約束の場所
僕は列車の入口へ、足を掛けた。
「それじゃ、行ってくる……」
僕は、すぐ後ろにいる佳代に声を掛けた。
「うん。いってらっしゃい」
佳代は笑顔を向けて、僕の背中を押した。
朝早くの駅は、いつもとはまた違う喧騒の中にあった。ホームへ走り込む電車。そこへ駈け込んでいく大人たち。僕は、そんな姿を何も考えずに見つめていた。
「大人は忙しそうだね」
隣に目を向ければ、そこには同じように大人たちを見る佳代がいた。
「別に見送り何てよかったのに」
僕は佳代の顔を見て言った。すると、彼女は笑って言った。
「あたしがそうしたかったから、いいの」
僕は何て言い返せばいいのか迷った。
「まあ、いいなら、いいけど……」
僕に言えたのは、こんなどうでも良いことだった。もっと、言っておきたかった言葉は幾らでもあるのに、その言葉を言おうとすると、言葉は咽喉に詰まって、口から出るころには乾いた風にしかなっていない。結局、僕は佳代に言いたいことを言えないままだった。
「あとどれくらい?」
不意に佳代が僕の方へ体を倒した。僕は右腕に仄かな温もりと、重さを感じていた。
「ねえ、聞いてる?」
佳代が顔を覗き込んできて、初めて何か聞かれていることに気付いた。
「え…?」
「だから、あとどれくらい?」
佳代は手首を指さして言った。どうやら、時間のことを聞いているらしかった。
「あ、ああ…。あと、十分くらい……」
僕は、自分で言って暗い気分になった。こうしていられるのも、あと十分程しかない。そしたら、僕は嫌でも行かなければならない。僕は視線を足元に落とした。
「そんな顔しないの」
佳代は、僕の額を手で優しく叩いた。
「別に一生会えなくなるわけじゃないんだから」
佳代は僕の頭へ腕を回すと、優しく抱き締めてくれた。
「それに、しっかり約束させたし」
「その約束…」
僕は、小さく呟いた。僕の声は消え入りそうな声だったけれど、それでも佳代には十分聞こえていた。
「ん……?」
優しく聞き返す声に、僕は言葉を続けた。
「お前も、約束しろよ…」
僕の言葉に、佳代は小さく笑った。そして、腕に一層力を入れた。
「分かってるよ」
腕を解くと、佳代は嬉しそうな顔を、僕へと向けた。
電車のドアが閉まるまでの、短い時間。僕は佳代と言葉少なに話をした。
「たまにはメール頂戴よ」
「ああ。分かってる」
佳代は笑顔をつくろうとしていた。無理してでも、笑顔でいようとしているのが、僕には分かった。それだけに、心が痛んだ。
「なあ……」
「ん?」
「無理して笑顔つくんなくても、いいんだぜ…?」
僕は伏し目がちに言った。そのため、佳代がどんな顔をしたかまでは分からなかった。
「別に無理はしてないけど…」
そう言って、佳代は一旦言葉を切った。
「やっぱり、覚えておいてほしいから、さ……」
僕は笑って顔を上げた。その僕の顔を見て、佳代は目を丸くしていた。
「大丈夫だよ。忘れたりなんかしないから」
「あ、そっか……」
少しばかり安心したような、そんな優しい声を出して、佳代は僕の腰に手を回した。僕は黙って、彼女の頭を撫でた。
電車が走り出すまで、佳代はホームに立っていた。おそらく、電車が完全にホームを抜けるまで、彼女はそうしていただろう。
僕らは、また一つ約束をしていた。
次に会う時は、今日と同じ場所。
それが、二人の約束。二人だけの、約束。
僕は車窓から、遠く小さくなる故郷を見つめていた。