本
私は汽車を降りた。一陣の風が、目の前のベンチに置かれた本のページを繰った。背後で、私を運んできた汽車が、汽笛を響かせながら線路を走り出していた。私は、遠ざかるその姿を、ただじっと見つめていた。その姿が見えなくなる、その時まで。
私の降り立った駅は、人気のない、静かな無人駅だった。駅舎は白いペンキが塗られていたのだろうが、今ではすっかり剝げてしまっている。ところどころに残ったペンキが、辛うじて以前の姿を偲ばせている。
私は駅舎に目を走らせた後、ホームに置かれた古ぼけたベンチへ、腰を下ろした。
線路を挿んで向こう側には、雑草の生い茂る空き地がある。その向こうには、青々とした、田畑が広がっていた。
ホームの隅の方では、雀が二羽ほど戯れている。その姿も、私をどこか現実世界ではないところにいるような、そんな気にさせる。
ホームには、私以外の人影はない。決して広くないホームが、私にはどこまでも続く空間のように思われた。
私は無意識に、ベンチに置かれていた本を手に取った。
カバーもない本。ページの端は撚れて、ボロボロになっている。タイトルも分からない。
私はそんな本を開いた。今まで読んだことのない話。私は、その本を読むことに夢中になっていた。
私が気付いた時には、真上にあった日は、傾いていた。
遠くで、汽笛の音が聞こえる。
私はそれまで読んでいた本を、丁寧に元の位置に戻した。
私は線路の向こうへ、目を向けた。もう少しで、私の視界に汽車が入ってくるだろう。右手に鞄を持ち、私は立ち上がった。
汽車は緩やかにホームへ走り込み、止まった。私は開けられたドアから客車へ乗り込んだ。その時、誰かに声を掛けられたように感じ、私はホームを振り返った。
私の視線の先には、あの本があった。
……ああ、そうか。
私は、駅が見えなくなるまで、ドアから離れなかった。
数々の出会いと、別れを見てきた本。きっとこれからも、彼は多くの人と出会い、送り出していくのだろう。