レストラン
ホテルの最上階のレストラン、深紅のカーペットを敷きつめた廊下、テーブルの上には約束通り鮮やかな光をゆらゆらと優しげに投げかけるキャンドルが、薄暗い空間を演出している。修治は、灯り越に向かい合った雅博の顔に目を向けた。微かに笑みを含んだその顔は、いつもと変わらず優しげではあったが、それでもその優しさ知り尽くしているはずの修治にとっては、これから起こる全てのことが見通せるような気がした。それに気が付くと同時に、一時でも早くこの場から立ち去りたいと言う衝動に包まれた。自ら恐ろしくて開けることのできなかった扉を、今何ゆえにこの人が、開こうとするのか? このまま、時が経つのをただ呆然とやり過ごせば、いいはずだったのに。
ワインが届けられ、オードブルがテーブルを飾り、暫くの間、別に何事もない話題が二人の間を行き交った。ウィンドウの向こう側は、霧がそこに鎮座しているせいか、ほとんど視界はなく、ただ微かにネオンの赤が届く程度だった。キャンドルを目の当たりにして修治は、平素を装うのに必死だった。それでも、時は流れた、恐ろしくゆっくりとしたペースで、冷えていた皿が片付けられ、少しの沈黙の後、二人の空間をやっとのことで繋ぎ止めていたはずの一本の弦を、今正に断ち切ろうとするかのごとく、雅博がその沈黙をさえぎった。その言葉は、次のように始められた。
「ところで、今日ここに君を呼んだのは、・・・・・。」
そこまで言うと、雅博はワイングラスを一気に傾けた。雅博の喉を、赤い液体が流れ落ちるのを見つめているうちに、修治は、雅弘の話す言葉が理解できなくなっていった。
「君を、ここに呼んだのは、他でもない。二人の関係のことなんだが。君も知っている通り俺には妻も子供もいる。いいね・・」 雅博がそんな事を言っているとき、修治には、もう何も聞こえてはいなかった。修治は、自分がどうして今ここにいるのか、何をどうしたかったのか、今まで何に時間を費やしていたのか、一体自分は何者で、どこから来て何処へ行こうとしているのか?何もかもが解らなくなっていった。答のでない空間を一時泳いで、この薄暗い空間に再び戻りついたとき、雅博の話は次のような下りに差し掛かっていた。
「修ちゃんのことは、大切に思っていた。修ちゃんも俺のこと、大切に思ってくれていたはず、でも、そんな君の愛情に、この俺は、答えられないんだよ。分かるよね、修ちゃんが誠実で、あればあるほど、・・・」
そこまで言ったとき、修治の中で得体の知れない怒りが、込み上げてきた。修治はそれと同時に、大きくテーブルを打ち付けた。次の瞬間修治は、雅博の瞳を遥か上部から睨み付けていた。
「あなたは、一体何の為に、今日俺を此処に呼び出したんですか?そんなに恐いんですか、俺が!馬鹿にするのもいい加減にしろ。」
そう言うと、修治は、自分のワイングラスの中の液体を、雅博に向かって浴びせ掛けた。赤い液体が宙を舞い、灯かりの向こう側の紳士のシャツを染めるまでの瞬間に、修治の中でピキピキと音を立て、壊れていく物があった。けれどその音は、彼が大切にいていた宝物が壊れる音ではなく。ここ数日間、彼を取り囲んでいた混沌としたガラスの扉が、砕け落ちる音であった。 彼は、その場を立ち去り、クロークを抜けエレベータホールへと足早に、身を進めていた。
俯き加減で、回転扉の方に向かう修治の足取りは、ある一定の力強いリズムを刻んだ。そのリズムは、彼の怒りを棟の高いこの空間へと拡散させるのに役立った。自分が抱き続けていた想いと、雅博のそれとの隔たりは、あまりにもかけ離れていた。雅博にとって、二人の間での一部始終は、退屈な時間と空間を彩り脚色し演出する、唯のお遊びでしかなかった。そんな架空の事象が現実へと、移行しつつあると感じたとき、それ自体が、手に負えない厄介な化け物へと変身を遂げる。そこで、雅博はそのお荷物をとっとと整理し、破断機にでも掛けようとしている。
修治は、出口に向かう自分の足下を見つめながら、そんなことを考えた。しかし次の瞬間、雅博自身を整然と自分の中で定義づけることさえ、馬鹿げた無意味なことに思えた。薄れゆく怒りと相反して、修治を新たに包もうとしていたものは、虚無とも言えぬある種白けた思いであった。「馬鹿みたい」そんな言葉を、雑多な音を吸収し続けているだろう薄汚れたベージュ色の絨毯へと投げ捨てた。 回転扉に体重をもたらせ掛け外気との気圧差と格闘していたとき、扉の向こう側に駆け寄ってくる大男がいた。太である、二人は回転扉を間に右往左往を繰り返した。
結局、修治が扉の外で待つことで、右往左往は解消され、最後に扉を押しきりながら太は、第一声を漏らした。
「ごめん・ごめん、遅れちゃって。」肩で息をしてネクタイを手で緩めながら、こう続けた。
「でも、ご立腹あそばされ帰還されるほど、遅れたつもりは無いんだけど。」と太が言うと、
「いや、別に怒ってなんかないですよ、それに・・・」と修治は答えた。
一二月の冷たい空気と、少々唐突な太の出現に戸惑いながら、更にこう続けた。
「留守電聞かなかったですか?」
「留守電?聞いてないけど。」
「今日用事が出来て会えなくなったって、留守電に入れたんですけど。」
「そうだったんだ。」 落胆をその力強い瞳の奥に僅かに漂わせながら、
「でも、それならどうして君が、此処にいるのかね?」
と太が、2つの質問を同時に投げかた。
「それは・・」 太の吐く白い息と額の汗と掻き乱されたネクタイを見ながら、こう続けた。
「このホテルで人と会っていたんですけど・・・すっかりそっちの用事は終わったもんですからその・・・。」此処まで言うと、太がその後を続けた。
「と、言うことは、小生との約束は果たせると考えて、よろしいのでしょうか?お坊ちゃま」
「そうですね。でも、その言い回しいちいち感に障るので、やめてもらえませんか?」
「ごめん、ごめん。それじゃ兎に角、食事に行こう。いいね。」
「うん。」
二人は、数少ない段差を降り、きらびやかなイルミネーションと、年に一度の華やかな瞬間へと向かう人並みの中に紛れ込んだ。




