一期は夢よ、ただ狂え
藤二郎は田んぼの畦身をぶらぶら歩いていた。農作業の合間にこさえた組紐を売ってきた帰りだった。
陽は沈んでいたが、山の端に紫が往生際悪く残っていた。
帰って夕餉の支度をしよう。切り干し大根を早く食って仕舞わなくちゃ。そう思うのに、足は一向に家に向かない。意味もなくその辺の落ち葉を蹴り上げたりする。
藤二郎には母がいるが、今はこの地方の領主の城で下女をしていて薮入りはまだ大分先になると聞いている。息が白くなるほど寒いのに、帰っても囲炉裏に火も付いていない。がらんとした狭い部屋が、藤二郎にはたまらなく侘しく思えるのだった。
「そこの、坊主」
唸るような男の声がした。
振り返ると誰もいない。狐狸の類いだろうかと思いながらどこにいるのか呼びかけると、ここだここにいると、水の抜かれた田んぼから返事があった。
「どうしたんだ、転んだのか」
藤二郎は田んぼに横たわる男に声をかけた。
近く寄ると、血となんだかかいだ覚えのある臭いがした。藤二郎は咄嗟に口元に手を当てた。さもなければ叫び出しそうだった。
男は酷い有様だった。眼下は落ち窪み、年齢もわからないほど憔悴した顔の上に白髪混じりの髪が方々伸びている。はっきりと死相が出ていた。赤黒く染まった筒袖の衣はその辺の物売りがよく着ているものだが、男の風体からして堅気の人間とは思えなかった。
「あんた…」
飲み込んだ言葉の続きを促すように、男は藤二郎の顔を虚ろな目で見遣った。
「あんた、死ぬのか」
ややあって返事があった。
「そうなるな」
「おれに何かして欲しいことはあるか」
藤二郎は浅い呼吸を繰り返す男をじっと見つめた。彼の望みを聞くべきだと思った。男は短く息を漏らした。笑ったのかもしれない。
「俺の命が尽きる前に一つ、昔話を聞いてやってくれよ」
藤二郎は頷いた。
「俺は昔、大きな国で間者をしていた。自分で言うのも何だが、結構優秀だったんだぜ。どんな依頼でもこなしてきたさ。女房が俺に惚れたのもきっと仕事のできる男だったからに違いない。
何年か前、主人の命令で、ある城に潜入した。主人が仕掛けた奇襲の混乱に乗じて城主と若様を手にかけるために。
楽勝だと思った。実際、なにもかも計画通りに進んでいったんだ。城内の見取り図は事前に得ていたし、俺は新入りにも関わらず一切警戒されなかった。簡単にお殿様のところまで行けたさ、正面から堂々とな。奇襲など掛ける必要もないくらいあっけなくお殿様は逝っちまったし、残るは俺が護衛していた、ほんの子供の若様だけ」
ところどころ聞き取れないような、弱々しい声だった。藤二郎は一言も聞き逃さないようにじっと耳を傾けていた。
「だが、俺は若様を殺せなかった」
「何故?」
男は一瞬黙った。
「子供をなくしたばかりだった」
「…」
「ちょうど若様くらいの年の子だったんだ。背格好もよく似てて…だから、どうしても重ねちまって。嫌だねぇ、親父ってのは、情が移ってちまって。挙句に主人にバレて散々逃げ回ったんだがこのザマさ」
「全部俺の我儘だったんだよ。若様を近くで見ているうちに、すっかり父親の気分に戻っちまったんだ」
「そうか」
「だから、若様。いや藤二郎。泣くなよ。俺の女房は忙しい奴だが、俺よりずっと図太い女だ。息子のおまえを置いて出先で死んだりしねぇよ」
男ははっきりと微笑み、そのまま息を引き取った。
藤二郎はやがて立ち上がり、夜明け前に家路に着いた。