どうにも引っかかりますね」
「そうだな、どうやって古城に入り込んだのか……」
アイザックの話を聞いたクローヴィスは、何やら考え込むように口元へ手を当てる。
そして数秒考え込んだ後、ハッと顔を上げた。そしてアイザックの方へ向き直った。
クローヴィスは少し低い声で、しかしはっきりとした口調で彼に語り始めた。
「アイザック様を探していたのはご報告があったからなのです。
トゥリエーフ国の公爵領で、レナトゥーアが目撃されたそうです。
そして、その傍らにはヴァイオレットという公爵家のご令嬢がいたとか……」
ヴァイオレットという名前を聞いた瞬間、アイザックの脳がずくりと疼くような感覚を覚えた。
しかし、すぐにそれは治まったため気のせいかと特に気にも留めなかった。
もし、レナトゥーアが連れていた人物というのがヴァイオレット……少女の言っていたレティなのであれば、アズリムを救う鍵となるのは、きっと彼女だろう。
アイザックは直感的にそう感じた。
「彼女の言っていたレティとは……」
「もしかすると、そうかもしれませんね。
あなたの魔力が感じられないのも、その少女が細工をしてリーベから察知されないようにした、とすれば……」
「……危険を承知で、古城を出てみるか」
「何十年も停滞していますから、やってみる価値はあるかと」
クローヴィスの話に耳を傾けながら、彼はこれから自分がどうするべきかを思案するのだった。
アイザックは今後の方針を固め、古城を出てトゥリエーフ国へ向かうとクローヴィスに命じた。
彼は決心したような面持ちで力強く頷いた。
ここ数百年で戦いとは遠く離れていた他種族の力は多少なりとも衰えているだろう。
当然といえば当然だが、戦闘に特化するアズリムに他種族が敵うことは稀だ。
魔力のない状態だが、魔法がなくても恐らく戦えるはず。
魔法がなくともアイザックは剣術も使える。クローヴィスに関してはアズリム一の剣士であり、誰よりも強い。
それは揺るぎのない事実である。たとえ弱体化していたとしても、ネムを除く他4種族に負けるはずがない。
「では、安全を期して他の同胞にはここに残ってもらい、我々は国境沿い辺りまで転移しましょう。
付き人は……私だけで事足りればいいのですが、念のためもう一人は欲しいですね。
できれば、隠密に特化した……」
「ヴォルフでいいだろう、暇そうにしてたしな」
アイザックが名を呼ぶと、部屋の隅で小さな音が聞こえた。
2人が視線を向けると、いつの間にかヴォルフガングが無邪気な笑みを浮かべてそこに立っていた。
「お呼びで?」
「耳がいいなお前は」
「へへ、それが俺の特技なんでね」
「俺の人選に異論がないのなら話は早い。善は急げだ。
早速、明日の朝には国境沿いに転移しよう」
ヴォルフは明日の準備のため自室に戻り、クローヴィスもアイザックと自分の荷物のためにその場を離れた。
残されたのは静寂に包まれた部屋でベッドの上に寝転がるアイザックだけ。
やっと見えた一族の希望、それからこれから見ることのできる外の世界に、高まる鼓動。
なんだか子供みたいだ、とアイザックは一人、笑みを零すのだった。
いつの間にか4年も経っていて驚いてます。